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愛されるということ

犬が多くの人に愛され、家族だとまで言われているのは、なにも犬が人の悩みや課題を解決してくれるからではない。

何かができるから、何かが優れているから、何かの役に立つ理由があるから愛されているわけではなく、犬という存在自体が、ただそこにありのままに存在しているだけで、かわいく癒されるから多くの人々に家族だとまで言われ、その中で深く深く愛されて大切にされている。

それは同様に赤ちゃんや子どもたちにも同じことがいえる。


彼らのかわいさの秘密はなんだろう?


僕は彼らが目の前の人を100%信頼していることではないか、疑いや疑念のなさではないかと思う。

赤ちゃんはお母さんのおっぱいが安全かと疑ったりしない。
信頼して飲むから与えられるのだ。
守られ、愛されるのだ。

犬もボールで遊ぶとき、このボールに実は毒が、などとは思っていないし、飼い主が遊びたくないのに嫌々遊んでくれているかもしれない、などというネガティブな心配も当然していない。

もちろんそういうときの裏切りは、信頼してくれている生き物に深い傷を残す。
そして猜疑心や疑り深さは、そういうものの積み重ねで育つ。

だからこそ生きていくなかで、素直に信じるということが難しいのだ。
だからこそそれが自然体でできるものに、人は心を動かすし、かわいいと感じてしまうし、大好きになってしまうし、その相手からもらった信頼に応えたいとも思ってしまうのではないか?

その循環を人は愛と呼んでいるとするなら、愛されるということは、まず愛することで、まず信頼すること、まず信じることから始まるのではないか?

人は誰だって疑われたくはないものだから。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
僕が話すお育ちがいいですね、という言葉はお金や住んでる場所ではなく、愛されて育った、愛されて過ごしているのが感じ取れたときにお伝えすることが多いです。
それは「信じる」から入る人のことかもしれないですね。




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