見出し画像

現実を生き返らせる

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


大地、空、土、岩などの営みにより親しく加わるほどに、あらゆる物の中に神が宿るのがよく見えるようになります。この知覚は精霊信仰(アニミズム)の文化だけに限られたものではありません。詩人のデイビッド・ホワイトはスコットランドの離島で昔ながらの暮らしをしている漁師を訪ねたことを書いています。漁師はその日にする主なことの全てに祈りの言葉を唱えました。寝床から起きる祈り、カーテンを開ける祈り、食事をする祈り、舟に乗り込む祈り、網を打つ祈り。漁師の世界は精霊でいっぱいでした。何かがいつも見ていて、いつも聞いていました。世界の全てが生きていたので、彼は孤独を感じることなどありませんでした。

私たちの世界を生き返らせることは生態系の癒しにとって欠かせません。もし私たちが世界は死んでいるという知覚の中に生きているなら、生きているものを殺すことは当然の成り行きです。

世界の生き返りはどうすれば起きるでしょう? あなたは非二元的な精神性や精霊信仰、汎神論、万有内在神論といった高度な哲学を持っているかもしれませんが、いざとなると自動的に古い物語から行動します。私たちの文化的な条件付けが全体として、深い信頼とは反対の影響を及ぼします。その信頼は、神が全てを見ていると知っていることから来るのであり、あらゆる存在が生きていて聞いていると知っていることから来るのであり、あらゆる行動が宇宙的な重要性を持つと知っていることから来るのです。新たな物語を心の中で抱きしめるのは最初の一歩ですが、それだけでは何世代にもわたる文化的な刷り込みを解くには足りません。

木や池に話しかけてごらんなさい。もしあなたが私と同じような人なら、頭の中の声がこう怒鳴りつけるでしょう。「本当は聞いてなんかいない。あなたの言うことなど分かるわけがない。ばかなことを。」その木が返事をしているように感じるとしても、あなたの想像に過ぎないのではないかと思うのではないですか? ふつうは、「相互共存(インタービーイング)の物語」に深く生きて、そこから一貫して行動できるようになるために、人々は何らかの助けを必要とします。

その助けは直接体験という形でやって来ます。私たちはこの世界にある他の存在たちに無理やり本当の姿を現させることはできませんが、問いかけることはできます。問いかけるには、あなたの憧れに注目することです。生きている宇宙に再び加わり、仲間にしてもらうことへの憧れです。

そのような助けの例を一つお話しします。数年前にインドネシアで修養会を開きに行く途中で立ち寄った台湾でのことです。私は台湾に住んでいたことがあって、私の心の一部は今もそこにあると思っています。旧友のフィリップが朝5時の飛行機で到着した私を迎えに来て、そのまま車で山に入り、細く曲がりくねった道を1時間近く走って、神聖な森があると彼の聞いていた場所へと向かいました。登山口の近くの駐車場に車を止め、所によってはロープが必要なほど急な細い山道を登りました。でも2、3時間登ってもその森は見つからず、私たちは疲れていたのと午後3時に私が台北で講演をすることになっていたので、そろそろ引き返さなければなりませんでした。泥々の登りにさしかかったとき、私たちは戻ろうかと思いました。

「もうちょっとこの山を登ってみよう」と私は提案しました。「もしかするとそこから見えるかもしれないから。」私たちは泥々の登りを抜けて先へ登りましたが、そこで見晴らしは開けず、また登りが続いていました。そのとき立て札が目に入ったのです。「がんばりましょう! 聖なる森まであと5分です!」

まるで私たちのために書いてあったような立て札でした。

間もなく私たちはその森に着きました。樹々は信じられないほど素晴らしいものでした。樹齢2千年の巨樹で、幹の直径は5メートルほどもあり、大昔からある枝の太さは私の身長より大きく、シダなどの植物に覆われ、樹の1本1本がそれ自身で生態系を作っていました。神聖なるものの存在する場にいるという、ほとんど圧倒されるような感覚なしに、その樹々を見ることは不可能でした。私たちは畏敬の念に打たれていました。二人ともかなり長い間なにも話しませんでした。

かつて森全体がこの樹々のような巨木で成り立っていた姿はどんなだったろうと、私は思いを馳せました。その巨木は1エーカー(約40アール)ほどの森に散らばった7、8本の祖父の樹を残してみんな切り倒されてしまいました。人間が仲間の木をみんな伐ってしまったと、この樹々は怒っているだろうかと私は思いました。私はフィリップに尋ねました。「この樹々は私たちのことを怒っていると思うかい?」

彼は私の言おうとしていることが良く分かっていたので、質問を真剣に受け止めました。しばらくして彼はこういいました。「いいえ、私たちがここへ来て樹々は喜んでいます。」彼の言葉には真実の響きがありました。

後になって、私はなぜ樹々が喜んでいたのかを理解しました。私が敢えてその質問をし、フィリップがそれを真剣に受け止めたことを、樹々は喜んだのです。その問いが、樹木を本当の生き物として、怒ったり悲しんだりする生き物として実際に目にした場所から発したものだったからです。材木会社のように、ただ利益を生む物として見るのではなく、登山者のほとんどのように、ただ写真に収めるための絶景として見るのでもなかったからです。読者のあなたにお尋ねしますが、今まで見てもらえなかった本当の自分を、やっと見てもらった経験はありますか? 完全な人間以下の存在として見られるのがどんなことか、女性や黒人は特に良く知っていますが、私のような白人異性愛男性でさえ、自分を評価点や販売目標にされるのがどんなことかは知っています。ですから樹々が喜んでいたのは、全ての生き物のコミュニティーに私たち人間が改めて加わろうとしていたことだと、私は思います。

