ただ愛された時間
お墓はいらない。
法事もお経もいらない。
そんな時間もなければ、効果も見返りもないし、故人のことは生きている我々が、日常の中で思い出すので、それらは必要ない。
もちろん墓を持っていること、お経や法事に直接的な効果は存在していない。
しかし故人を思い出すという話しだが、法事や墓参りすら忙しくて参加できない人が、日常の中で故人を思い出す時間や機会があるようには、とても思えない。
生きている人が今を、目の前のことで忙しくしているのは、今も昔もきっと変わらない。
でもその中で故人を思い出す時間、その記憶に触れる時間、それらを誘発する行事をどう扱うのかには違いが出ているのだろう。
その違いが墓はいらないであったり、法事お経はいらないなのだと思う。
だけど、最近一歳半の甥っ子とふれ合う度に思う。
みんな忘れてしまってはいるけれど、こういう「ただ愛された時間」がかつてあって、そのおかげで今があるということ。
そしてその「ただ愛された時間」というのは、今は亡き故人からも知らず知らずのうちに実はもらっていたということ。
じぶんがそれをしてあげる立場になった時に初めて、その時間に想いを馳せることができる。
そのための時間は、果たしてムダなのだろうか?
ムダと言ってしまってよいのか?というのを、よく考える。
墓なら墓、法事なら法事に行くまでの時間も、帰り、余韻に包まれるその時間も含めて、かつてあったであろう「ただ愛された時間」に触れられる機会なのだから。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
人は記憶でできています。
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