こころが自由であること。

(書き途中、約4万字)

 「自由になるための技術」という言葉を目にしたとき、なにかピンとくるものがありました。リベラル・アーツという学問のかたまりを日本語でいうとするならば「自由になるための技術」なのだそうです。その言葉にピンときたということは、そのときの私はなにか不自由を感じていたということなのだと思います。2019年初めの頃のことです。
 ところで「自由になるための技術」とはなんだか不思議な言葉です。自由になるために技術が必要だなんて考えたこともありませんでした。自由にさせてくれるのは、たとえばお金であったり権威であったり、遡ること明治時代の四民平等のような規制改革であったりというイメージではないでしょうか。つまり、人は本来それぞれに自由さを備えているが、お金や規制といった外的な制約があることで自由になれていないというイメージです。それさえ突破すれば、それさえ手に入れれば自由になれるのだというイメージです。
 しかし「自由になるための技術」には違うニュアンスを感じました。自由になることそのものに技術がいるということをおそらく言っています。人は外的な制約さえなければ自由になれるわけではなく、なんらかの技術を備えることが必要なのだとこの言葉は言っているように感じました。もっと言い換えると、まっさらなままの〈私〉では自由にはなれず、なにかを習得していく必要があるということです。
 ただし、習得によって「個」として強くなっていく、という方向性ではないと私は思っています。また、自由に“なる”ことを目指して学んだり考えたりすることも大事だけれど、自由で“ある”ことそのものを大切にしていくことを忘れてはいけないとも思います。念押しするように先走って書くのは、“〜になる”という意識は先を見させる性質を帯びており、今目の前にあることを純粋に楽しんだりおもしろがったりすることを妨げるのではないかと考えているからです。ここらへんの考えについては、また後に書いていこうと思います。

 私は今、「リベル」というものに携わっています。一応発起人ではあるのですが、今は複数人で運営するように変わってきています。読書会や対話の時間を開いたり、コンテンツを作って掲載したりしています。コンセプトは「知と明日を織り合わせる時間」です。
 その前は、友人と二人で会社を創業して、マッチングサービスや複業求人サイトを始めては、閉じていました。なぜ閉じていたのかというと、ビジネスとしてうまくいく画を描けなかったというのもありますが、自分のなかで「何かが違う」と思っていたからです。リベラル・アーツに関心をもったのは、「何かが違う、では何がいいのか」ということがそれを学ぶことで見つけられそうだと直感したからです。
 事業をつくり始めた最初の頃はビジネス書をよく読んでいました。成功している人の思考法やスタートアップの教科書的なもの、あるいは世界で流行っているものや未来予測など。最初はそれらに基づいて考えたり行動したりしていました。しかしそうして作られていくものたちに「こうではない」と思うようになっていきます。それよりも心理学や社会学などの本を読んでいる方が、想像や思考が広がり何かが描かれていくような感じがしたのです。いろいろと考えあぐねていた私は、「こういう、根本的なところから考えたり想像を巡らせたりする時間は大事なものなのではないか」と感じ始めていきます。

 「リベル」とは、リベラル・アーツに似ていますが、そこに重心を置いているわけではありません。リベラル・アーツとは、少なくとも当時の私には強すぎる言葉でした。学問としての歴史があり、世の中的にも少しずつ注目され始めており、その言葉を使うことで私は何をしたいのかが逆に分からなくなるように思いました。それは、それまでに繰り返してきた私の失敗です。強い言葉や人、大きな流れに近づきすぎてしまうと自分を見失ってしまう。だから、リベラル・アーツという言葉はなるべく使わないことにしました。その言葉を使うことなく、それに感じた可能性を自分なりに理解して形にしてみたかった。これから先もあまり積極的には使うつもりはありませんが、今冒頭で言葉に出してみたのは、多少言葉に出してもいいくらいには私の考えの輪郭ができてきたからなのかもしれません。
 今回は、2つの問いについて考えを深めていきたいと思っています。その2つとは、「人間にとっての自由とはどういうことなのか」と「自由であるために必要なことはなにか」というものです。
 「リベル」とはラテン語で「自由」という意味です。自由を求めて始めたからリベルなのですが、始めてからしばらくの間はそのことを忘れて目の前だけをみてモノやコトを作っていました。でも3年くらい経った頃に、そろそろそういうこと、つまり「なぜやっているのか」について考え始める頃なのではないかと思い始めました。そうして考えてきて、やっぱり私は自由をテーマにしているのだと思うにいたっています。「人間にとって」とあえてつけるのは、自由について考える過程で人間について考えることが多いからです。
 ひとつには、人間がもつ〈世界〉をつくる力についてよく考えます。それは、文明や文化といった基盤としての世界も意味しますし、〈私〉がもつ他者や物事に対する認識によって作られる周辺の世界も意味します。人は物事をただあるがままにみることはできず、常に認識というフィルターを通してみているのだと思います。その認識はその人にとっての自由を左右するものなのではないかと考えています。
 認識とは個人の中で作られていくものだと思います。しかしその認識は個人の中でだけ認められるものであればいいのでしょうか。きっと、そうではないはずです。作られた認識が自分にとっては良くても他の人にとっては気持ちの良いものでないときや現実とかけはなれているときなど、認識とその認識をもつ個人は孤立します。
 人間について考えることのふたつ目は、人間は独りでは生きていない・生きていけないのではないかということについてです。何をもって正しいとするのか、何をもって〈私〉という存在を肯定するのかというときに、他者の存在は少なくない寄与をするのではないかと考えています。しかし、自分とは少なからず異なる他者と一緒に生きるとき、その違いが互いを縛り合うこともあるでしょう。その不自由さを嫌悪して独りになろうとすると、今度は孤独感という不安が自らを縛ることになりこれもまた不自由です。他者と生きる人間にとっての自由とはどういうことをいうのか、この点はしっかりと考える必要があると思っています。
 そしてその上で、「自由であるために必要なことはなにか」ということを考えていきたいと思っています。

