時間の囲い。

 あらかじめその時間を確保しておくと、余計なことをする。

 今日は久しぶりに読書会に参加した。読書会では読書の時間も設けられているのだが、僕は本を読むよりも、ネットで調べ物をして著者の詮索をすることに時間を費やした。疑問は次々と湧いてくる。

 その一方で雑事の合間をぬって自分だけで読書をする場合は、本を読むことだけに時間を費やす。結果として読書会ではあまりページが進まないが、合間をぬった読書はページが進む。もっというと、合間をぬった読書は読んだページをカウントしているような自分がいる。

 ふつうに考えるとこれは逆なような気がする。しっかりと時間を確保した読書会は本を読むことに集中しページのカウントもするような気がする。「読もう」という気持ちが明確に伴っている気がするからだ。それに対して合間をぬってする読書は元々「読もう」と思っていなかったのだから余計なことをしそうな気もする。
 しかし実際はその逆だった。なぜなのだろうか。

 すこし考えてみたのだが、合間をぬってする読書の方は「もったいない」という気持ちが働いているような気がした。合間をぬってする読書は、だいたい忙しさの中にある時間だから、せっかくできた時間をこぼれないようにすくいとるように使おうとする。自然と読む本も、「今自分は何を読むべきか」という手段性を帯びたものになる。実際にそうだったと思う。そしてもったいないことをしていないかと読んだページをカウントする。

 それに対して読書会の読書は、読書の時間があるんだけど何を読もうか、というなんとなくの読書となる。その時間があったから読書をしているだけという感覚なので、読むことから脱線する。疑問が出てきたらそっちに注意を向ける。余計なことをする。

 余計なこととは、自分の意識のうえでの主線にのっていないことであると言い換えることができると思う。それなので余計なことをする読書会での読書は、偶然性を引き込んでくれて、視野を広げてくれる。あるいは無意識という深いところにある興味関心や疑問、悩みなんかを引き上げてくれる。
 それに対して「もったいない」という意識が働く合間をぬった読書は、意識の上にある目的や課題に沿ったものとなる。余計なことはせず、意識できている課題に集中する。

 余計なことをするにはあらかじめある時間を確保しておくことが一つの手であると、久しぶりの読書会で感じた。暇を計画的につくっておく、とも言える。次から次へとやるべきと思うことが押し寄せてくる中で生きているのであれば、時間の囲いをつくっておくこと、とも言えるだろう。
 流れていく時間のなかにそういう意図的な囲いをつくっておくことは、自由さをもって生きていくために大事なことのような気がした。

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