(書き途中、約4万字) 「自由になるための技術」という言葉を目にしたとき、なにかピンとくるものがありました。リベラル・アーツという学問のかたまりを日本語でいうとするならば「自由になるための技術」なのだそうです。その言葉にピンときたということは、そのときの私はなにか不自由を感じていたということなのだと思います。2019年初めの頃のことです。 ところで「自由になるための技術」とはなんだか不思議な言葉です。自由になるために技術が必要だなんて考えたこともありませんでした。自由に
個人的にけっこう衝撃的だったので、ここに今の衝撃や考えをまとめておきます。ChatGPTに私自身が今考えていることを聞いてみたときの返答からのことです。 私のChatGPTへの質問はこちらです。 --質問 「私」とは認識の産物であると考えているのですが、この点についてどう思いますか?」 それに対するChatGPTの返答は以下のものでした。 --返答start 「私」が認識の産物であるという考え方は、哲学や心理学の分野で非常に興味深いテーマです。この見方は、デカ
僕は今読書会の運営に携わっています。一応発起人ではあるのですが、今ではいろいろな人が加わって運営されているので、僕もいち運営メンバーです。 最近は、恒例イベントを作れないかということで3週間に1回くらい運営メンバーで企画会議をしています。運営メンバーは16,7人くらいいますが、関わり方はそれぞれで任意としているので、会議に参加するのは5人くらいです。無理はしないように、というのがこの読書会の合言葉です。 企画会議とはいっても会社での会議とはすこし様子が違います。 第1
最近は「自由」について考えています。最近といっても、2022年の2月頃から考えているので、もうすこしで2年が経とうとしています。なんでそんなことを考えているのかというと、僕が今やっている「リベル」というものの目的がたぶん自由であるためであるからです。でも自由というのは普段から使っている言葉なわりに考え始めると難しい概念で、それについてじっくり考えてみようと思いました。もう少し根本的な理由としては、僕が目的や意味にこだわる性格だからなのかもしれません。 今は自由に関する定
前に読書会で「人それぞれだよね」といって終わることに虚しさを覚えるという話が出て、僕は心の中で同意していた。 しかし一方で、人と人とは分かり合えるかというと、それはなかなか難しいとも思う。相手が本当のところ何を考えているのか・思っているのかなんて、分からない。そもそも話す方にしても自分のすべてを言語化することなどたぶんできない(しかしその努力はしたい)。 「人それぞれ違うよね」といって解散することは虚しいけど、かといって「分かり合えるよね」というのもはばかられる。
あらかじめその時間を確保しておくと、余計なことをする。 今日は久しぶりに読書会に参加した。読書会では読書の時間も設けられているのだが、僕は本を読むよりも、ネットで調べ物をして著者の詮索をすることに時間を費やした。疑問は次々と湧いてくる。 その一方で雑事の合間をぬって自分だけで読書をする場合は、本を読むことだけに時間を費やす。結果として読書会ではあまりページが進まないが、合間をぬった読書はページが進む。もっというと、合間をぬった読書は読んだページをカウントしているよう
(文量:約10,000字) 休日の朝にZoomを開いて、読む本の紹介をして、本をもくもく読んで、感想を共有しあって帰っていく。それだけの読書会が、1年半以上、ほぼ毎週続いています。 始めたのは2020年のゴールデンウィーク、コロナ禍にともなう緊急事態宣言が東京に出た頃でした。連休で時間がたっぷりとあるけど家でじっとしていてね、というなんだか不自由な休息が与えられたことをきっかけに始めました。 読書会はリベルという屋号のもとで行っています。リベルとはどういうものなのかは
『ソフィーの世界』、これ児童文学のおもしろい系で、はまりつつあります。 まだ序盤しか読んでいないけど、哲学的に考えることの意味を考えることができそうな本です。 14歳の少女のもとに、誰からかはわからない手紙が毎日のように届く。 手紙の主は、哲学の歴史を古代ギリシャ以前にさかのぼって教えてくれたりする。 哲学によって人は何を手に入れたのか、この前読んだところにはそんなことが書かれていた。 哲学とはなんだろうか。 簡単なことをただ難しく考えているということでは決してな
