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疑いが引き寄せるもの

卵が先かニワトリが先か、という話なので確かな答えはない話なのですが、どうにも疑いが疑いを、あるいは疑いが疑った現実を引き寄せてしまうのでは?と思っています。



例えばあなた浮気してるんでしょ?
こないだ帰り遅かったのは、仕事じゃなくて浮気してたんでしょ?

と問いつめられる人が男性女性問わずいたとする。


もちろん元を正せば、浮気の可能性を疑われるその人にそもそもの原因があるという見方もできる。

しかしそれがまったくの無実で、そのような考えに至りながら踏みとどまっていたり、そもそもそのような考えがなかったとしたら、濡れ衣ということにもなるし、そのような考えを植え付けてしまうきっかけにもなってしまう。


あるいはその人の助けになると思ってしたことが、その人の感じ取り方では邪魔された、悪意があると判断され、それ以降の付き合いで疑われたり、警戒されているという関係性だった場合、どうだろう?

疑われたり、警戒されている中で続ける人間関係は苦しいものがある。


そして何より人が裏切りや悪意を発動させたくない、発動してはならないと強く思うのは、じぶんのことを信じてくれている人に対してではないだろうか?

信じてくれていることが抑止力になっているとすれば、疑いの眼差しで接するということは、その疑いを現実にまるで引き寄せているような姿勢だとは言えないだろうか?


信じていたのに裏切りにあうことはつらい。

だが裏切りにあったときの心の痛みを緩和させるために、他者を疑うことはじぶんも相手にとってもつらいことではないだろうか?


だってほんとうは仲良く生きていきたいだけだから。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
でももちろん「わたしの身体中のセンサーがこいつは黒だと言っている」というなら、それは信じた方がいいとは思いますが。



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