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命の重さ、その量

以前室内に空きペットボトルが並んでいるのを見て、空いた分とはじぶんが取り込んだ分であり、取り込んだものによってじぶんの生命が維持されていることになるのだと思ったことがあった。

つまり空きペットボトルとは取り込まれた物質がかつてそこに在ったこと、またその不在を知らせ、それを摂取した者にとっては、その命の源、原料をも可視化している存在と言えて、そういう意味でとてもめずらしい物質なのだと感動した。




めずらしいと言ったのは、大抵のものを食べたり飲んだりした後というのは、その痕跡が残らないことがほとんどだからだ。

食材の皮や食べない部分は捨てられ、食器やカトラリーは洗われ、満腹感や潤いは時間と共に無いことになる。


痕跡に残そうとするならば、日記や写真のような記録の仕方があるのだろうが、あくまでそれは紙的な存在感や情報としての記録であり、質や量的な記録にはなり得ていない。


つまり我々一人一人の命がどのくらいの量の食べ物や飲み物で出来ているのかを、量的に感じさせるものというのは、そんなに多くないのだ。(コンビニ弁当やおにぎりの包み、菓子の包装などは大きさを想像させない)



だからこそペットボトルの存在や、あるいはサプリメントの錠剤のビンなどはそれらを我々に強く意識させる。


そういうところから、命というものが、なかなかいろんなものを必要としていること、それが維持されることは、わりと生半可なことではないことを改めて教えてもらえる驚きと、それが自然に続けることができている社会に感謝しかない。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
会期中に美術館を訪れた人が捨てたペットボトルを命と題して展示していきたいくらいです。





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