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儚い記憶

僕は『サザエさん』というアニメを観ると儚いと感じてしまうというnoteを昔書いた。


あれは磯野家にとってみんなが揃っている一番幸せだったときの記憶で、それが毎週シャボン玉のように現れては消えてを繰り返して、その瞬間は過ぎ去って今もうここにはない。という儚さを感じるからだという旨のことを確か書いた。



そして『サザエさん』がこれ程長く続いているのも、この生家実家という場所での時間の儚さ、無情さを明るくポップに描いているからだと思う。



実家という場所の印象は人によって様々だ。
だがそうであっても緩やかに変化することからは逃れられない。


永遠はない。
皆老い、最後にはいなくなる。

それは頭ではわかっていても寂しいものだ。

だからこそできるときに共に過ごし、その記憶を共有することで、お互いがそこにいたということを確かめ合う。


子どもは子どもなりにいつか大人になって家を出る日の未来にざわざわしたり、ウキウキしたり。

大人は大人で子どものこと、親のこと、街や社会のこと心配したり。

お年寄りはじぶんの健康のこと、みんなに何を残せるかのこと。


いろんなことを思いながらも過ぎ去ることだけは決まっている儚さを生家実家は含んでいて、そのノスタルジーを日曜夕方という絶妙な時間帯に放送される『サザエさん』に、各キャラクターに重ねて観てしまうなぁ〜ということを思う日曜日の夜でした。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
何かがなくなってしまうことを、いなくなることがどうしようもできなかったという記憶は、人にとって大切な記憶だと思うのです。

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