他人の歌を歌うじぶん
走る街を見下ろして
のんびり雲が泳いでいく
と口ずさむと、その歌は斉藤和義さんという人が作った歌であると気付く。
走る 遥か この地球の果てまで
と口ずさむと、その歌はスピッツというグループの草野正宗さんという人か作った歌だと気付く。
最果てから声がする
選ばれなかった名前を
呼び続けている光がある
と口ずさむとそれはBUMP OF CHICKENというグループの藤原基央さんという人が作った歌だと気付く。
音楽や曲、音というものに強いこだわりのない僕ではあるが、口ずさむもの口ずさむものが、歌を作るのが上手な人の作った歌ばかりなのには、それなりの違和感を感じた。
じぶんの歌は?曲は?メロディーは?
と思うと、今まで生きてきてじぶんにはじぶんの歌がないのだということを思って、なんだかやるせない気持ちになったのも事実だ。
遥か昔を生きた人々には、じぶんの歌は、メロディーは、鼻歌は、それぞれがそれぞれに持っていたのかもしれない。
でもこれは音楽や歌に限った話しではおそらくない。
今日着る寝間着も、夕飯の材料のネギも、メガネもテレビも靴下も、誰かが丹精込めて作ったものだ。
そのおかげでなに不自由なく暮らせているし、そういうものが手に届くようになっていることが進歩なのは間違いない。
だが、その便利さの中で、僕たちはじぶんのじぶんによる何かを作る機会が少ないとも言える。
優れたものを選ぶことには長けているが、優れたものを生み出すことには、もしかするとなれていないのかもしれないし、じぶんのじぶんによる何かを作った体験って人にとって、とても胸をはれる、じぶんを好きになれる作業だったんじゃないかなぁと、帰路の自転車に乗りながら、坂道で斉藤和義を口ずさんだときに感じました。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
足りないことは、ギリギリなことはツラいけど、満ち足り過ぎていることもそれはそれで悩むものです、何事もほどほどがいいね。
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