 全体の書き進め方としては、自分が考えてきたことを振り返るようなかたちで書いていきたいと思います。テーマをもっていると、ある時これが答えなのではないかというものに行き当たることがあります。しかし、そうした直感を答えとしてまとめようと集中して作り上げられるものは大抵、これじゃないという半端ものです。
 とはいえ、「半端もの」と分かるのは一つの成果です。そう感じるとき、足りない何かも同時にみえているからです。これは書くこと・まとめることの効用だと思います。その足りない何かを埋めていくことで、広がりや深さが足されていくように思います。しかし他方で、書くこと・まとめることで半端ものにしてしまっているのではないかと感じることもあります。感覚的には全体像がわかっているのに、論理や話の展開につられて大事なところが切り落とされていってしまっているのではないかということです。特にきれいにまとめられそうなとき、突破力が私に宿ります。そしてそれは、きれいさや整然さを阻害する実は大事なことを削ぎ落とそうと働きます。きれいにまとまっていく突破力が心地よくて、それを邪魔する複雑なものは大事なものとして映らない。
 それでもやっぱりまとめてみる・書いてみるしかないのかもしれません。自問自答をして出したその答えはいつも何かが違う。私は言葉を使って思考したりコミュニケーションをとったりすることがほとんどです。だから、言葉で今の全体像を書き出してみます。私が私の考えを知るとともに、今の全体像が足場となって、アイディアや認識としての意思や誰かや何かとの出合いにつながっていくのではないかと期待しています。



1章 不自由の感覚

 初めて海外に降り立ったとき、あるいは沖縄でも北海道でも京都でも東京でも、〈私〉は「ここが、あの場所かぁ」と感覚します。テレビやネットや雑誌を介して、いくらでもその地のことを知ることはできます。でも実際に体験するとそれの存在の仕方は〈私〉の中で変わり、それがどういうものであるのかという感覚が生まれるのです。感覚とは、そのものに対する〈私〉なりの理解であり、行動や思考の基となる支点のようなものであると考えます。
 感覚することでそれは〈私〉の中に居着く。あるいは〈私〉の前に現れることを感覚するという。〈私〉はそれを知り、存在を確かなものとして感じることができるようになる。存在を感じられるから、初めてそのときからそれと付き合うことができるようになると言えるのかもしれません。健康、孤独、育児、など、媒体の中を流れる言葉としてそれを知ってはいるけど〈私〉はまだ知らないということが数多くあるのだと思います。

 私が初めに感覚した不自由を抽象的に表現するとしたら、次のような一文になるように思います。

 なにもない砂漠をただ歩き続けることはできるでしょうか。

この質問に対する「No」という答えが私の不自由の感覚です。もうすこし的確にいうと、なにもない(と思ってしまっている)砂漠をただ歩き続けることはできない。どこへ一歩を振り出していいのかわからない、あるいは無理やり歩き続けているというのが不自由なのだと私は思います。

 ここからまずは「不自由」について、自分のなかで整理しながら書いていこうと思います。なぜ自由ではなく不自由なのかというと、私の場合は不自由を感覚することが先にあったからです。もっというと「これが自由なのだ」と感覚したことはおそらくまだありません。これから先もあるのかどうかわかりません。健康や幸せもそれが何を指すのかよくわからないように、不健康・不幸せ・不自由を感じない状態が健康であり幸せであり自由なのかもしれません。しかし、不自由を説明して「そうでないのが自由である」と言って終わらせたくもありません。私なりに自由を定義していきたいと思います。

依存へ向かうとき

 自由や不自由について考えるときに、制約や選択肢の多さ/少なさをパラメータにして話されることが多いかもしれません。制約が少ない・選択肢が多いほど自由であり、制約が多い・選択肢が少ないほど不自由であるという考え方です。私も漠然とそう捉えていたと思います。しかし、私自身が体験した不自由を振り返ると、制約や選択肢の多さというものは自由や不自由を直接的に言い表すものではないと思えてきます。制約が自由を阻害することはあるのだと思いますが、その前にまず〈私〉が自由だと思える展望が先になければ、「自由を阻害される・不自由を感じる」という感覚は生じ得ません。まずは 〈私〉にとっての自由というものがあり、それがあって初めて制約や選択肢が自由・不自由と結びついていくのだと思うのです。ではその自由や不自由とはどのようなことをいうのか。私自身の体験を振り返りながら書き表してみたいと思います。私の不自由の感覚は、たぶん自由を目指して組織を飛び出したのだけれどなぜか「依存」へと向かって進んでいき不自由になっていくという、一見矛盾するような展開によってもたらされました。

