見出し画像

懐疑論の世界を訪れる

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


「我ら」対「彼ら」のドラマは、私たちの文化が自動的に繰り返し発動させるものですが、「気候変動に対する戦い」だけでなく、目に見える敵を探す中でも見られ、気候変動が真実だということを疑ったり否定したりする人々に対する戦いとして現れます。この考えは次のように進みます。化石燃料関連企業と、資本家や投資家、政治的盟友、一握りの賄賂がらみの学者らが作る、不埒(ふらち)な同盟を、もし打ち負かすことさえできれば、私たちは気候変動を止めるため有意義で迅速な行動を取ることができるでしょう。敵の正体ははっきりしています。私たちはいつもの戦闘態勢に落ち着くことができます。

戦争のほぼ普遍的な戦術は敵の非人間化です。したがって、気候変動反対運動の「標準的な物語」が訴えるのは、人為的気候変動を信じない人々は精神的・道徳的な能力が足りないに違いないということです。彼らは強欲で、性根が腐っていて、妄想に取り付かれていて、現実から目を背けている。彼らは偽善者で、嘘つきで、サイコパスだ。そうでなければ、圧倒的な証拠や、「確立された科学的知識」、「97%の気候科学者」の総意をどうして無視できるでしょうか。そんなことを考えるなんてあり得ない、言語道断だと思えてきます。

私自身は偽善者、嘘つき、サイコパスではなくて、精神的・道徳的な能力を少なくともいくらかは持っていると信じていますから、気候懐疑論者の物の見方をもっと深く探求してみることにしました。

気候懐疑論の陣営は、上の非難をひっくり返し、主流の気候科学者は無能で腐敗していると言います。(もっと教養のある信奉者が強調するのは、集団思考、出版や研究資金の偏り、政治的圧力を主な手段として正統論を押し付けていることです。)懐疑論者は「気候否定論」という烙印に対し、主流の考えを「気候脅威論」と呼びます。

ここまでに書いたことから、気候変動を信じる人から見ると誤った等価関係[似ているように見える部分が両者にあるからと言って同じだと見なすこと]のようなものを引き合いに出している点で、私は懐疑論者の側に寄っているように見えるかもしれません。結局のところ、第二次世界大戦ではナチスと連合国もお互いを悪魔扱いしていましたが、だからといって両陣営が同じだということにはなりません。あの戦争を戦ったのは善玉と悪玉でした(よね?)しかし、ますますその傾向を強めるこの戦争には、人類の生存がかかっています[2]。敵の立場の正当性を少しでも擁護したり戦争の根拠を批判したりするのは、もう裏切り行為です。ブッシュ政権の対テロ戦争では「敵に塩を売る行為」だと言われました。同じように、どちらか一方を支持しないのは裏切り行為です。それが戦争のメンタリティーというものです。

戦時になると、平和主義者に浴びせられる敵意や侮辱は、敵国に向けられるものよりも強いのです。なぜでしょう? それは、人々が自分を重ね合わせる役割や、その中に生きている物語の正当性を、平和主義者が疑問視するからです。平和主義者によって脅かされるのは、生存ではなくアイデンティティー[つまり、自分は何者であるかという信念]です。

私が懐疑論の立場を探索するに当たって、私は一種のばか正直をわざと装うことにしました。両側が互い対して下している評価を棚上げし、今のところは議論の参加者のほとんどは、完璧ではないにしても、有能で、知性があり、誠実な人たちだと想定しました。私は標準的な気候の物語から様々な主張をかいつまみ、つぎに私が見つけた中で最も良い懐疑論のブログやウェブサイトを徹底的に読んで、地球温暖化の圧倒的な証拠と見えるものについて彼らが実際に何を言っているかを観察しました。懐疑論者の主張への反論も、私が見つけた中で最も丁寧な粘り強い反論も読みました。それでは私の冒険の代表例をお目に掛けましょう。私の反応は劇的効果のため適切に誇張してありますけど。