読書会を主催する側にいると、終了時間を気にしているし、話の方向も気にしている。 (読書会は、本の紹介をして、各自もくもく読書をして、感想をみんなで共有する、という流れで行っている。) 終了時間が過ぎすぎてしまうことはいけないだろうし、時間が詰まっていってしまっては後に話す人の話がゆっくりと聞けない・話せない。 話題も、感想を話してくれた話題に関することで他の人の話が重なっていくことが望ましい。 と思いがち。 たしかにそういうきちっとしたところがないといけないのだろう
ある場面において、予定不調和な球が投げ込まれたとき。 自分がそれを収めることができる可能性が高いとしても、その場にいる人たち全体でその球を受け入れようとすること。 自分はぐっとこらえてみること。 それが信頼するということなのではないだろうか。 そうすると、おもしろい方向に転がっていくことがある。 自分の予想できること、自分の力を及ぼしたことなど、それほどおもしろいものにはならない、かも。
せっかく話が盛り上がっていたのに、「こういう理論があって」とか「(有名人の)誰々が言うには」という話題を持ち出してしまうと、そこで対話的ないい雰囲気が突如として停止してしまうことがある。 それぞれから発せられる言葉で、層のように発想が積み上がっていたのに、止まるのだ。 「やっちまった」とあとから気づく。 理論や著名な知見には、大きな力がある。 それが絶対的に正しいもののように思えて、閉口してしまうのだ。 あるいは、その理論についてイチから説明を求めることも、それはそ
なんだか同じことを何度もくり返すから、書くことで記憶にとどめやすくしようと思う。 最近のくり返しは、 先へ行こうとして足元が崩れること。 逆に、今を大事にしようとすると、自然と、ほんの少しだけだけど前に進める。 これは何度もくり返している。 きっと、先に進むこと、しかも速く、を良いこととする価値観が強すぎるからだろう。 とはいえ、孔子ですら「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」であるという(本当に本人が言ったのかはわからないけど)。 70歳頃になってはじめ
昨日、短編本を作り終えた。今回の内容は、人の不完結さ・弱さのようなものについて考えを深め、その上で一歩の踏み出し方を考えてみようというものだ。人の弱さを嘆くものでもなく、「人は弱い生き物だ」と感傷的になるものでもなく、そういった性質を備えて人は生きてきているのではないか、ということを考えている内容だ。ある知見をもとにすると、人は根本的な部分に不完結さや弱さを備え、そのおかげでうまく生きられてきているとも考えられるのだ。 短編本を作っている間は、心がざわついている。なぜか
昨年、2019年の9月に「リベル」をスタートし、1年と少しが経ちました。始める前はこんなことできるのかなぁと思って始めたのですが、少しずつ、自分たちのやりたいことも確認しながら形になってきていると思います。1年が経ち、リベルについて自分で考えられるようになってきてもいるので、少しずつ考えを残していきたいと思っています。今回は、なんでリベルというサービスをやっているのか、今時点の考えを書き残してみたいと思います。 リベルの着想は、自分がどんな事業やサービスをやるのか悩んで
僕は、個人個人の、こんなことをやりたい、こんなものあったら面白そう、という内発性から生まれるサービスやプロダクト、活動、ひいては人生の選択に魅力を感じます。 ですので、一人ひとりの内発的モチベーションが続く社会にする、ということをミッションにしています。 そのような社会により近づくための一つの貢献が、今回始めた「リベル」です。 人と違うことをしたい、これまでにない新しい価値を提供したいと考えるほどに、視野が狭まる感覚をおぼえることが、僕自身ありました。 視野や思考の狭まり
17世紀頃のイギリスでは、議会の力が強くなっていたようだ。 議会をないがしろにする国王は追放され、議会を尊重する国王は任期を満了できた。 この時にはまだ、国王が絶対的な権力を持つ、絶対君主制の時代であったにも関わらずだ。 その後、名誉革命を経て、国王の権力は削がれていき、現代に通じる議院内閣制が整っていく。 議院内閣制とは、行政を執り行う内閣が、議会の信任をもって成立している政体だ。 議会は、選挙によって国民に選出された議員で構成されるから、行政は間接的に民意が反映されてい