 自分が意味を感じられるものを制約なく探求したいというのが、私が会社を辞めるときに思っていたことの一つです。制約というのは例えば会社のなかで新規事業を考えるとき、「リソースやシナジーを考慮に入れると〜〜」「会社規模的に売上はこれくらい欲しい〜〜」など、考えるときに頭をよぎるそういうことです。そういう制約が、純粋にやりたいことを探求していくにあたって弊害になると感じていました。
 もう一つは、自分の力を試してみたいというか、自分の身ひとつで生きてみたいというのもありました。会社に入って数年経って慣れてきてそういうことを考える余裕ができたというのもあるかもしれませんが、20代も後半に差しかかって焦りが出てきたというのもあると思います。メディアなどで目にする、目立った成果を上げている人はごく若いうちに起業などをしていることに影響を受けていました。
 いずれの考えも会社という所属から離れることへ直結していきます。制約をなくして探求したいというのも、自分の身ひとつで生きてみたい・力を試したいというのも、組織の一部であるという状態がマイナスに働くと考えられたからです。そうして会社を辞めて起業することになります。
 しかし、所属から離れて起きたことは、再度の所属であり過度な依存であったのではないかと今では思っています。何に対する依存かというと「起業」あるいは「スタートアップ」という概念に対する依存です。

 組織から離れて感じたことの一つは、自分の無力さでした。私は会社に勤めていた時、社内のシステム部門にいました。ですので、どのようなシステムを作るかを資料にまとめてITベンダーに依頼してリリースまでもっていくことはできます。でも自分でプログラミングをしていたわけではないので、webサイトやアプリを自分で作ることはできませんでした。さらには、どうやって、ゼロからなるべくお金をかけずにサービスを立ち上げればいいのか聞ける人が身近にはいませんでした。頭に浮かぶ友人・知人は比較的大企業の人たちだったからです。自分は起業とかスタートアップとかそういうところから遠いところで生きていたことを痛感します。
 スキルも経験も人脈もお金もないし、戦略を描く力もない。焦点を当てたい問題はありましたがビジョンと呼べるほど明瞭なものでもなく、見通しにつながるものでもありませんでした。もはや自分にあるものを探すのが難しいという状況です。
 そこで始めたことはイベントに参加したり人に会ったり本を読んだりしながら、情報を集めることや教えを請うことでした。同時に自分たちのサービスも形にしていきました。しかし、形にしたりリリースしたりするほどに逆に難しさが良く分かっていく、無力さを感じていくのです。そうしてそれを補うように、半ば答えを求めるかのようにまた外に出ていく。
 情報を集めたり人に会ったりとりあえず手足を動かしたりすることは悪いことではないはずです。そのはずなのですが、初めの頃は自分の問題意識やいいと思える世界観を多少なりともプロダクトに反映させられていたのに、だんだんとそこから離れていく。より成長性の高いもの、利益が上げられそうなもの、成功しやすそうなもの、そんなことを基準に考えるようになっていってしまいました。スタートアップにとって大事なことはタイミングと市場の選択の2点だと有名起業家が言えば、それについて考える。仮想通貨などの新しい潮流が生まれればそれを中心に考え、成長しているビジネスモデルがあればまたそれを基点に考える。常に外をみてそれに反応するかのように思考や行動をする。そしてある時にこう思う、僕は何のためにこれをやっているのか。

 そう思う頃には起業しようと思ったときに持っていたものは薄れ、形にできるほどの鮮明さで想起することはできなくなっていました。私の中は外から得た一般情報や人に言われたことに溢れていました。不思議なことにそれらを組み合わせても私を駆り立てるような原動力にはなりません。いまいちやる気にならない、なにかが違うと思ってしまう、だからアイディアも深まらない。何も始まらないし何も起こらない。こういう時間を経ることで、初めの頃に感じていた無力感に無存在感も混在するようになっていたと思います。
 自分の中を外的なもので溢れさせてしまったそれは、謙虚さにもとづく学習などではなく、依存と言えるものだったのだと思います。何も出来ていない状況からとにかく抜け出したくて、すがるように目に映るものに正解さを求めていた。すがる対象は会う人や答えをくれそうな書物やその著者など様々だったと思いますが、最も大きく傾倒していたのはやはりスタートアップという概念だったのだと思います。速い成功をもたらすそれは無から抜け出したい私を惹きつけました。体系的なノウハウがまとめられていることも、その概念が社会的に注目されつつあったことも魅力です。その世界のことを知るほどに私をそこに所属させ同化させていく。私の中にそれを詰め込んでいく。そしてその世界で言われることが私の思考や行動の原理となっていく。私との親和性などを考えることもなく、疑いもなく受け入れる姿勢は、無力感や無存在感を埋めようとすることを原動力としたスタートアップというものへの依存だったのだろうと思います。