まず私は人為的地球温暖化の動かしがたい証拠のように見えるものから取りかかりました。それは、20世紀に地球気温の上昇が急加速したことを示すマイケル・マンの「ホッケースティック」曲線です。その曲線には、比較的安定した気温が何世紀にもわたって続いた後、大気中の二酸化炭素の増加にぴったりと歩調を合わせて急速な温暖化が進んだことが描かれています。その数値に議論の余地はありません。確かに、相関関係があるからといって因果関係の証明にはなりませんが、特に二酸化炭素の温室効果を考えれば、これほど極端で過去に例のない上昇の因果関係をうまく示せるような他の説明がありません。知性ある人がこんなに強力な証拠をどうして疑うことができるのでしょう?

私はそれを明らかにしようと決心しました。ホッケースティック曲線を描くのに使った統計手法には重大な欠陥があると、気候懐疑論者は主張します[3]。現在のデータも過去のデータも、信頼できず不完全で大幅に「修正」されたものだと批判します。最近の温暖化を立証するため常にバイアスがかかり、過去の値は低く、最近の値は高く修正されているのです。彼らによれば、木の年輪を気温の代理データに使うと、木の成長が遅い理由は低温ではなく低い二酸化炭素濃度や少ない降水量かもしれないことが考慮されません[4]。現在のデータも都市のヒートアイランド効果のため信頼できず、昔に比べると現在はとんでもない数の測候所がエアコンの排気口や駐車場、空港、水処理施設など熱源の近くに設置されているとも主張します[5]。さらに、生データは均一化という処理で上向きに修正されます[6]。ある測候所で近くの測候所と一致しない観測結果を示している場合、データは測定器の誤動作か微気候の影響を受けていると仮定して均一化されますが、普通は低い測定値を示す測候所を上向きに修正し、ビルやアスファルトがあって温度が高くなっている測候所と比較してそちらに合わせることが多いと懐疑論者は言います。この問題があるため、研究者の中には人工衛星で観測した別の気温データに注目する人もいて、これなら大きなばらつきのある気まぐれな地表気温測定値の影響を受けません。結局のところ、温室効果の理論モデルが予測するのは対流圏全体の温暖化です。何種類かある人工衛星のデータは、互いに良く一致していて、ホッケースティック曲線が最近になって急上昇している部分を描くのに使われた地表気温データより、ずっと遅い温度上昇を示していると懐疑論者は言います。いずれにしても、現在の気温は中世の温暖期よりまだ低く、これを無かったことにするため度重なる企てにさらされてきました。さらに、過去の二酸化炭素濃度の変化は気温上昇に先だって変化したのではなく気温上昇の後で変化しており、全く関連しないことも多いと懐疑論者は言います。氷床コアによる二酸化炭素濃度の再現に使われたデータは、標準的な物語と矛盾する値がある場合、サンプルが汚染されているはずだという理由で削除したものです。

何ということでしょう。巨大科学が広めた公式見解を信じるなんて、私は何と愚かだったのでしょう。私は他の人たちと同じように正統論を信じるよう騙されていたのです。こんなガセネタを掴まされるなんて、私は一体どうしてしまったのでしょう。

念のために、主流の気候学者がこれに対して何と言っているかを見てみました。見て下さい、事実は懐疑論者の主張とは違っています。ホッケースティック曲線を批判する人は、1つか2つの小さな間違いをあげつらってこの論文全体を打ち捨てようとしますが、その間違いは2008年版の論文では訂正されています。元の論文が発表されてから、同業者による査読を受けた他の研究で、別の数々の気温代理データを使って、最近20年間の気温は過去2千年で最も高いことが何度も確認されました[7]。今ではいくつもの古気候データが「ホッケースティック」曲線を再現していて、全てマイケル・マンの曲線に概ね一致しています。

