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罪と罰(1866)/ドストエフスキー(ロシア)②

記事①の続きです↓

感想


 記事①で書いたように、私はこの全体として陰惨な物語、つまり殺人、病的心理、貧困、奸計に関わらず、その中で太陽のような輝きを見せるこの男、ラズーミヒンに強い愛着を覚える。

 独自の信念をもって、彼らロージャ(ラスコーリニコフ)一家を支えようとする彼の存在は、この物語の終盤に描かれる殺人者の更生の始まり、また貧困の一家の再建のほんの前触れとして、物語の中に差す一条の光とも言える。

"階段からまっかさかさま”ラズーミヒン

もし今二人が彼に向かって、自分たちのために階段からまっさかさまに飛べと言ったら、彼はいささか疑おうともせず、文句なしに、早速それを実行したに違いない。

罪と罰(上)p359

 これはあるシーンで、ラズーミヒンの心境について表現されたものである。独自の信念を持った非凡な活動家として、際立った個性を持って登場するその彼が、ここではあたかも従順な道化者のような表現をされている。思慮もせず、他人の命令に沿って、”階段からまっさかさまに落ちる”とは、全く犬っころの扱いである。

 これはラズーミヒンがラスコーリニコフの妹ドゥーニャに熱烈な一目惚れし、その感激のあまり、盲目になる様子を表したものであった。彼の恋の熱狂を作者は愛情とユーモアをもってこのように表現したのである。
 そして、彼がドゥーニャに恋をする一連のシーンはよくよく彼の魅力的な性格が顕れており、読んでいて、こちらも幸せな心持になる。今回はこの微笑ましいシーンについて、簡単に紹介したいと思う。

”大好きが握力に出る”ラズーミヒン

 まずは我らがラズーミヒンを造作なく陥落させてしまった人物。ラスコーリニコフの妹アヴドーチャ・ロマーノヴナ(ドゥーニャ)はこのように描写されている。

アヴドーチャは全く目立って美しい娘だった ー 背が高くて、ほれぼれするほど姿が良く、しかもその中に強さがあり、自ら頼むところありげな気持ちがうかがわれた ー それは一つ一つの動作に現れていたが、しかしけっして彼女の物腰から柔らかさと優美さをうばうような事はなかった…

罪と罰p370

 容姿がよく、純潔でありながら、貧困の中育んだ、誠の誇りを兼ね備えた、ドゥーネチカ。作者は彼女の魅力の描写について、一ページまるまるの分量を割いている。ラスコーリニコフの世話役を(買って出て)務めていたラズーミヒンは、偶然に彼の母と妹と相まみえることになる。いまだかつて彼女のような女性を見たことがなかった彼が一目で熱狂的に彼女に恋したのも無理はなかった。

 彼は彼女らの手をそれぞれ両手に取り、熱心に彼女らの愛する病人ラスコーリニコフの状況を説明し、安心するようにと説き伏せる。そして、その一語一語ごとに二人の手を痛いほど握りしめる。全く遠慮もせず、ドゥーニャに熱烈な視線を向けながら…
 そして、ドゥーニャが彼の意見に同意を示した時にはもう彼は有頂天になってしまい、

 「そうですわ、そうですわ...もっとも、あなたのおっしゃることに、皆がみな賛成じゃありませんけど」とアヴドーチャは口を添えた。と、たちまちあっと悲鳴をあげた。彼が今度という今度、思い切り強く彼女の手を握りしめたので。

罪と罰(上)p365

 恋の歓喜のあまり、意中の女性の手を握りつぶさんばかりのラズーミヒン。彼にあっては、恋心まで身体的に表れてしまう。そして、場面は次のように続く。

 「そうですって!?あなたはそうだとおっしゃるんですね?もう、こうなるとあなたは.,.あなたは...」と彼は歓喜のあまり叫びを発した。「あなたは、善と、純潔と、叡智と、そして...完成の源泉です!お手をください、お手を...あなたもどうぞお手をください。僕は今すぐ、ひざまずいてあなた方の手を接吻したいのです!」

罪と罰(上)p365

 ついに歩道の真ん中で膝をついて、二人の婦人の手に接吻させてくれ、と叫ぶラズーミヒン。一本気で情熱的で、純情を持った、そんな彼の特性がここではありありと描かれている。

 ドストエフスキーは彼のこれらの特性をこう説明する。

ラズーミヒンは、どんな気分でいる時でも、自分のすべてを一瞬の間に表明する特性を持っていた。で、誰でもがすぐ相手の人となりを見抜くのだった。

罪と罰(上)p359

 酔っ払って、熱狂的に言葉を捲し立て、しまいには往来に膝をついてしまう風変わりな男ではあるが、しかし、"どうやら良い人らしい"ことは母娘にもすぐにそれと分かる。
 また、彼の頭の良さと行動力はすぐさま苦境にあった彼女らの厚い信頼を勝ち得ることとなる。

"猛省へとまっさかさま"ラズーミヒン

 恋の歓喜の模様は微笑ましく、作者が表現するように彼の人柄がこの上なく顕れるシーンであるが、しかしその後の描写もまたラズーミヒン的であり、読んでいて楽しい。

 あくる日、彼は眠りから目を覚ますと、"呪うべき昨日の日"の記憶が次々に思い出されてきた。ドゥーニャにはその時婚約の夫があった(それは貧しい家庭を救う為に彼女の献身から承知したものであったが)。ラズーミヒンは酔いに任せて、実現し難い恋の情熱の為に、醜態を演じてしまった。その上、"婚約の夫の悪態をつく"という無作法極まりないことまでしてしまった(しっかり的を射た意見ではあったが)。ラズーミヒンは恥ずかしさに悶えた。

酒中に真ありというが、その真実があの通りすっかりさらけ出てしまったのだ。『つまり、自分の嫉妬深いがさつな心のきたなさを、すっかりさらけ出してしまったのだ!』
(中略)
いったい自分はー酔っ払いの暴れ者は、あの昨日のだぼら吹きはあのような純潔の女性比べていったいなんだろうか。『こんな無滑稽な対照がありうるだろうか!』ラズーミヒンはこう考えると、火が出そうなほどまっかになった。

罪と罰(上)p380

 昨日の歓喜に満ちた様子とうってかわって、猛省するラズーミヒン。そして、羞恥のあまり…

これはもう耐えられない事だった。彼は拳を振り上げて、力まかせに台所の暖炉をなぐりつけ、自分の手にも傷をつけるし、レンガまで一つ打ち落とした。

罪と罰(上)p380

 彼の良心に対する潔癖と精細な心の動きが、よく描写されているように思う。


 ラズーミヒンの心の動きが顕れたこれらのシーンは、幾分滑稽な印象とともに進められることになる。
 しかし、ドストエフスキーは彼を物語におけるただ興味深い性質をもった一登場人物に留めることはせず、彼の純情に応えるようにして、際立った魅力をもったドゥーニャのその伴侶となる運命を彼に与えた。
 物語において、彼は思慮の深さや慧眼によって、他と際立ったものを見せるわけではなく、奇特な活動家として描かれるわけであるが、
そうした人間の魅力や大きさを作者自身が十分に尊重していたからこそ、彼をラスコーリニコフ一家の正式な家族として迎えたのだとわかる。


 …また、彼とドゥーニャの恋についてのラスコーリニコフの態度もまた、物語の中で魅力的なシーンであり、彼らの厚い信頼が見えるものではあるが、その尺度で拾い上げると際限がないので触れないことにする。




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