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私個人の理性の時代

訳者コメント:
 男が理屈っぽいのは、女に比べて理性に長けているからではなく、要らんところに理性を使おうとするから。ハートの直感と違って、頭の理性は冷たく、メリット・デメリットを計算して判断することしかできないので、どう決断しても不安が残る。決断は本来ハートの領分なのに、それを頭脳が浸食しているので、体中が凝り固まって、腫瘍や結石ができる。
 まったく、自分は理性に毒されているのだと思うけれど、そんな中にも女性性は残っていると信じたい。それが迷宮を脱出する命綱となるから。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


3.2 私個人の理性の時代

合理的で直線的な証明は知性が求めるものだ。心の道は、頭を誰かの胸に預け、答の中へと漂うところから始まる。 (コールマン・バークス)

「科学的」であるとはどういうことでしょう? この言葉は日々の生活においてどのような意味を持つのでしょうか? 17世紀以来、理性ある人間は他の全ての人よりも高く評価され、理性はあらゆる形の認識の中で最高の地位を与えられてきました。理性は、結局のところ人類に特有の領域であり、人間を動物から区別し、本能と感情という生物ゆえの遺産を乗り越え、高みへと導いてくれます。したがって、理性の生き物であるということは、より高みへと昇ることであって、人間らしさを増し、動物らしさを減らすことです。

私はここで「人間」を意味する「マン」という言葉を、良く考えた上で使っていますが、それは長らく文化的偏見によって、理性は男性を際立たせる性質だと考えられてきたからです。男性はより理性的である一方、女性はより感情的で直感的であるとされました。女性は生物の働きに近く、ホルモンの周期的な変動に左右されやすいと考えられていました。私たちが理性を高く評価することと切り離せないのは、男性を女性よりも高く評価することです。

理性は男性に関連する特性ですが、それは男性の方が理性に長けているからではなく、男性が理性をより広く適用するからです。一般的に言って、私たちの文化では女性よりも男性の方が多くの場面で理性を発揮しますし、理性が不適切な状況でさえ、あるいは特にそのような状況で理性を展開するのが男性です。理性を分断の特徴と見るなら、男性が理性を好むのは、男性の分断がより極端なものである証拠となります。女性(もっと一般的には、男女両性の内なる女性性も含んだ女性的なもの)が私たち男性に与えてくれるのは、理性によって切り離されてしまった生理、感情、直感と繋がり直す方法です。

ギリシャ神話の英雄テーセウスのように、私たちは迷宮をさまよっていて、その合理性とエゴという迷宮には、私たちを食い尽くす魔物が潜んでいます。ミノタウロスは人間の頭を持つ獣で[4]、生物の衝動の上に理性の顔が乗っています。アテネ人と同じように、私たちは青春時代の最高の部分を理性のために犠牲にします。いちど迷宮に入ったなら、外へ出るには女性だけが差し出す命綱をたどるしかありません。

私は合理性という迷宮について良く知っていますが、それは私がそこに長いこと住んでいたからです。私はどんな状況にもまず論理を適用し、感情を抑えて理性を働かせることで、自分が他の人たちよりも進んだ認知ができ、知的であると思っていました。より優れた人間で、より科学的で、より理性的、一言で言えば、より良い人間だと思っていました。私は低級な感情ではなく、高級な考えから行動しました。理性を自分の人生に適用することで、新たな〈理性の時代〉が完璧な社会をもたらすと考えた啓蒙思想哲学者たちの理想に同調したのです。理性は世界のあらゆる問題を解決する全能の道具となるはずでした。

私が個人的な〈理性の時代〉を追求する中で、降りかかった災難のいくつかは想像がつくでしょう。自分の感情を麻痺させて、メリットとデメリットという理由のリストを比較することでしか決断できなくなりました。物事を「算定」しようと懸命に努力しましたが、どう転んでも私の決断に欠けていたのは、心に基づいて選んでいればあるはずの確信でした。疑心暗鬼が私を悩ませ、どの決断も心底から貫き通すことができませんでした。決断の前には優柔不断に、決断の後は疑心暗鬼になって、私は動けなくなりました。その麻痺を埋め合わせるため、膨大で緻密な理由と正当化の網の目を作り出して私の決断を支えようとしましたが、どんなに頑張ったところで、絶望的な漂流感に私は囚われました。

ずっと後になって分かったのですが、私の考えていた理由の全ては、非合理的、無意識的で感じることもできない何かに基づいて既に決めていた選択を、後から合理化するためのものだったということです。私の選択の隠された決定要因を明るみに出すことが、緊急の優先事項になりました。もし「理由」あってのことでないなら、私がそのようなことをするのは一体なぜなのでしょう?

このことと、私たち自身の集団としての〈理性の時代〉との類似点に注目してください。巧みな理屈をいくら積み重ねたところで、私たちもまた無力な分析と説明の海を漂い、おぼろげにしか気づいていない力に突き動かされて、災難に向けまっしぐらに突き進んでいるのではないでしょうか? 私がどうしようもなく自分の人生で同じパターンを繰り返してきたように、私たちは集団的な歴史を繰り返しているのではないでしょうか? 問題を計算ずくで解決しようと私が何度もしたように、科学という形に現れる理性に、今も私たちは救いを求めてはいないでしょうか?

個人レベルでも、地球レベルでも、同じおごりが支配しています。それは、懸命に努力さえすれば、全てを解決でき、いつまでも幸せに暮らせるというものです。

私が〈科学の計画〉の私家版を最終的に捨てたのは、いつのことだったでしょう? それは、度重なる危機が私の人生を引き裂き、管理とコントロールの計画に望みの無いことが、いやというほど明らかになったときでした。私たちを取り巻く世界を見てください。集団として、私たちもそのような瞬間に近づいていることを、疑う余地があるでしょうか?