衛星データについては、衛星の軌道減衰のため見かけの冷却効果が現れ、これを補正する必要があることを、懐疑論者は分かっていません。温度の生データは信用できないのです。第二に、温度データは「日周的変動」による歪みを受けます。第三に、衛星は実際に温度を測っているのではなく、大気中の酸素が放出するマイクロ波を測っていて、それは間接的に温度の関数となっているに過ぎません。第四に、私が見ていた図は対流圏内の様々な高度の加重平均を基にしていて、これは寒冷化を誇張しかねない方法で重み付けされた値なのに加えて、異なる種類のセンサーで測ったデータを気温という一つの尺度に組み合わせなければなりません。いずれにせよ、科学者はこの食い違いを深刻にとらえましたが、その理由を調査してデータを補正した結果、衛星データは地表気温データや理論モデルと極めて良く一致しました。さらに、実際の衛星データは5種類あって、懐疑論者がいつも見せるのは最も小さい温暖化を示すデータですが、これはもう一つの対流圏気温測定法である気象観測気球のデータとの不一致が最も大きいのです[8]。

二酸化炭素濃度の推移が必ず気温上昇の後で起こるように見えるのは、気温の上昇によって正のフィードバック循環が始まり、小規模な温暖化を増幅するからだと主流科学者は言います。

ヒートアイランド効果とデータ補正については、生データの歪みを除去するため綿密に行っていると主流科学者は言います[9]。さらに、村落部と都市部の測候所は一致した温度の上げ幅を示しています[10]。同じことが氷床コアの二酸化炭素濃度にもいえます。二酸化炭素濃度がそのような値だったと説明できるメカニズムが存在しないので、科学者は非常にもっともな科学的な理由で、正確ではあり得ない異常値のデータ点を除去しました。科学者コミュニティー内の長々としたやり取りを無視し、何らかの「意図」に基づいて測定結果の操作を黙認したなどと机上の空論で意見を言うことは、科学者に対する侮辱であり、実際に科学がどのように営まれているかについて深刻な理解不足を露呈するものです。

わぁ、気候否定論がこの本に忍び込む前に、化石燃料産業に雇われていない本物の科学者の反論を読めて本当に良かった。うっかり否定論者に丸め込まれるところでした。何十年もこのテーマを研究してきた気候科学者より私のほうが良く知っているなんて、いったい私は何様のつもりだったのでしょう。たった2〜3週間インターネットで「研究」しただけで、科学者が間違っていて頭脳や物の見方に問題があると明らかに分かるような証拠が見つかるなんて、何という思い上がりでしょう。科学者を疑ったことを恥ずかしく思います。

配慮を怠らないために、懐疑論者がこれに反論しているかどうか見てみましょう。反論はあります。2008年版のマンの論文には元の論文と同じ基本的な欠陥があり、他の「ホッケースティック」曲線の研究も問題のある同じ代理温度データを使っていると懐疑論者はいいます。村落部の測候所が都市部と同じ上昇傾向を示す理由は、村落部と分類されていても、その多くは著しい都市化の影響を受けているからだと主張します。じつは軌道減衰の要因は20年前に補正されたもので、どちらにしても下部対流圏の測定値にだけ影響するもので、ここでは問題にならないといいます。日周的変動も補正済みです。マイクロ波放射は地表気温の測定に使われる電気抵抗法よりも優れた温度測定手段です。気候問題の支配者集団は物語やモデルに合わないデータを見つけるたびに何度も「データ修正」していて、どれも高い方への「修正」なのはもちろんのことです。気象観測気球測定値と一致し、より大きい温暖化を示すデータがあるのは、校正ドリフトの補正をしていない衛星のデータを使い、実験データではなく気候モデルに基づいて日周的変動を補正したためです[11]。

