見出し画像

排出量という強迫観念

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


温室効果ガスを中心とした考え方の中であっても、地域的で親密な参加型の環境ケア活動が「上手く行く」ことを証明するため、私は炭素勘定の仕組みの中へと足を踏み入れました。しかし、そうすることで私は危険な還元主義に手を出し、目まいがするほど複雑な生態系の相互作用の網の目を、単一の尺度、つまり炭素という単位に組み込みました。そうすることで、私は「生態系の重要性は隔離する炭素の量しだいだ」と暗示し、炭素を生態系の健全性を測る正当な代用指標だと認める危険を冒します。そうして私は「グリーン」や「持続可能」が低炭素と同じだと見なす、ありふれた方程式に取り込まれるのです。

生きているシステムが気候安定性の維持に果たす役割は、私たちにとって良い知らせでもあり悪い知らせでもあります。良い知らせというのは、私たちの世界は生き延びることができ、高い濃度の温室効果ガスに適応できる可能性があることです。悪い知らせというのは、その能力を備えた生態系は世界中で急速に衰退していることです。それはつまり、すでに大量の炭素とメタンを人間活動以外の発生源から放っている正のフィードバック循環のことを考えると、森林やマングローブ、藻場なども癒し守っていかなければ、たとえ化石燃料の使用をゼロにまで削減しても気候不順は悪化を続けるということです。

気候変動懐疑論者がときどき持ち出す難題は、二酸化炭素濃度と気温は過去の地質時代には現在よりもずっと高かったが、地球は全く正常だったというものです。これに対する標準的な応答は、二酸化炭素濃度がこれほど急に上がったことはなかったというものです。それが本当であってもなくても、もっと重要な問題を見逃していると私は思います。生物圏の歴史が示す復元力の源は何なのでしょうか。それは健康で生きている生態系から来たのです。生命が生命生存のための条件を作るにもかかわらず、現代はこれまでに例のない死の時代なのです。

大気中の二酸化炭素が増加すると植物の成長は促進され二酸化炭素吸収は増加すると気候懐疑論者が主張するとき、部分的にではありますが重要な真実を述べてもいます。炭素の吸収は考えられていたよりも実際に速く、化石燃料からの排出量の40%から50%へと10年間で増加しました[18]。私たちは大丈夫なのかもしれません。地球の土地面積の4分の1から3分の1が植物のひどく失われた状態にあり、残りの土地もほとんどが人間の活動によって危険にさらされているという事実がなければの話ですが。砂漠や単一作物農業、舗装道路はほとんど炭素を隔離してくれません。

生態系の破壊によってたくさんの地域が炭素吸収源から炭素排出源に変わりました。数百万年前には二酸化炭素濃度が何倍も高かったけれど、地球の気候は自然な変動を続けていたという点で、同じように懐疑論者は正しいことを言っています。しかし不幸にも、生息地の荒廃や、汚染、開発、鉱山の採掘、湿地帯の干拓、魚の乱獲、捕食動物の根絶などによって、植物その他の生命がもはや地球の力強い復元力を維持することができない状況を作りだしてしまいました。ガイアには自己制御の能力がありますが、それを私たちが破壊しているのです。

森林その他の生態系が気候の調節に果たす極めて重要な役割についての意識が高まっていることと、再生型農業が膨大な量の炭素をすばやく隔離する(そして私の意見ではもっと重要な、水循環を修復する)可能性を考えれば、なぜ政策論争はこれほど排出量に集中しているのでしょうか?

理由はいくつかあります。

第一に、最も端的に言えば、化石燃料からの排出の方が土地利用の変化による排出よりも測定したり推定したりするのがずっと簡単だということです。バイオマス量の測定は新技術と研究の蓄積によって改善されてきましたが、それでも場所や研究により大きな変動があります。現在の政治文化では、政策立案者や協定交渉者、規制当局者は「炭素収支」に基づいた目標や合意、規則を策定するために量的な尺度を必要とします。したがって排出量は政治文化にずっと良く馴染むのです。

生物学的隔離はバイオマスよりさらに測定の難しいものです。イェール大学の研究者、オズワルド・シュミッツに、炭素隔離について確かなデータがほとんど無いのはなぜなのかを尋ねました。彼の説明は簡潔なものでした。土壌に蓄えられた炭素を測定するよりも、地上に貯留された炭素を測定し計算する方がずっと簡単だからです。このことが示す一般原則があります。政策決定を数値指標に頼ると、その政策は私たちが測定しようと決めたもの、測定することが可能なもの、もともと測定に向いているものへと歪められます。さらに、そこで無視されるのは、文化的な盲点と、広く浸透している社会的、物質的、経済的な慣行とに対応していることが多いのです。

一般的に言うと、土壌の炭素隔離速度は言うまでもなく、炭素の総量を測定するのも非常に困難です。ほとんどの分析は地表30センチとか1メートルだけを対象にしていますが、深い根を持つ草などの植物はそれよりずっと深いところに炭素を蓄えることができます[19]。そして土壌有機物の分子構成の問題があって、これで炭素循環に戻る前にどれほど長く地中に留まるかが決まります。この期間は局地的な条件や、微気候、土壌生物相の構成などによっても決まります。