不自由と自由の定義

 「僕は何のためにこれをやっているのか」というある種の気づきは、人の歩みを止めさせる力をもっています。その先に希望のようなものがないと思ってしまえば、そのまま進んでいこうとは思えないでしょう。立ち止まって、私にとっての目的や価値観のようなものを確認して方向転換できればいいのですが、私はそのときそういったものが見えなくなっていました。起業した初めの頃あるいはそれ以前にはもっていたものが、そのときには感じることができなくなっていた。「自分が意味を感じられるものを探求したい」と思って起業したにも関わらず、その一番大事な「自分にとっての意味」を置き去りにし続けた結果、それは見えないところへ押し込められいったのだと思います。もっと言うと、「自分が意味を感じられるものを探求したい」と初めに思っていたことすら、忘れていたように思います。
 そこから再び活動的になるのは簡単なことではありません。また一から考え始めようと思っても、そのときの私のつながりやアクセスできるものは「僕は何のためにやっているのか」と思ってしまったときのままだからです。フォローしているメディアやSNSも人とのつながり方も本棚の本も、そして思考様式も、私には合わないと思ったそれです。合わないと思っていたとしても、つながっているし、それに照らし合わせて考えてしまうのです。ふとしたきっかけで良いと感じるものに出合っても、速さやスケールの可能性などと照らし合わせて思考してしまう。その思考の結果出てきたものにはこれではないと感じてしまう。なぜなら合わない様式によって自動的に加工され変形されてしまうからです。そのときの私とは合わなくなっているから、その生成物を前にして私が動くことはないのです。
 とはいえ、動こうという意思のようなものだけはありました。あるいは、動かなければいけないという固定観念があったのかもしれません。しかし動かない、動こうと思っても動かない、あるいは動きようがない。これが私が感覚した不自由です。

 制約が少ないか多いか、選択肢が多いか少ないかが自由/不自由を決定する要素ではない。そのときの私には制約と言えるようなものはなかったし、選択肢はある意味では無限にありました。それでも動くことはできなかった。選択肢や制約という自由度の高さ/低さと、動くことができているかできていないかという実際の状態と、どちらが自由/不自由を直接的に言い表すものなのか。私は、動くことができているのかいないのかという実際の状態が、自由か不自由かの尺度なのだと考えます。
 私の例だけではなくもうすこし一般的に経験されうることを挙げると、就職活動がそうなのだと思います。私が就職活動をしたのは2010年頃ですが、その頃はリクナビやマイナビなどのナビサイトで気軽に企業を調べてエントリーすることができました。エントリーはできても暗黙の基準があり選考に進めないこともあったのでしょうが、それでもエントリーできる業界や企業の数は幅広いものでした。制約は少なく選択肢は多い自由度の高い状態です。なのですが、みんな自由という感じではありませんでした。どこに入るのがいいのか、自分は何がしたいのか、そんなことに苦慮していたように思います。
 たまに、自由すぎても戸惑って動けなくなるから自由すぎてもいけないのではないか、本当に自由というのはあるのか、ということを耳にします。自由というのは良いことのように言われるけど、その状況に置かれたならば案外良いものでもないのではないかということも聞いたりします。しかしこの場合の自由とは、自由度が高いことを言っており自由ではないのだと思います。なぜなら、動きたい・動かなければいけない状況にあって動けないのであれば、それは明らかに自由ではあるとは言えないからです。自由というのは自由度の高さで決まるようなものではなく、もっというと客観的に測れるものでもないように思います。どんなに選択肢が多く恵まれていると周りが思っていても、当人が自由であると感じられているかはわかりません。反対に周りが選択肢の少なさを可哀想に思っていても、当人はそれを意に介していないということもあるでしょう。
 では、自由とはどのように定義することができるのか。ひとつには、「動くことができている/できていない」が分かれ目になるのではないかと思います。ここまでをまとめた結果ですが、客観的にどんなに自由度が高くても動くことができていなければ不自由です。ですので、動くことができていないことの反対である動くことができているということを反対側に置いて、「動くことができている/できていない」を一つの軸にするという案が考えられます。
 しかし、動くことができていれば自由かというと必ずしもそうではないと思います。動けてはいるのだけど無理やり動いているとか納得していないけどやっているという状態は自由であるとは言い難いでしょう。ですので、「動くことができている/できていない」だけでは自由か不自由かを言い表すことができず、ほかにもう一つ軸が必要になってきます。
 そのもう一つの軸を「〈私〉が伴っている/伴っていない」であるとしました。意味合いは前述したように、その人自身が動いていたとしても嫌々やっていれば、本当にその人がやっているとは言えないことがあるということです。指示されたり義務にもとづいてやっていたり、あるいは社会通念上やらなければいけないと思っていたりして、〈私〉の意に反してやっている場合などです。なんらかの行為はしているのだけれど〈私〉が伴っているとは言えないような状態があるし、反対に「私がやっている」と違和感なく言えることもあるでしょう。そういった状態の表現として「〈私〉が伴っている/伴っていない」という軸を加えることにしました。そして、〈私〉が伴っている方が自由に近い状態であると考えています。
 ここでいう〈私〉というのは〈こころ〉と近い意味であるのですが、〈こころ〉ではなく〈私〉の方を採用しました。理由としては、〈こころ〉という表現は人のこころを客観的・一般的に捉えたものだと思いますが、特に自由というテーマにおいては人の主観性を強調したいからです。
 目の前のものをみるとき、個々の価値観や認識との掛け合わせでそれをみているのだと思います。夕日をみるとき、ただの大きな光源が視界から消えていくという状況把握をするには留まらないでしょう。一日の終わりを感じて心身が落ち着いていったり、あるいは物悲しさや焦りを覚えたりもするかもしれません。それは人によっても日によっても異なります。そう考えると、〈私〉と〈私〉の隣人とでは、同じ物体を前にしてもみているものが異なるのだと言え、そこから生まれる思考や行為も異なるはずです。人はみな同じ世界を生きているようでその世界は主観にもとづくものなのだからすこしずつ異なっているのではないか。世界から〈私〉という存在を取り去ることはできないのだと思います。そして、その〈世界〉のうえに生きる〈私〉が自由や不自由を感じている。自由や不自由を生む舞台である〈世界〉もそれらを感じる主体も、客観的・一般的には表現することができない。だから、〈こころ〉という客観性のある表現ではなく〈私〉という主観性の高い表現を選びました。なお、〈私〉や〈私〉が生きる〈世界〉については後で考察を深めたいと思います。自由・不自由やその原因などを考える上で、〈私〉と〈世界〉に関する理解が必要になってくるためです。

