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年末年始という節目

クリスマスには昔、圧があった。

クリスマスに一人で過ごしたら〜。
クリスマスにそのまま家に帰宅したら〜。
用事もなく在宅していたら〜。
といったような人からの目線、世間体による圧が毎年あったのだが、年々減少していき、今ではクリスマスは普通の1日に極めて近い日になっているし、誰と居るか、どこに出かけるかも、さほど気にならなくなっている。


反比例という表現が正しいかはわからないが、僕は正月は元々は普通の1日に極めて近いもので、正月会うとおめでとうございます、本年もよろしくお願いします。
と言って挨拶されるのが、なんだかむず痒かった。

けれど、最近は区切り、節目であって今年一年も無事に乗り切ることができた。
来年はどうしようかなぁなどと考えたり、何より本年も大変お世話になりました、来年もよろしくお願いしますなどの挨拶が、自然と口から出るようになっている。


いろいろな理由がありそうだけど、おそらくは自意識の低下と、誰かの支えでじぶんが生きている、今があるという思いの増加だろう。

生きている中でじぶんが気にしているほど、じぶんは相手の一挙手一投足に注目しているわけではない。
なのに人はじぶんを気にしていると思うのは矛盾しているし、実際に人にたずねると誰かのクリスマスの過ごし方を気にしている人は少ないとわかる。


そして年齢を重ねていろんなシチュエーションに遭遇すればするほど、その中でじぶんのできることは少ないということ。

そのできないことは誰かの仕事が、思いが、おせっかいが支えてくれていて、それが見えるようになったのは、少し誰かの役に立てることがあると、役に立てたじぶんと同時に、できないじぶん、もっとこうできたらいいのに、こうしたい、というのが浮き彫りになる。

そうすると、しみじみあぁ支えてもらっているんだなぁと腹落ちするようになる。


年末年始、正月の挨拶が自然にできるようになったのは、そういう人たちに今年一年ありがとう、今後もどうぞどうぞよろしくね、という気持ちの現れなのかもしれない。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
歳を重ねて見えるほど、わかるほど、できるほど、わからないこと、できないことが多いことに気付く。

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