またしても丸め込まれるところでした。背後にある科学を本当に理解することなく少数意見を却下した判断の権威は見せかけだったのです。

この行ったり来たりから見えてくることは、純粋に証拠に基づいて私が何を信じるかを選ぶのは、結局おそらくは不可能だということです。温度測定値の問題をもう少し深く追求しようとしたとき、大気物理学や統計手法など私の科学的経験が足りなくて簡単に理解できない専門的詳細の泥沼に陥ってしまいました。念のため言っておきますが、私には科学の教養があり、イェール大学から数学の学位も受けています。私が論点の是非を判断できないのに、どうして一般市民にできるでしょうか。さらに、科学的経験を持つ人のあいだにも意見の不一致があることから分かるのは、私がもう少し勉強したところで問題が解決するわけでもなさそうだということです。私が誰を信頼するかは証拠に頼らず選ぶ以外なくなりました。

あなたが気候学者、気象学者、大気物理学者でなければ、私と同じ立場です。人為的地球温暖化を信じるかどうかは、学術出版の健全性、査読と研究資金の公平性、科学者個人や研究機関が確証バイアスに抵抗する姿勢など、科学支配者層の権威と誠実さを受け入れるかどうかに、ほとんどかかっています。多くの人々、とくに自由主義者と進歩主義者にとって、科学は私たちの社会に残っている唯一の信頼できる制度です。人為的気候変動を疑うことは私たちの文化における正当な真実の源を疑問視することに他ならず、科学を正当性の拠り所とする他の制度を疑問視することでもあります[12]。これが理由で、とくに米国では、気候変動を信じない人々は他のさらに根本的な科学理論も信じない宗教右派に属しているのが普通なのです。もしあなたが進化論は聖書の天地創造物語を否定するための巨大で不道徳な陰謀だと信じているなら、気候変動を信じないのも無理なこじつけではないでしょう。気候変動を疑う人を、地球は平らだと信じている人に嘲りを込めて結び付けるのには、一片の真実が含まれています[13]。真実は嘲りの方ではありません。彼らが愚かで間抜けということではないからです。真実なのは、大きな勢力を持った文化における知識の最大の権威に反逆しているということです。

気候変動を信じない気持ちにさせる別の要因は、深く根ざした経済的、社会的、政治的な見方と相容れないからというものです。意外でもないでしょうが、気候変動を疑う人のほとんどが保守的な政治的意見を持っています。ふつう彼らは政府がビジネスを規制することに反対し、気候変動は規制強化の正当化につながる危険な理由だと見ます。何の抑制もない「天然資源」の搾取に賛成することが多く、人類の成長には技術で乗り越えられない限界が自然によって与えられているという考えをあざ笑います。原子力賛成、フラッキング[岩盤破砕による石油天然ガス採掘]賛成、海上石油掘削賛成、石炭採掘賛成で、産業開発を地球の隅々にまで押し広げることに賛成するのが普通です。私たちは気候に害を及ぼすようなことはしていないという彼らの立場は、一般に環境を害するようなことはしていないという立場と一体のもので、遺伝子組み換え生物、化学廃棄物、核廃棄物、海を漂うプラスチック、殺虫剤、製薬廃棄物、生息地の破壊などはあまり気にすべきではないと主張することが(常にとは言いませんが)ひじょうに多いのです。さらに、気候変動懐疑論のブログと、特にそのコメント欄には、イスラム嫌いの感情(政府は気候変動のデマを使ってイスラムという本当の脅威から目を反らそうとしているのだ!)や、その他のオルタナ右翼の作り話がちりばめられていることがよくあります。

人為的気候変動を信じるのには、証拠に基づかない理由が、手短に言って2つあります。科学という制度への信頼と、気候変動が起きていることを疑う人々に悪い仲間が連なっていることです。