 「〈私〉が伴っている/伴っていない」という軸を加えたときに、「動くことができているている/できていない」の軸の修正が必要であるのではないかと思いました。動くことができているけど〈私〉が伴っていない状態のなかに、操られているに近しい状態があるように思います。操られているとき、「動くことができている/できていない」という表現は適切ではないのではないかということです。
 操られているというと仰々ぎょうぎょうしく恐ろしいことのように思えますが、例えば買い物に行って赤と黄の値札に半額などと書かれていれば、自然とそこに目がいきます。そして、その物が何であるのか・本当に必要なものかという見極めはそこそこに手にとってカゴに入れてしまうことがあります。そして帰ってきてからしばらく経っても使わなかった時、そこで初めて「買わされたなぁ」と思うのです。目を惹きやすい値引シールが貼られた商品を手にとっているとき、「動くことができている/できていない」でいえば動くことができているの方であったと言えるでしょう。しかし、「動くことができている」と言うほどに意思のようなものが介在した行為であったのかというと疑問です。
 「動くことができている/できていない」という表現は、行為に意思が介在することが前提になっているように思います。「動くことができている/できていない」とは「できる/できない」の範疇の言葉ですが、「できる/できない」とは「〜しようと思う」という意思が先にあることが前提になっているのではないかと思うのです。「〜しようと思ったけどできない」「〜しようと思ってやってみたらできた」などと、人の意思が先にあって初めて「できる/できない」という表現になるということです。しかし、行為には意思がいつも伴っているわけではないように思いますし、そもそも意思というものが存在するのかも明らかではないのだと思います。
 先ほど例に挙げた、値引きシールにつられて本当は要らないものを買ってしまうというのは、値引きシールを見たら買うという私の中にある自動システムに基づいて行為したに過ぎないものだと私は理解しています。そのものについて十分に吟味することもなく〈私〉の心身の状態を確認することもなく、値引=お得だという思考回路の瞬間的な活性にもとづいて例えばスーパーの団子を買ってしまう。しかもそれは赤と黄というおそらく人が反応しやすい色でデザインされている。これはまさに、エサを出す前にランプを付けるというプロセスを繰り返すことでランプが付くだけでよだれが出るように変貌してしまった「パブロフの犬」と同じです。値引きシールの付いたものを買えば私は得をするという学習をしたのか教育を受けたのか分かりませんが、それによって出来上がった自動回路によって私は行為しているということです。他にも、最近ではSNSやECサイトなどは、システム側が望んだ行動を起こさせるように人間心理を研究した上でのうまい設計が為されているのだと思います。
 社会心理学という学問では、社会環境が人の心理や行為にどのように影響を与えるのかが研究されています。イメージしやすい例でいえば、集団になると気持ちが大きくなって危ないことや暴力的な行為に及んでしまうことがあるというのは典型的なものでしょう。良い方の例では、信頼できる人と一緒にいると目の前の困難が低く見積もられる、つまり心強いと感じて自信が湧くというのも経験があることではないでしょうか。ほかにも、アフォーダンスという概念では、思考や行為は人の内から発せられるのではなく周囲環境との交互作用によって起こるということも表されています。例えば、膝下くらいのサイズの平たい岩があれば座りたくなるといったことです。これは、適度なサイズとデザインの岩がその人に椅子をイメージさせ座るという行為を導いたということです。つまり、〈私〉の行為に〈私〉の意思なるものがどの程度介在しているのか、それは分からないということです。環境と〈私〉との交互作用の結果として〈私〉の行為が生まれていると考えた方が妥当なのだと思います。
 もう少し踏み込んだ話では、リベットの実験と呼ばれるものでは、ある行為を起こす運動指令の脳内信号とその行為をしようという意思の信号のどちらが先に生じるのかを調べました。その結果、運動指令が先に起こり意思はその後に生じるということが確認されたのだといいます。つまり、〈私〉の行為は〈私〉の意思によって起こされているわけではないということが示唆されるのです。ちなみに、私がリベットの実験を知ったのは『社会心理学講義』(小坂井敏晶著)という本からです。この本では、人間の心理や思考などがどのように作られているのか様々な実験結果と論考によって展開されています。内容は簡単ではありませんが読みにくさはなく、人間の理解を深めるにあたっておすすめの本ではあります。ただ常識が覆されるかもしれませんので、その場合は崩された感が残り修復が必要になるかもしれません。
 行為に意思は介在していないのかもしれません。〈私〉の行為の源泉は意思ではないし意思が行為の引き金ではないのではないかということです。そして実際に、後から考えると「〜しよう」という意思が介在していたとは思えないような行動というのも思い起こされるのではないでしょうか。そうしたことを考えたときに、意思の存在を背景にした表現である「動くことができている/できていない」という軸はあまり適切ではないのかもしれません。それよりも行為は何らかのプロセスの結果であるという意味合いで「動いている/いない」という、状態を表す表現に留めた方が適切なのではないかと考えます。そこで一つ目の軸を修正して「動いている/いない」を採用したいと思います。

