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ほんとうに「悲しい」と感じられた瞬間

高校三年の夏の夜、小学校の時の友人の訃報が届いた。


世に言う悲しい知らせだが、知らせを聞いた時にボクに悲しさはなかった。


通夜の日も夕方まで高校のグラウンドでサッカーをやり、なんならサッカーのあと、夕飯も一緒に食べたいと思っていたくらいだったけど、途中で切り上げてしぶしぶ通夜に向かった。


向かう道のりで懐かしい顔にたくさん出会い、まるで同窓会のよう。


思いがけない人が悲しんでいるのにも、ただの同級生だから来たという平然とした奴らにも、両方に腹が立っていた。


でもそれ以上に確かに仲のよかった友人の死に何もまだ感じていないじぶんに驚いていたし、どこか失望していた。


それなのに仲がよかったので、次の日行われる告別式にも学校を休んで参列した。


出棺前の最後の顔も見たけど、成長して、変わってしまっていて、なんだか知らん人のようだった。


告別式に来るくらいの人なので、感情をあらわにする人がたくさんいて、みんなで踊るダンスの振り付けを忘れた子のように、ボクはじぶんがどう振る舞えばいいのか分からず、キョロキョロしてしまっていた。


そのあとお寿司をいただいて少し歓談し、帰ろうとした時、出口に友人のお母さんが立っていて、来てくれたみんなに気丈に挨拶や会釈をしていた。


ボクも会釈をして立ち去ろうとすると呼び止められて、「あんたは死ぬんじゃないよ。」と言われた。
「親は子どもがうだつが上がらなくても、迷惑かけてても、ほんとうはそんなこと関係ないんだからね。」


ボクと彼は見た目が似ていた。
もしかしたら息子に今かけてあげたい言葉だったのかもしれない。


そしてボクが彼の死を悲しめなかった理由も少しだけわかった気がした。


心のどこかで死ぬという決断をし、実行した彼が羨ましかったのだと思う。

どこかでじぶんも消えてしまえたらと思っていた。



そこにかけられた「お前は死ぬんじゃないよ。」という言葉が、息子を亡くした母の姿が、これまで抱えていた死の気配をボクから遠ざけた。


その夜はじめて友人が亡くなったことが、悲しかった。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
感情って知った時がピークなことはボクは少ないかなぁと思います。



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