私が付くのはどちら側?
前章では広く流布している気候変動の物語を批評しましたが、読者の皆さんは私がどちら側に付いているのかと思ったのではないでしょうか。それは戦争ではいつも最も重要な問いです。私は、還元主義を批評しているとはいえ、炭素の排出が気候を重大で緊急の脅威にさらすという基本的な作用原理を肯定しているのでしょうか。それとも私は「気候変動否定論者」なのでしょうか。私は気候変動に対する「戦い」のどちら側に付いているのでしょうか。
前章で始めた批評をさらに進めていくと、これが間違った問いであることが明らかになります。強調する点が間違っていて、意味合いが間違っていて、根底にある世界観が間違っています。とりあえず、本書は懐疑論と脅威論の両方の立場を取ると言っておきましょう。広まっている気候変動の物語のなかでも特定の側面には懐疑的ですが、人間活動が驚くほどに生態圏の安定性を損なっていることは認めます。それどころか、生態系危機の重大さについて、私の意見は極端に近いものです。本書で示す指針は、これまでの気候保護運動と一致する部分もありますが、いくつかの点では、理由と動機こそ違いますが、従来の運動を遥かに超えています。ですから、私の主張は人為的地球温暖化を信じない人たちにさえ説得力を持つと期待しています。人為的地球温暖化を信じる人には、気候変動に対処するための新たな政治戦略と具体的戦略を、より広い生態系再生の一環として本書は提案できると思います。
従来からある気候変動にまつわる意見のグラデーションを解剖すると見えてくるのは、どちら側が正しいかという論争の力学が、もっと重要なものを見えなくしているということです。意見が対立する多くの問題と同じように、両側が共有し両側とも疑問視しない隠れた前提こそ、私たちを新たな地平に導く上で最も重要で強力なものです。
これらの隠れた前提には、何が重要かという合意とともに、何を口にすべきではないかという合意が含まれています。他の分野の例を挙げると、移民についての政治論争では、移民を入れるなという側と、受け入れようという側がいて、政府はその中間の政策を採ることになります。でもどちらの側も問うことがないのは「人々が命の危険を冒し家族と別れてまで脱出したくなるほどに、他の国々での生活を困難なものにしている政策とは何なのか」という問いです。軍事力による帝国主義、新自由主義の通商政策、国際的な負債の制度については、どちらの側も話題にしないと合意しているか、そうでなければ意識すらしていないのです。でもこのレベルから変わらなければ、移民問題が解決されることはありません。主流の激しい論争は、根本にある原因から全ての注意をそらし、表面的な症状の方に向けてしまいます。その結果、現状維持が続くのです。
二極対立した会話は、政治であれコミュニティーや夫婦の間であれ、多くはこのようなもので、不満のエネルギーを吸収し浪費することで、本当の問題をそのままにしてしまう行き詰まり状態を作ります。本当の問題がもっと不愉快なことが多いのは、悪者扱いする対戦相手だけでなく自分自身もその中に含まれているからです。
気候変動にまつわる従来の意見のグラデーションを描く地図を次に示しますが、そこには対立する両極端の立場が含まれているように見えると思います。実際にはそうではありません。どれほど激しく対立しているように見えても、隠れた合意で繋がっていて、そういう隠れた合意こそが問題を解決不可能にしているのです。私たちが目指すべき場所、私たちが生態系の危機によって結局導かれる場所は、このグラデーションとは全く別の所にあります。
このように全く異なる様々な観点を結び付けているものがあるとすれば、それは何でしょうか。まず、これらはみな温室効果ガスと地球温度に注目していることです。グラデーションの一方の端ではそれを問題ないと言い、反対の端ではそれが文明の終焉を意味します。これら全ての立場で、気候変動と炭素を環境保護主義の中心に位置づけるという全般的な合意が共有されています。
その結果、(全員ではないにしても多くの)懐疑論者は、自然への思いやりという大切なものを、標準的な人為的地球温暖化の物語といっしょに不要なものとして捨ててしまいます。同じように、脅威論者は人為的地球温暖化に注目するあまり、無意識のうちに(社会問題は言うまでもなく)他の環境問題の重要性を二の次へと格下げしてしまいます。
この問題をめぐっては至る所で騒がしく議論されているので、野生生物の保護、生息地の維持、有毒廃棄物や核廃棄物、土壌浸食、地下水の枯渇などのような問題が入り込む隙間は無くなってしまいます。残念ながら、後で詳しく書きますが、気候不順の隠れた原動力となっているのは、まさにこのような他の問題なのです。気候変動は生態系荒廃の症状ですが、生態系の荒廃は少なくとも五千年前から続き、現在その最高潮に達している変化なのです。それは文明と自然の間に広く行きわたった基本的な関係から発生しています。