 ここまでで2つの軸が定まりました。「動いている/いない」と「〈私〉が伴っている/伴っていない」の2つです。これらの2軸を用いることで次のような4象限を形成することができます。

この4象限において、右上を自由として定義しています。それぞれの象限の説明をする前に、横軸に付記した「どうでもよくはない事に対して」について補足したいと思います。
 「動いている/いない」という軸を置いただけでは、自由/不自由の判定はできないと思いました。興味がないからやっていないだけ、ということもあるからです。例えば、転職活動を周りが盛んにやっていて自分だけがやっていなかったとしても、自分にはその必要がないから動いていないだけということであれば不自由というわけではないはずです。そして自由というわけでもない。ただ動いていないだけで、その人にとって注意を向ける対象ではないということです。だから、自由/不自由について考える土俵にはなんでもかんでも上げていいわけではないということです。そこで、その土俵へ上げる対象の制限として「どうでもよくはない事に対して」という付記をしました。
 初めは、「願望や目的に対して」としてみました。しかしこれでは、やりたくないけど避けられないような事が含まれなくなってしまいます。例えば、学校での勉強はやりたくないしなんでやるのかも分からない事だと思っていた人も多いかもしれません。しかしそう思っていても逃れることは困難だったことでしょう。中学校までは義務教育だし親からも勉強しなさいと言われるし、そしてなんとなくやらないとまずいような気もしていたかもしれません。だから、自分が望むものでも目的としてそこに到達したいものでもないのだけれど、どうでもいいと突っぱねることも出来ずに時間を費やさざるをえなかった。そして不自由を感じていた。そんなこともあったかもしれません。不自由は、どうしてもそれが欲しい・そこに行きたいという願望や目的へ向かう道のりでだけ感じるのではないということです。その先に願望も目的もないのだけどどうでもいいと突っぱねることもできない、だから時間を費やすことになり不自由を感じてしまうこともあるのではないかということです。願望や目的も含めたそれらの不自由や自由を感じる対象をまとめて「どうでもよくはない事」と表現してみました。
 なんでこんなことを気にしなければいけないんだと思う問題が先にあげたようなことだとすれば、その一方で世の中には数えきれないほどの重要とされる問題や事があるのだと思います。戦争や格差や気候変動の問題などはその重要性に異を唱える人は少ないでしょう。しかし、〈私〉という個人はそれら一つ一つに対してその重要性に見合うほどの関心を払ったり注意を向けたりしているわけでもないように思います。そもそも認知していない問題の方が多いはずですし、(あくまでもその人にとっては)どうでもいい事としてカテゴライズされていることもあるでしょう。そういったものに対しては自由も不自由も感じないはずです。一般的に重要性の高い問題であるからといって自由や不自由を感じる対象になるわけではない。あくまでも〈私〉にとっての問題であるのかどうかという限定の上で自由や不自由を感じているのではないか。〈私〉が自由や不自由を感じるのは一般的な重要性などに左右されるのではなく、あくまでも〈私〉にとってどうでもいいのか・よくないのかという主観によって左右されると考えています。
 もうすこし付け加えると、横軸に「どうでもよくはない事に対して」と付記することによって、自由/不自由とはある限定された問題や事に対して感じられるものであるという前提が加えられたことを意味します。しかし、それで本当にいいのかという迷いもありました。なぜなら、自由というのはもっと全体感として感じるものなのではないかという思いもあったからです。「私は自由だ」「私はなんて不自由なんだ」と漠然と感じるというように、自由というのは〈私〉全体に対して感じるものなのではないかということです。しかし、仮に不自由を感じることがあっても全てのことに対してそう感じるわけでもないはずです。学校が嫌でも放課後友達と遊んでいる時は自由を感じられるかもしれませんし、仕事がうまくいっていなくても趣味の時間をとって自由な時間を過ごすこともできるでしょう。ですので、自由/不自由というのは何かしらの“事”に紐づくものであると言えるのではないかと思いました。しかし、不自由を感じる対象がその人にとって重要なことであればあるほど、それ以外の事にも影響してしまうように思います。だから〈私〉とは切り離しがたい事に不自由を感じたとき、向き合うことが必要になるように思います。