登山道を車まで下るとき、おかしなことが起きました。現実が微妙に変化したのです。まるで私たちが夢の世界に入ったように、あらゆることが象徴的な共鳴を始めました。猿の群れがやって来て、私たちの真上で空中ブランコをしました。駐車場に着くとフィリップがいいました。「車のキーがちょっと気になるんだけど、ポケットに入っていないんだ。」

私たちはバックパックの中や地面をくまなく探しました。ついに私が車の中を見たとき、そこにあったのです。フロントシートの上に、意地悪そうに載っていました。車はロックされていて窓は閉まっていました。夢を見ているようでした。「車の鍵は車の中に、目的達成手段の鍵は手段そのものの中に。」そこにはスピリチュアルな教訓が含まれているに違いないと思います。

フィリップは不安になりましたが、彼の不安が高まるほど逆に私は安心し、どんな冒険をこの宇宙(あるいはあの樹々)が私たちにお膳立てしてくれたのだろうと思いました。なんとか時間に間に合うという確信が私にはあって、間に合うかどうかを心配せずにすみました。すべて完璧にできている感じがしました。

ここは人里離れたところで、いちばん近い村まで(車で)20分もありました。フィリップは携帯電話を取りだして誰か迎えを呼ぼうとしました。もちろん電池切れ。近くに小さな家があったので、そこの男に車を開けて入る道具がないか尋ねました。ありません。整備工場か錠前師はいないでしょうか? 男は電話を貸してくれましたが最寄りの警察以外には役に立ちそうな電話番号を知りませんでした。私は警察に電話し、警察は誰か行かせると答えました。

1時間後にパトカーが到着しました。警官たちは初めは事務的でぶっきらぼうでしたが、それは彼らにも車に入る手掛かりが全く分からないからでした。彼らは整備工場に電話しましたが、費用のことを聞くと私たちに代わって憤慨し、来なくていいと告げました。残されたのは男4人、全く手掛かりもなく、重い足取りでした。ついに一人がいいました。「こりゃあ窓を割るしかないな。」

これは夢のようです。覚えていますか? では自制に打ち勝って窓を割るのに私は石で何回叩けばよかったでしょう? 3回です。ガラスのかけらが飛び散って私の指からは血がひとしずく流れました。

時間に遅れないように、私たちは猛スピードで走りましたが、とつぜん屋台の果物屋に呼び止められ、見ると売っているのは在来品種のリンゴとミカンで、台湾産の小さな品種は直径5センチもありませんが、有機栽培で、驚くほど香り高く、まるで大きな果物の香りをぎゅっと詰め込んだようでした。すべては完璧でした。私はこの感覚をフィリップに話しましたが、彼は友人から借りた車を返すときのことを考えると、その日のことにあまり夢中になれないのも当然といえば当然でしたが、私と同じくらい樹々の魔法に掛かっていました。彼は顔をしかめてこう聞きました。「今日はもっと満足してもらえるように、私にできることはもうないだろうか?」

「そうだね、《地グアバ》は知っているかい」と私は冗談半分でいいました。(これは台湾に自生する小さなグアバで、店で売られることはほとんどありません。)「あれを食べられたら本当に嬉しいね。」

「それは難しいなあ。」

私たちは時間ぴったりに講演会場に到着し、私は泥だらけの服のまま話すことになりました。私が話を始める直前に、20年も会っていない旧友が私の所にやって来て袋を手渡しました。「これ、気に入ってもらえると思って」と彼はいいました。中に入っていたのは、茹で落花生、菱の実、そして皆さんお察しの通り、地グアバだったのです。

台湾島が「あなたのことを愛してるって、信じてないでしょう? 念押しのために地グアバをどうぞ」といっているようでした。

もちろん、この全ては偶然だったかもしれませんが、あの樹々が友人を使って私に贈り物をくれたように思えました。「ありゃ〜。」私は冗談めかして独り言をいいました。「もし望みを叶えてくれると知っていたら、たぶんグアバよりも大きなことを頼んでいたよなあ。」

私がこの話をするのは、あらゆる存在が意識を持つという世界の物語に私たちが入ると、世界は生き返るということを示すためです。宇宙には知性があるということを裏付ける共時性(シンクロニシティー)を私たちは体験し始めます。あるいは、より多く気付くようになるということでしょうか? 分断の心は信じるよりも先に証拠を求めますが、しばしばその反対だということに私は気付きます。したがって、私たちの前には選択があります。私たちはどちらの世界に生きるべきでしょうか? それは第7章で示した選択の繰り返しです。コンクリートの地球か、命あふれる地球か? 美しい世界か、醜い世界か? 生きている世界か、死んだ世界か?

もし私たちが生きている世界を望むなら、私たちは世界が生きているという立場から行動する必要があります。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/reanimating-reality/

次> 生きている世界への架け橋
 目次
前< 大地の力

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?