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どっちでもいい

「どっちでもいい」という言い回しを、みなさんはどう感じるだろう。



MacBook ProとMacBook air、どちらも甲乙つけがたく、どちらもいいよね〜という意味合いの時と、ガストかジョナサンって同じすかいらーくで、どっちでもいいよ。という時のどちらになっても興味があまりないという意味のどっちでもいいが二種類あるように思っている。



そして人間には選ぶこと、決めることというのが少なからずストレスに感じる部分があるため、サービス提供者はそのストレスを軽減することもサービスの一環とし、それを皆が追随すれば、社会のサービスや提供するものは必然と似てくるはずだ。


ヨドバシとビックカメラどちらで買っても変わらないし、無印とユニクロの無地Tシャツを服にそもそも興味のない人がどちらを着るかにこだわる人が少ないように。


そんなとき人々は後者の「どっちでもいい」と思ってしまうし、後者の「どっちでもいい」が社会に蔓延しているようにすら思う。



靴下に、洗面所のコップに、バスタオルに、部屋の照明に、メガネに、ヨーグルトに、枕カバーに。


「どっちでもいい」は選ぶ、決めるストレス、そして失敗するストレスが何より少ないという利点がある。


しかしそれは喜びや悲しみの、感じる感情の総量が減っていることを意味していて、その人らしさと言われるものや人としての味わいみたいなものって、僕はどこかで感じた感情の豊かさにあるような気がしている。


後者の「どっちでもいい」が蔓延する社会で、何か一つでも、『これがいい』を見つけること、もしくは前者の甲乙つけがたい「どっちでもいい」を見つけること。


小さなことでも選ぶこと、決めることからなるべく目をそらさないでいることで、なんでもいいと諦めないことによって、あなたの感じられる感情は、見える世界は豊かになるはずだ。


ツラいこと、悲しいこと、苦しいこと、楽しいこと、うれしいこと、なんともならないもの、なんとかなるもの、それはそれは様々だろうが、そこに感情があるだけ、感じていられるだけ、豊かだと思うし、感じていればそのあとなんとかできる。




長くなってしまったけれど、なんでもいい。どうでもいい。寄りの「どっちでもいい」はちょっと寂しいよってお話しでした。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
個性ってその人が譲れないものなんだと思っています。


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