生物学的な炭素フラックス[面積当たりの炭素移動量](と他の温室効果ガスのフラックス)は排出量に比べると、気候のモデル化に結び付けるのが簡単ではありません。気候と生命の間に著しい相互作用があることへの理解が進むほど、モデル化は難しくなります。熱の流れと気流を扱う流体力学は、コンピューターで比較的簡単にシミュレーションが可能です。しかし生命プロセスのシミュレーションは困難です。原生林が農場よりも上手く微気候を維持すること、雲の種をまくバクテリアの役割、ミミズが土壌中メタノトローフの数に与える影響、クジラが海の栄養素をかき混ぜてプランクトンのバイオマス量を増やしていること。このようなことはモデル化が難しく、それ以前に何十年も研究しなければ理解することが難しいものです。私たちはいちばん慣れた道具が使えるものに注目を集中しがちです。

排出量への注目は地球を機械論的にみる支配的な見方にうまく収まっていて、地球を生き物ではなく込み入った機械と見ます。

現代の還元主義的な方法は込み入ったシステムを扱うのに適しています。(これと対照されるのが複雑なシステム、複雑系です。)自動車やコンピューターのような込み入ったシステムでは、変数は数多くあるかもしれませんが、多少なりとも各々独立しています。システムが上手く働いていないときは、変数を一つ一つ分離してはテストすることで問題を解決することができます。一つあるいは幾つかの変数を操作して、目に見える予測可能な結果を作り出すこともできます。したがって、込み入ったシステムは断片的アプローチによる問題解決に適しています。全体は部分の総和に等しく、因果関係はおおむね直線的です。込み入った大規模なシステムを理解し管理するためには、たくさんの断片に分割し、その各々にチームを割り当てて取り組みます。学問の全体構造はこのアプローチを反映したもので、比較的高い自立性を持った学問分野と下位区分に分割されています。

制御に基づいたトップダウンのアプローチは込み入ったシステムでは上手く働きますが、複雑系を扱うと無残に失敗します。複雑系では、変数は別の変数に従属し、因果関係は非直線的で、システムの一つの要素に小さな変化が起きると全体を激変させることがあります。各部分はどれ一つとして他から切り離して理解することはできず、他の部分との関係の壮大な網の目の中に位置づけることによって初めて理解が可能になります。複雑系では、全体は部分の総和よりも大きく、したがってシステムの還元主義的な分析では決して理解することができず、変数を分離し操作する企ては予測不能で思いがけない結果を招きます。

身体、生態系、ゲノム、社会、地球は、どれも複雑系です。その反対の見方、つまり極めて込み入った機械として捉えようとする誘惑に駆られるのは、そうすることでトップダウンの問題解決という慣れた方法を使えるので、状況をコントロールしていると感じることができるからです。この幻想の典型が戦争思考で、本書では先にも書きましたが、国境の壁から抗生物質、コンクリートで固められた水路まで、あらゆる制御と支配の技術に広がっています。その全ては予期せぬひどい結果を招き、制御しようとしていたもの(移民、疾病、洪水)が正反対の結果に終わるのが普通です。

気候変動の「標準的な物語」のように、あらゆる物語とは、あるものを際立たせ他のものを見えなくするレンズです。残念ながら、地球を癒そうとするなら最も注意を払う必要がある、まさにそのものを見えなくします。地球の機械論的な見方では、表土流出、殺虫剤、地下水の枯渇、生物多様性の喪失、クジラやゾウの保護、有毒・放射性廃棄物などのようなものは、以前は気候変動にとって重要度が比較的低いと見られていました(し、多くの場合では今もそう見られています)。こうした見過ごしは、地球を驚くほど込み入った機械だと見るなら理解できるものです。もし地球を生きていると見るなら、その生きた組織を破壊すれば大気組成の変動に対処できなくなるのは当然だと分かります。

ここで私は、二酸化炭素排出量などどうでもいいと言いたいのではありません。そうではなくて優先順位の移し替えを呼びかけているのです。政策のレベルでは、私たちはあらゆるレベル、特に地域レベルの生態系を守り癒していくように優先順位を移すことが必要です。文化のレベルでは、私たちは人間の命とその他の命を統合しなおし、エコロジーの原則を社会の癒しに向けて適用することが必要です。戦略と思想のレベルでは、私たちは物語を生命、愛、場所、参加の方向へ変えていくことが必要です。私たちが排出量の物語を捨て去ってもなお、これらのことを実践していけば、二酸化炭素排出量が減少することは間違いありません。


注:
[18] キャリントン(2016)。

[19] 居住可能な気候のための生物多様性 (2017)。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-emissions-obsession/

次> 地球工学技術の妄想
 目次
前< 炭素、土壌、生命

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?