では、私が気候懐疑論の世界へと降りていった結果、最後に何が分かったのでしょうか? あなたがまだ「私がどちら側に付いているのか」という問いへの答を待っているのなら、もう少し(この章の終わりまで)お待ちいただかなくてはなりません。しかし、私の探求で一つ分かったことは、どちらの側も相手方の特徴を誤って評価しているということです。懐疑論者の側は、無知や疑似科学などの悪い影が付きまとうものの、異端の考え方を公表したばかりに激しい敵意に耐えている、理性と科学的素養のある人々が多くいます。気候懐疑論者と戦うために(「気候否定論者」という不快な中傷を浴びせることを始めとする)「悪に対する戦争」のアプローチを取るのは、誤った前提に基づいています。彼らの立場に合わないデータを見過ごしたり矮小化したりすることはあると思いますが、ジュディス・カリー、ジョン・クリスティー、ロイ・スペンサー、ジム・スティール、スティーブ・マッキンタイヤーのような著名な反主流派は、腐敗していないし、愚かでも不誠実でもなく、少なくとも何人かは熱心な環境保護主義者でもあり、自然の荒廃が進んでいることを心から心配しています。さらに、少なくとも一般人の視点から両側を見渡すと、懐疑論者の批判の中には的を射たものもあります。主流の見方が正しくても誤りでも、尊敬を持ち独善を排して懐疑論者と関われば、科学と一般市民は恩恵を受けることでしょう。

懐疑論者が支配層科学者に向ける冷笑するような見方も間違っています。気候科学者と話したり科学論文を読んだりすれば、この人たちも一般的に言えば地球のことを深く気にかける慎重で良心的な科学者だということがよく分かります。懐疑論のブロガーが悪の陰謀への加担や、犯罪的な怠慢、資金的な腐敗、隠れた「政治目的」のことで科学者を非難し、「環境屋」や「活動屋」のような軽蔑語で不用意に茶化すなら、懐疑論者がいくら筋の通った批判をしても信ぴょう性を失うでしょう。

さらに、研さんを積んだ科学者ではない多くの懐疑論者は、しばしば臆面もなく知性の堕落をさらけ出し、彼らこそが政治目的を持っているのではと疑いたくなります。彼らは自分が望む結論を支持する説得力のない証拠や主張を無批判に受け入れます。代表的な例を紹介します。私は権威ありそうな氷床コア代理温度データのグラフを見つけました。一見すると1万年前から現在までを表していて、ミノア温暖期、ローマ温暖期、中世温暖期には現在の気温よりずっと高かったことを示しています[14]。それは右派のブログに掲載され、そこには「気候問題の支配層はバカか腐敗しているかどちらかだ、現在の気温は過去の時代よりずっと低いことを自分のデータが示しているぞ」というようなことが書かれていました。コメント欄は同意の大合唱でした。とても印象的なグラフだったので、私は情報源を当たってみたところ、R・B・アレイが書いた査読論文でした[15]。それを読んで分かったのは、ブロガーが作ったグラフは非常に誤解を招きやすいものだということでした。グラフを描くのに使ったデータは1905年までしか無かったのです(氷床コアはごく最近の気温には有用な代理データとはならないので、これは理解できます。)しかしグラフの目盛りは現在までを表示しているかのように振られていました。つまり、過去の時代の気温は、現代の炭酸ガス排出による温暖化が始まったと考えられるより前の、1905年当時よりはずっと高かったということです[16]。

もちろん、科学の経験がなく政治目的を持った一握りの支持者の振る舞いによって、懐疑論者の主張が無益だということにはなりません。それは、私たち自身のも他者のも含め、確証バイアスに注意して慎重に進むよう警告していると受け取るべきです。確証バイアスとは、既存の信念に一致する証拠を好み、その信念を支持するように証拠を解釈する傾向のことです。ですから、背景データを一通りチェックするだけで偽りだと分かるのに、右派ブロガーはまったく吟味することなくそのグラフを受け入れたのです。

自分の意見に自己執着すればするほど、確証バイアスの可能性が高まります。この自己執着の兆候には、独り善がり、自惚れ、意見が合わない人への軽蔑などがあります。残念ながら、この3つ全てがどちらの側の文章にも数多く見られ、私はどちらの側も信頼することができなくなってしまいました。皆さん自身で両側のブログとコメントをお読みになって、この人たちが自分の誤りを進んで認めることができるだろうかと自問してみて下さい。