 さて、ここから自由の定義の各象限の説明に入っていきたいのですが、「〈私〉」に関する理解がないと話が宙に浮くかもしれません。ですので、ここでも説明を試みますが、次の章で〈私〉に関する考察を行ったあとで改めて補足をしたいと思います。
 説明するにあたって、各象限に例を追記したいと思います。それぞれの象限に〈私〉がいるとき、それはどのような状態であると言えるのかという例です。追記した図が以下となります。

 まず、右上には「自由」が位置しています。ここは「動いている」と「〈私〉が伴っている」が重なっている領域です。〈私〉が伴って動いているから当たり前に自由でしょという直観から定義されたというよりも、不自由についての定義から浮かび上がるように定まっていきました。ここには、例として「好きなことをしている、興味関心のままに探求している」「今の状態に納得している」「無理なく居る」を挙げました。
 好きなことをしているというのは、それが好きだという〈私〉の本質とも言える特徴にもとづく行為であると言えます。「私はそれが好きだ」と言われたとき、それ以上掘り下げることができません。「なんで好きなの?」などと聞いても、「いや、好きだから」としか答えようがないはずです。そしてそれ自体に優劣や善悪を付けようもありません。それを好きなことよりもこれを好きなことの方が優れているなどと言いようもありませんし、それを好きなことは悪いことだと言っても仕方がありません。その人が好きなことは周りがおかしようがない領域であり、その人の本質的特徴を表すもののひとつであると考えます。したがって、その本質にもとづいて行為をしている「好きなことをしている」というとき〈私〉が伴っていると言え、その人にとっての自由な状態であると言えるのだと思います。
 好きなことをしているというのはそれをしていること自体が目的であり、それによって何かを得ようとしているわけではありません。それ自体が目的である行為をしているとき動いていることに疑いが生じようもなく、すなわち自由であるということにあまり違和感はないのではないかと思います。しかし、それ自体が目的である行為をしているときだけが自由であるわけではないとも考えています。その行為自体は手段であり目的や得たいものは別のところにあるという場合でも〈私〉が伴っている状態というのはある、つまり自由な状態というのはあると思います。それが「今の状態に納得している」と記しているものです。
 納得するというのは、嫌とかやりたくないとか意味が分からないなどというネガティブな感情を抱くところを出発点にしているのではないかと思います。筋トレはしたくないけど筋力がなければ理想の動きができないことを理解して(しまって仕方なく)トレーニングに組み込むことにする、というのは納得することの一例です。ほかにも、勉強はしたくないけど勉強をすることで将来の選択肢が増えそうだと知って最低限授業はきちんと聞くことにするというのも納得することの例でしょう。最終的には納得した筋トレや勉強もネガティブな感情を抱いているところが出発点になっています。そして筋トレや勉強はそれ自体は決して進んでやりたいことではなく、目標や将来のためにプラスになるという手段に位置付けられた行為となります。手段と言えば聞こえは悪いかもしれませんが、嫌で仕方ないだけだったことが手段として受け入れられるだけでも前向きな大きな変化であると言えるでしょう。納得するというのは、初めは拒絶されるだけだったことが、次第に〈私〉にとって必要なものとして受け入れられていくというプロセスであると言えるのかもしれません。
 もうすこし別の表現でくり返すと、納得とは、〈私〉とは関係のない外部のものであるという認識が出発点であるのだと思います。筋トレも勉強もやる意味が分からない、一般的にはやった方がいいとされているのは分かるけど〈私〉にとってどんな意味があるのか分からないという状態は、それが〈私〉とは関係のない〈私〉の外部にある状態といえるように思います。その状態から、理解したり情報を得たり、あるいは何らかの出来事がきっかけとなって必要性を一気に感じたりして、〈私〉はそれをやった方がいいと思う、納得していく。これをもう少しイメージ的に表現するならば、外部にあった関係のなかったものと〈私〉との関係が築かれていくことを納得するというのではないでしょうか。関係なかったものが関係あるものへと変化していくということです。〈私〉と関係あることであればやらないわけにはいきません。たとえ筋トレは苦痛で勉強に苦手意識があったとしても、〈私〉と関係するのであれば出来る範囲ででもやってみるという方向に気持ちは向いていきます。苦手とか嫌いとか思っているだけの関係がないものであれば、それをやることに〈私〉は伴っていません。しかし、それが〈私〉と関係することであると思っていれば〈私〉が伴っていると言えるでしょう。関係が深まっていけば、例えばより深く理解したりやっているうちに嫌いでもなくなったりしていけば、より〈私〉が伴っている状態に近づいていきます。そのように考えて、嫌かもしれないけど納得してやっているという状態は自由に含まれるという整理をしました。ちなみに、ここで記したような関係が築かれていくというプロセスは、心理学でいう「統合」と近い意味合いなのではないかと思っています。
  そしてもうひとつ、「無理なく居る」というものも加えています。好きなことをしているとか今の状態に納得しているというのは、どちらかというと積極的に行為している状態を表しているのだと思います。好きな釣りをするとか、苦手だけど将来のために勉強を頑張るというのは、釣りや勉強に向けたこころのベクトルがあり積極性が感じられます。しかし、日々のなかには特に積極性がないこともあります。たとえば、休み時間の教室での時間や家での夕食後の時間、あるいは予定がなにもない休日の朝の時間など。〈私〉という点から何かに矢印が向いているわけでもなく、ただ今いる場所で過ごすだけということもあるでしょう。なんとなく訪れる・なんとなく過ごす時間でのことです。このような時間でのことに自由や不自由を感じないのかというと、感じるのでしょう。だから積極的に行為をすることに対してだけではなく、何をするでもなく過ごしているような時間でのことも自由の定義には含める必要があると考えます。なにも予定がない休日の朝に、時間があるしホットケーキでも作るかとなってすんなりとホットケーキ作りに取りかかれれば自由です。それに対して、何かしなければいけない義務感のようなものに駆られて落ち着かなかったら不自由なのだと思います。

