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静寂の価値

東京に住んでいると民家や人里離れたという感覚は程遠く、家に居ても話し声や車の走行音、近隣の方の生活音などがして、静けさとは無縁だ。


まして鉄道やバスなどといった公共の交通機関を利用すれば、そしてそれらが向かういわゆる都会(渋谷、新宿、池袋など)というところに行けば、さらに人混みの熱量、都会ならではのざわめきとネオンと広告で、人の欲望を雑踏の中に感じ、それを求める人はエネルギーを、逆な人はどこか吸いとられてしまうくらいの、不思議なエネルギーの交換が起きている。


でもそうやって導線をさかのぼると、静けさ、静寂というものが欲しいときに、今を生きる人はどうしているのだろう?と気になってしまう。


東京にいると一人でいることと静寂、静かであるということは必ずしも一致しない。


もしかすると便利であるということは、賑やかさと明るさを、不便であるということは静けさと暗さを運ぶもので、便利で静かでそこそこ明るいというのは、探しても探しても、なかなか存在しにくいものなのかもしれない。

あちらを立てればこちらが立たず、多くのものはトレードオフで、じぶんがどうしたいか、どうありたいかで良さも悪さも納得して引き受けるという姿勢が、もしかしたら必要なのかもしれない。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
グランドハイアットに泊まって、お風呂に入ったときに静寂を感じて、都会の静寂って、ものすごく存在しにくいのかも、と感じたことを書きました。


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