ここで、読者の皆さんは自分には確証バイアスはあまり無いと思うかもしれませんが、気候変動についてあなたの立場に批判的な意見を読んだらどう反応するか気付いて下さい。あなたの立場を支持する意見を読んだときよりも深く吟味しませんか? 書いたのは誰でしょう? 査読付きの学会誌に発表されたものでしょうか? 石油会社から資金提供を受けているでしょうか? 偽りだと証明する証拠を探そう…。そういう物の見方からは、表面的な反論、誹謗中傷、根拠のない非難ぐらいしか出てくることはなく、相手方を信じる人は批判を無視するでしょう。同様に、あなたの立場と一致する記事をあなたは無条件で受け入れるでしょう。わざわざ修正前の生データを見ることも、代理温度データの忠実度を疑うことも無いでしょう。この傾向が一般化すると、私たちの社会は隠れた合意を吟味することなく、共通の利益をないがしろにしたまま、ますます隔絶された現実バブル[泡、つまり閉じた空間]の中に閉じこもり、お互いに争いを続けることになります。

注:
[2] 私はここで第二次世界大戦の標準的な物語を引いています。現実には明らかに悪玉がいましたが、善玉がいたかどうかはそれほど明らかではありません。枢軸国に対する戦争は、その歴史的起源とアメリカ帝国の野望の実施に密接に結びついていて、さらに悪質な帝国勢力の敗北は幸いな副産物でした。

[3] たとえばムラー(2004)を参照。反論についてはクルーガー(2013)を参照。基本的な統計の批判について簡単なまとめは、モリアーティ(2010)を参照。

[4] モリアーティ(2010)。

[5] ワッツ(2009)を参照。

[6] この論争のわかりやすい説明は、スティール(2013)を参照。

[7] モリアーティ(2010)。

[8] フォスター(2016)。

[9] これがどのように行われるかについて部分的な説明はハウスファーターとメン(2013)を参照。

[10] ブログ「Mothincarnate」(2015)。

[11] スペンサー(2016)。

[12] 私がここで科学というのは、科学の方法そのものを指しているのではなく、科学という制度がそれを誠実に擁護しているかどうかだけを問題にしています。誠実な擁護に失敗したことが、より深い認識論や存在論の問題を反映したものかどうかは別の問題です。科学の方法は暗黙の形而上学的仮定を含んでいて(観察者から独立した客観的な現実など)、それは仮定の中からは検証不可能です。制度内で客観的な真実の追求に明らかに失敗していることは、査読、学問の実践、より厳格な実験の再現などの改革によって原則として排除できる条件付きの弱点ではなく、形而上学的な基礎の限界を回復不能な形で反映したものかもしれません。

[13] 何人かのとても知性ある人々が地球は平らだと信じているのを私は知っています。最近になって地球平面説を信じる人が増えてきたのは、一般人が主流科学者からますます疎外されるようになったことを反映しています。多くの評論家はこれを、科学者の傲慢さと意思疎通能力の低さ、高度に専門化した科学用語が理解不可能なこと、一般市民の無知と愚かさのいずれかが原因であるとしています。しかし別の可能性があって、経済的であれイデオロギー的であれ、支配層全般との同盟関係によって、主流科学者は不信感を持たれるようになったというものです。付言しますが、地球は丸いと私は思います。さらに付言しますが、「丸い」という形容詞が存在論的に見て正しいという限りにおいて、そう思います。

[14] 文脈を無視して使う人がいるかもしれないので、そのグラフをここに載せたくありません。インターネットで「GISP2 氷床コア 気温データ 過去1万年」と検索すれば簡単に見つけることができます。

[15] アレー(2000)。

[16] この堕落した態度のために、ミノア、ローマ、中世の温暖期が現在よりおそらく温暖だったという事実が見えなくなってしまいます。

(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/a-visit-to-the-world-of-skepticism/

次> 世界の終わり
 目次
前< 私が付くのはどちら側?

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?