気候変動が私たちに促すのは、違う種類の関係を作り出すことです。それは、地球とその全ての場所、生態系、生物種を神聖なものとするような関係です。観念と哲学の上だけでなく、物質的な関係においても神聖なものとするような関係です。少なくともこれが欠けているうちは、私たちが直面する環境危機から逃れることはできません。具体的に言うと、私たちの一番の注意を、一つ一つの地域、一つ一つの場所で、土と水と生物多様性を癒すことへと向けていくことが必要です。破壊された大地の上に果てしなく広がる太陽電池パネルが、この問題を解決してくれることはありません。私たちは文明全体が一つにまとまるための目的を発動させる必要があります。「人類の上昇」、つまり人類が支配者の座へと昇るあいだに痛めつけられ苦しめられた全てのものたちに、美しさ、健康、いのちを回復することです。
グラデーションのどこにいても、炭素が議論の中心になります。(ここでもまた、全員ではありませんが)多くの懐疑論者は、環境問題が完全に消え失せるのを望み、気候変動に反論することで地球から際限なく略奪する権利を回復できると期待しているように見えます。気候原理主義者は、他の環境保護運動を全体として支持はしますが、あべこべに懐疑論者と同じく他の環境問題を締め出すよう煽り立て、二酸化炭素を発生しなければ生態系からどんな略奪を行っても構わないと暗黙のうちに認めてしまいます。
私がここで示したいのは、論争の枠組みそのものが問題の一部だということです。「分断の物語」から出てくる「論争の枠組み」には次のようなものがあります。
さりげなく公然と、このような前提が現在の気候科学と政策に行きわたっています。それは基本的な研究テーマの策定から、気候についての政治議論、資金提供の優先順位、技術、農業、工業にまで及びます。このような前提は脅威論者と懐疑論者の両方に共通していますが、同じ前提が現在の文明を下支えしていることを考えれば、驚くことではありません。問題の発生源は、いま主流の解決手段と同じ場所にあります。だからこそ、別の枠組み、別の問題の立て方が必要なのです。
もっと強烈な言い方をするなら、懐疑論者が正しいかどうかは関係ありません。議論の元になっている前提こそが、私たちを暗澹たる未来へと追い込むのに十分なものだからです。そこで、新たな「論争の枠組み」を示したいと思います。
生態系の危機をはじめとして、この時代に集中して起きている様々な危機は、私たちの文明の通過儀礼です。その通過儀礼の向こう側で待っているのが、ここに概略を示した信念の体系です。
農業、技術、経済にこれらの信念を実現した社会がどんなものか、想像できますか? これに比べれば、現行の「グリーン」な政策など取るに足りないものに見えることでしょう。現在、環境保護主義政策の船は「分断の物語」の潮流に逆らって進まなければなりません。オールを猛烈に漕いで、環境保護運動は水面を激しく泡立てますが、水上をどれだけ進んでも、船は潮の流れで引き戻され、地球全体の状況は悪化を続けます。大気汚染防止法が制定されて50年が経つのに、地球全体の汚染は過去最悪です。水質汚染防止法が制定されて40年が経つのに、海洋のプラスチックの総量は全ての魚よりも重くなっています。種の保存法が制定されて40年が経つのに、地球の生物多様性は急激に減少しています。いくつもの気候条約が制定されて数十年が経つのに、気候撹乱は激しさを増しています。
この状況を解決するには、オールをもっと強く漕げばいいのでしょうか? もし潮の流れが変えられないのなら、そうする他に望みは無いでしょう。ここで、比喩は当てはまらなくなります。この潮流は気まぐれな自然の力ではなく、世界を破壊する傾向が遺伝的に組み込まれているような人間性のせいでもありません。そうではなく、この潮流は人間が作り上げたシステムでできています。何よりもまず金融システム、それから政府、科学、技術、教育、宗教といった制度です。人間が作り上げたものなら、解体することができます。
それを解体する方法は、容易なものではありません。世界を救うという物語には疑いの目を向けるべきです。歴史をさかのぼれば、このような企ては利益以上に害をもたらしてきました。緊急の行動が必要な場合は特にそうですが、いま自由に使える既存の材料を利用することになるのは避けられません。既存の政治権力の制度、既存の経済機構、既存の技術様式、既存の思考方法。大規模で迅速な行動を組織しようとすると、現に権力を振るっている機関により大きな権力を与えることになるものです。既存の機関、思考方法、技術、経済機構は全て問題を引き起こした内因なのです。私たちはその向こうにあるものを思い描く必要があります。向かう先をはっきりと見通すことはできません。新たな社会の地平で、私たちは人間の持つ創造性の思いもよらないあり方や表現を発見するでしょう。
しかし、私たちを導く原則を示すことはできます。私たちのシステムはもっと深いところにある潮流に乗って動いています。それは私たちの文明の神話です。それは私たちが現実だと思っているものを作り上げている物語、意味、認識、合意です。世界の癒しは、現在の行き詰まりに私たちを導いた分断の神話の外から来るはずですし、必ずそうなるでしょう。
注:
[1] 彼が2017年前半に2〜4年で人類絶滅が起きると確信を持って予測するのを私は聞きました。
(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/which-side-am-i-on/
次> 懐疑論の世界を訪れる
> 目次
前< コミットメントが息づく場所
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?