「沈黙」という名の心

言ってくれなきゃ、話してくれなきゃわからないよ。



それはまことにおっしゃる通り。



じぶんが感じていること、思っていること、考えていることは、じぶんの中に持っているだけでは伝わらない。


話すという形で言葉に、文章に、または表現という形にして、外部に出したときに初めてそれはこの世界に「在る」と認識される。


そして「在る」のだから、それを外に出して、見せてくれなきゃわからないでしょ?というのが、冒頭の一言なのだと思うのだけど、僕はそれだけではないと思っている。



たくさん話す人はたくさん感じることがあって、無口でおとなしい人はあんまり感じていないかと言えばそんなことはもちろんない。


沈黙は、静かなことは何もないわけではない。


言葉にできない気持ちや、人には話せないこと、言葉にして話すくらいなら言いたくないことだって人にはある。

そのとき外部に出せる姿勢、表現が沈黙なのであり、「言ってくれなきゃわからない」という言葉のこわいところもここにある。


目の前に誰かの沈黙が現れたとき、それは何もないわけではなく、むしろ無数のわからないものが、たくさん「在る」のだ。

その無数のわからない「在る」ものを、「在る」よね、と頷いてくれたり、認めてくれることが、誰かと生きるということだったり、寄り添うみたいなことなのだと思っている。


そういうやり取りはできると、されるとうれしいものなのだけど、言ってくれなきゃわからないが強くなり過ぎると、その「在る」ものは無いことになってしまう。


それはなんだか悲しいので、時々は沈黙という形のないものにも、やさしくね。
ってことを昔よりよく思うようになりました。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
僕にとってのnoteは沈黙と向き合うためのものかもしれません。

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