理性を廃止しろと主張しているわけではありません。科学的方法と同じように、理性にも相応ふさわしい場所があります。それぞれが適切な領域で働けば、どちらも驚異を生み出す道具となります。問題は、それが適切な範囲を超えたときに生じるのであり、私自身の人生にも起きたように、現実のすべてを自分の支配下に置こうとするときに生じるのです。その結果として、社会的・物的な環境は加速度的に悪化し、枯渇していきます。個人的な例では、他の人たちが傷つきます。集団の例では、文化全体、生態系、そして地球そのものが傷つきます。やがて、自他を区別するということは根本的には正しくないので、損傷と枯渇が巡り巡って自分自身に影響が及ぶのが、必然の成り行きなのです。このような影響を管理・修正しコントロールしても一時的な効果しかなく、その代償はエスカレートしていきますが、それはこうした対応の背後にある分断という物の見方が、実はそもそもの被害をもたらした原因だからです。

アントロポゾフィー(人智学)の医師であるトム・コーワンは、中世の錬金術の伝統を引きながら、この一連の作用に興味深い比喩を提示しています[5]。錬金術師は人間が次の3つの部分から成ると理解していました。頭部、心臓と肺のある胸部、そして内臓です。銀に象徴される頭部は、冷たく静的で、反射する性質があります。心臓は金に象徴され、暖かくリズミカルです。硫黄に象徴される内臓は、熱く、ものごとを変化させます。この哲学では、知る能力は頭ではなく心臓に宿ります。心臓は知るため、頭脳は反射、つまり内省するためにあります。頭脳の役割が体の他の部分にまで侵入した結果を、コーワンは次のように説明します。「静止という性質が具体化し、臓器の結石、心臓や動脈のプラーク、全身の腫瘍などのような、硬化として現れるのです。」

〈理性の時代〉の技術的成果にも硬いものが圧倒的に多いのは、単なる偶然でしょうか? 舗装道路、建物、金属、プラスチック。これらは全て自然のリズムと変容のプロセスに逆らうように設計されています。飛行機から見下ろすと、急成長する郊外住宅地は、都市の中心から放射状に転移していく腫瘍のように見えます。柔らかな大地が硬くなった姿です。

私個人の話でも、科学の文化全体でも、頭脳が知る器官としての心臓の役割を奪い取ったのです。私たちがこのことを直感するのは、錬金術でいう冷たさという頭脳の性質を、理性の行使と結びつけるときで、「冷徹」や「冷静」という言葉を使います。頭脳は考え、考察し、探求するためにある一方、心臓は知るため、そして選択するためにあるのです。

理由に迫られない選択という考えは、古典物理学の基本原理である決定論に反しています。ニュートン力学系では質量に選択の余地はなく、その運動は未来に向かって永遠に続き、作用する力によって完全に決定されます。私たちが自分自身を同じように見るなら、科学が約束するコントロールには莫大な代償が伴います。それは、科学の約束に匹敵するほどの無力感です。私たちの運命は、ニュートン力学における質量のように、作用する力の総体によって完全に決まっているのです。

古典科学の宇宙は力の宇宙です。科学革命の成果がこの原則に明確な形を与えましたが、実はその始まりはずっと古く、分断の起源にまでさかのぼります。思い起こすのは古代の農夫で、土地が野生の状態に戻るのを防ぐために力を加えます。思い起こすのは建築社会で、人間の努力によって自然の形を人間の創造物で置き換えます。自然を征服し人間の本性ほんしょうを征服するには、あらゆる軍事的な企てと同じく、フォースが必要です。テクノロジーの歴史は、人類が自由に使えるエネルギーを際限なく増大させてきた歴史で、人力から抜け出て、畜力、水力、風力、蒸気、石油、ガス、電気、そして原子力へと発展してきました。そして物理学でいうエネルギーとは、力を距離で積分したものに他ならないので、人類の上昇とは行使する力を際限なく増大させることに他なりません。それは力を人間のコントロールのもとに置くことです。したがって人間の運命の成就とは、自然のあらゆる力を利用し、それらを完全に人間の領域に取り込むことです。

物理学における力は、私たち自身の人生における理由と対をなすものです。出来事を引き起こした理由を調べることで、その出来事を理解しようとするのと同じように、物理系に作用するすべての力を足し合わせることで、物理系の振る舞いを理解することができます。私個人の〈理性の時代〉には、古典科学的な世界観の特徴が全て備わっていました。科学のイデオロギーに染まると、それ以外のやり方で知識を求めるのは無意味に思えます。

実に皮肉なのは、理性に支配された科学的な人生を送ろうとした私自身の試みが、コントロールと確実性への欲求に突き動かされながら、かえって危機と不確実性を生み出したことです。同じことが世界的に起きています。〈科学的方法〉とは、「試して確かめよう」ということに尽きます。しかし、私たちはますます確信が持てなくなり、私が自分の人生で経験したのと同じ疑念で麻痺しています。私の頭の中に渦巻く対立した声が映し出すのは、現代の政治やその他の制度にある、激しく対立した利害関係で、それが目的を持った変革を妨げていることです。そのため私たちは、過去の勢いに押され、自分たちの力ではどうすることもできない力に翻弄されながら、前へ前へと突き進んでいくのです。


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注:
[4] 現代のミノタウロスの描写では、人間の体の上に雄牛の頭が乗っているが、多くの古典的な絵では逆になっている。
[5] トム・コーワン [Cowan, Tom,] “The Fourfold Approach to Cancer”(がんに対処する4段階の方法)、 2005年11月13日、バージニア州シャンティリーにて、Wise Traditions Conference(賢明な伝統の会議)での発表。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-3-02/

2008 Charles Eisenstein

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