ぽっかり空いたすきま

『Dr.パルナサスの鏡』という映画には、映画製作の段階での象徴的なエピソードがある。

主人公を演じたヒースレジャーが撮影途中に急逝してしまい、映画の撮影は頓挫してしまう。

この映画の構成は、「現実」と、鏡の世界の「想像」という構成になっており、「現実」の撮影を終えたあとの急逝だったので、「想像」の撮影がまるまる残っていた。

監督の狙いとしては、鏡を通った先の「想像」の世界では主人公の人としての複雑性、多面的なところを描くつもりだったこともあり、ヒースレジャーの訃報を聞いたジョニーデップ、ジュード・ロウ、コリンファレルの三人が代役として名乗りをあげ、代役が三人という一見驚くようなキャスティングも、一人の人間の複雑性というシーンのため、より効果的に演出できた。

これもヒースレジャーの人徳なのだが、その後三人の代役は一人としてギャラを受け取らず、彼の娘マチルダにそのギャラは全額寄付されました。

彼の遺作である映画を完成させたい。
彼はいないけど、彼の家族を大切にしたい。


という熱い思いが伝わるエピソードだ。


死んだときに人にどう思われていたいか?
という質問があるが、僕はこのエピソードのような関係性を望んでいる。


じぶんが死んだあと、あるいは友が死んだとき、そのぽっかり空いたすきまに、まるでその人がまだいるかのような関係性を続けてもらえる、続けられる人でありたいと思っている。

きっと死ぬときってじぶんが死ぬってこと以上に、じぶんが死んだあとのそのすきまの方がきっと気になってしまうだろうから。


そしてすきまになってないよ。
と言ってもらうには、生きているときに、いい人でいないとなぁとは、強く思います。

思い出す人ってやっぱりなんだかんだいい人で、愛が強い人だった気がするので。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
いつかは必ず死ぬが、どこか悲しいや苦しいことではなく、どこか救いの要素が混じってきはじめたのは、いつ頃からだろうか?







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