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「機能」も「意味」もないものの良さ

今日のトップ画は、浅草橋の古道具屋さん『白日』(https://instagram.com/hakujitu_?igshid=1mnd2xi1g0i06)
で一目惚れして購入した古時計だ。



古時計と言ってもご覧のように針もなく、時計の内部の機械は奇跡的に残っているものの、錆び付いていて、時を刻むことは難しい。


つまり見た目以上に機能はなく、壊れて朽ち果てた時計以外のナニモノでもない。

見る人が見れば、いやほとんど全ての人にとっては、廃棄品、ゴミなのだろう。



しかし『白日』のお店の方はどこかでこの品を見つけ、この時計に何かを見出だし、お店に置いた。
そしてそれを僕がお店で見かけ、購入したのだ。


いつもの通り買ったときは、「なんかいい」という自身の直感以外のものはなかった。

ただ持ち帰ってみるとやはりと言おうか、機能のない、意味のないものを買うと、どうしても考えてしまう。
じぶんが何に惹かれたのか、と。


僕は自身の部屋を、木や鉄や革といった呼吸している素材である「変わっていくもの」でまとめている。

それはじぶんが変わり続けている生き物であるという意識が強く、また忘れやすいとも思っている。

だからだろうか時の経過によって、じぶん以外にもそこにある全てのものが姿を変えることによって、じぶんが変わり続けていることを、時間が止まることなく流れているということを感じられる空間にしたかったからかもしれない。


しかしこの時計はその唯一不変の止まらないであろう時が朽ちて、まるで止まっているかのような出で立ちでそこにあった。

だが、その時計はよく見れば、木と鉄でできていて、今もなお緩やかに朽ちている最中でもあったのだ。


そういう二面性を一つの物質の中に感じられるものだったからこそ、永遠に今のまま変わらないかもしれないという淡い期待と、それでも過ぎ去る時というものを同時に体現しているからこそ、僕はこの時計を「なんかいい」と思って、惹かれ、買ってしまったのだと思うのだ。


機能のないものをそばに置いたときに、惹かれたときに、そこに人が見出だす意味や関係性や繋がりは、それによって生まれた線は、じぶんの主観によるじぶんだけのものなので、じぶんの輪郭をより確かなものにしてくれる。

だからこそ人は昔から機能や意味のないガラクタを、芸術やアートを愛し、直感で選んだその中にじぶんを、じぶんとの関わりを見つけようと、そのものを愛でてきたのかもしれない。


意味も機能もないものを愛でる。
というのは脈々と人類が大切にしてきたことの一つなのではないだろうか?



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
じぶんのことを、じぶんで知りたい時代にアートの価値が上がっているのも、もしかしたらそういうことなのかもね。




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