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罪と罰(1866)/ドストエフスキー(ロシア)①

ドストエフスキー罪と罰は、私の大好きな小説の一つであり、物語の中でも印象深いシーンが多数ある。その魅力について全て綴るとなると、小説写経のようになってしまう可能性がある為、特に印象深い事項に絞って、書き綴ろうと思う。

あらすじ


 貧乏な元大学生ラスコーリニコフは一つの執拗な空想に囚われる。
悪名高い高利貸しの老婆を殺し、その多額の資産を奪い取ることで自身の偉業の第一歩とする。その奪い取った金によって、自身が多くの善行を成し遂げるのなら、それはその立派な偉業の中の手段に過ぎず、従ってそこに罪はないのだ。
 この空想は”非凡人は凡人の法律や道徳を踏み越えてもいい”という思想に裏付けられ、また宿命とも思われるような幾つかのきっかけが図ったように彼を訪れ、ついに彼はそれを実行することになる。
 理論と矛盾して、否応なく揺すぶられる彼の魂の変遷が描かれる。

感想


罪と罰は物語の始まりから早々に主人公が恐ろしい殺人を犯してしまう為、終始重苦しさとともに進められる。人殺しに加え、貧困の為にどうしようもない苦境に陥った人々。悪臭の立つところに群がるハエのような、個性際立った卑劣男の登場。
 そんな中、この小説に対して、初めに掲げるには全然適していない調子に思いながらも、大好きなこの男をピックアップしたいと思う。

大切な女性の友人にこそ紹介したい男ランキング堂々の一位”ラズミーヒン”

 ラスコーリニコフの大学時代ほとんど唯一の友人である彼はこのような紹介で物語に登場する。

それは珍しいほどに快活で、さっぱりした、単純なくらい善良な青年だった。とはいうものの、この単純さの下に、深みと尊敬が隠れていた。彼の親友はみなそれを了解して、彼を愛していた。彼は実際時々お人好しめく事もあったが、なかなかのりこう者だった。

罪と罰(上)p94

 この一節だけで彼がこの物語の”こちら側の人物”であり、愛すべきキャラクターであるのが分かる。そして、彼が個性的な人間であることを決定づけるように文章が続く。

それからもう一つラズーミヒンの特徴はどんな失策をしてもびくともしない事と、どんなに困っても閉口しないことであった。彼はたとい屋根の上にでも住まうことができるし、地獄のような飢餓も、法外の寒さも忍ぶことが出来た。
(中略)
ある年などは、一冬じゅう自分の部屋を暖めないで、寒い方がよく眠れるからこの方がかえって気持ちがいいのだと提言した。

罪と罰(上)p95

 屋根の上ででも生活できる男。
私はドストエフスキーがどれだけこの人物を愛し、またきっと彼の言動を楽しみながら、物語を書いていたのだろうと想像する。
善良で快活でありながら、労苦を知り、それに耐える身体的な強さまで与えられているこの青年は、やはりラスコーリニコフ一家の大きな支えとなっていく。

愛すべきお節介男”ラズミーヒン”

 ラスコーリニコフはこの愛すべき友人ともう4カ月も会っていなかった。人知れず遂行された殺人の後、彼はただ”ラズーミヒンのところへ行かないと”という想いだけで、彼の住まいを訪れる。しかし、彼の顔を見た途端、自身が全然人と話せるような精神状態にない事を悟る。久々に見る友人のその姿も鬱陶しいし、自身がその住まいを訪れていることも苛立たしい。そこで彼は何の挨拶もないままやっとこう切り出す。「(以前ラズミーヒンから紹介してもらっていた)家庭教師の仕事がもう全然ないんだ…まぁ、家庭教師の仕事なんて全然ほしくないけど」
 ラズーミヒンはひどい風采をしたラスコーリニコフに驚きながらも、彼の要望に応えて、翻訳の仕事を彼に紹介してやる。しかも、早速に前借の報酬と仕事道具まで渡してやる。
 しかし、無言のままそれを受け取ったラスコーリニコフは彼の住まいを出たと思うと、またすぐ引き返して、無言のまま、受け取ったお金と翻訳するテキストを返しに来る。これにはラズミーヒンも驚き、呆れてしまう。

「君はいったい脳炎でもやってるのかい!」
「なんだってそんな道化芝居を打ってみせるんだ!僕でさえ面食らわされるじゃないか…それくらいなら、なぜやってきたんだ。ちくしょう」
「いらない…翻訳なんか…」と、ラスコーリニコフはもう階段を下りながら、こうつぶやいた。
「じゃ、一体貴様はなにがいるんだ!」
「おおい!君はいったいどこにいるんだ!」
ラスコーリニコフの答えはない。
「ちょっ、そんなら勝手にしやがれ!」

罪と罰(上)p200

 しかし、こんな不躾な男に対しても、ラズーミヒンはそれだけで見限らない。

 ラスコーリニコフは自分の住まいに帰った後、熱病にうなされる。犯した殺人は意識の下に潜り、彼を混沌とした苦しみが襲い続ける。
 そして、翌朝10時に目を覚ますと、どういうわけかラズーミヒンまで彼の住まいにいる。女中と一緒になって、ラスコーリニコフの看病を手伝っている。別れた後、居ても立っても居られず、彼の住まいを探し歩いて、とうとう病に倒れている友人を見つけ出したわけである。そして、それに留まらず、彼のひどい身なりを見兼ねて、服屋にまで行く。汚い靴を持ち出して、靴の寸法まで違わぬようにして、一式揃えてやる。

 こんなお節介は決して、単なる気弱なお人好しであれば、出来ない事である。急に自宅を訪れてきたと思えば、礼儀もわきまえないで自分勝手な振る舞いで帰ってしまう。そんな友人に対して、頼まれもしないのにわざわざ住居を探し当ててまで、世話を焼いてやる。これは彼独自の信念が、またこの変わった友人に”何かのっぴきならない事情がある”と見極める、観察眼がなければ決して出来ない。

 彼は別のシーンでこう話す。

「僕はひとがでたらめを言うのが好きなんですよ!でたらめってやつはすべてのオルガニズムに対する人間の唯一の特権です。でたらめを言ってる中に、真理に到達するんですよ!
(中略)
自分一流のでたらめを言うのは、人まねで一つ覚えの真理を語るより、ほとんどましなくらいです。第一の場合は人間ですが、第二の場合にはたかだか小鳥にすぎない!…」

罪と罰(上)P364

 先哲が残した書物の中の一つの真理を暗唱するようにして、自身の拠り所にしているくらいなら、間違っていても、自分の諸感覚に頼って、独自の言葉を吐く人間の方が優れている。
 彼が自ら考え、その感性を大切にしながら、行動していることがよくわかる言葉だと思う。


 信念をもった活動家である彼であるからこそのラスコーリニコフへの献身と彼らの固く結ばれた友情のその様子は、この陰鬱な物語の中で数少ない、暖かく救いのあるシーンとなっている。


...因みに主人公ラスコーリニコフは"自分の娘が連れてきたら断固として拒絶すべき男ランキング"の2位の座を占めている事は周知の事である。


引き続き、もう少しラズーミヒンを書きます。→②




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