忙しいの弊害
忙しいとヒマはどちらも程度や加減が大事だろうと思う。
けれどどちらかと言えば忙しいよりヒマなことを人は嫌っているように感じる。
おそらく意味合いとして、
社会や他者からのニーズがない=ヒマ。
社会や他者からのニーズがある=忙しい。
と捉えていそうだ。
であるならば確かに忙しいということは必ずしも悪くないし、忙しいことの満足感はじぶんが求められていることの証ともなりうる。
ただしこの感覚はじぶんの気持ち、主観だ。
忙しいあなたと分刻みのスケジュールを共にする人や30分とか1時間とかの予め区切られた時間で会うことを約束された人はあなたのように気持ちいいだろうか?
ビジネスならおそらく問題ないだろう。
話したいこと、決めなければならないことが決まれば時間は早いにこしたことはない。
けれど何の商談も取引もない、ただあなたに会いたい人が30分や1時間という時間で、おしりが予め短時間で決められた約束で、満足感が得られるのだろうか?
おそらく否だろう。
本人にとって忙しい状態は恍惚感、満足感がある状態なのだけど、それを目の前で味わう人にとっては、心がモヤモヤする、人によってはそれだけで傷ついてしまうケースなのでは?と思う。
誰からも声がかからないヒマを恐れ、いろんな人から必要だ、来て欲しいと厚遇を受けてうれしい人が、忙しい中で会う人に自身が嫌った相手されていない寂しさを無意識に与えてしまっているのは、とても皮肉だと思う。
だからこそ冒頭に戻るが、忙しいもヒマも程度や加減が大切で、特に忙しいにはそういう思いやりが一層必要だよなぁと強く感じる。
「会う」や「約束」は決してフラットで平等ではないのだから。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
じぶんが有利で強いときほど、相手の気持ちが大切です。
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