 次に、右下の「動いているけど〈私〉が伴っていない」について説明してみたいと思います。この象限は言い換えると「納得していない/充実感がない」状態であると考え、「やらされている」「気づかないうちに動かされている」「違和感を無視して無理をしている」などを例として挙げました。
 「やらされている」というのは、納得していないけどとりあえずやっているという状態です。納得していないというのはその対象が〈私〉とは関係のない外部のものであるという状態なので、〈私〉が伴っていません。なんだかよく分からないけど従わざるを得ないからやるとき、体が重い感じがして自由であるとは言えないでしょう。
 やらされているというのはその行為自体におおむね意識的であるのだと思いますが、無意識的に行っていることもあるはずです。先に挙げた、値引きシールに吊られて買い物カゴにその商品を投入してしまうというのは、無意識に近い行為なのかもしれません。「気づかないうちに動かされている」ということです。意識的な吟味を行うことなく、値引き=お得という自動回路のようなものに従って買い物行為をしているように感じます。その行為自体をしているときには特に体の重さやストレスのようなものは感じないのですが、買って帰ってからしばらく経っても使わずにその時初めて後悔をするのです。行為への〈私〉の伴っていなさの実感が時差を経て感じられるようになるということなのだと思いますが、これも自由であるとは言えないのだと思います。言ってしまえば、誰かの意図に従って動かされている・操られているという状態だからです。
 「違和感を無視して無理をしている」ということの「無視」というのは意識的なものとして書いています。つまり、無理をしていることに薄々でも気づいているという状態です。違和感というのは何らかのズレがあるという感覚なのだと思いますが、それは〈私〉と周囲との間のズレの場合もあるでしょうし〈私〉のなかのズレの場合もあると思います。
 周りの人の言動に感じる違和感や会社や学校の方針に感じる違和感などは、〈私〉と周囲との間のズレです。周囲の他者や、団体や団体がもつ思想などと〈私〉との間にズレがあるということです。そして、ズレを無視して無理をしているというのは〈私〉の側が無理をしているという意味ですから、〈私〉が遠慮をして場合によっては個性をいくらかでも消して動いているということになります。このような状態は「〈私〉が伴っていない」と言えるのではないかと思います。もちろん、遠慮が必要になることはあると思います。いろいろな人がいるなかで協力しなければいけない場面では遠慮をしたり譲ったりすることは必然的に求められるはずです。他者や団体それぞれに事情や論理があり、すべての意向が一致するわけではないというのもあるでしょう。それに対して納得していれば〈私〉が伴っていると言え自由に近づくのですが、納得できていなかったりよくわからずやったりしているのであれば〈私〉が伴っているとは言えずに不自由なのだと思います。自らの抵抗を自らで振り払って動いているような状態だからです。
 〈私〉のなかのズレというのは、自分で自分に嘘をついているとか、やる気はあるのに体がついていかないとかそういった表現がされる状態をいうのだと考えています。
 自分で自分に嘘をついているというのは、私の場合でいうと、速い成功をどこかで求めてしまって一番大事な「私にとって意味があること」を置き去りにしているような状態です。本当は大事だと思っていることを考慮から外していたり、本当は理解も納得もしていないことを普遍の真理として思い込もうとしたりしている状態です。
 やる気があるのに体がついていかないというのは、調子が良かったり動機づけを促進するフィードバックループのなかに置かれたりして、本当は疲れているのにやる気だけは湧いてくるような状態です。あるいは、調子が上がっていかないことの焦りなどから無理やり心や体を動かそうとすることもあるでしょう。こころは動こう・動かそうとしているのだけれど体は疲れている、このような状態のときにたとえば怪我をしやすいように思います。
 〈私〉のなかにズレがあるというのは、〈私〉のどこか一部が〈私〉にブレーキをかけている状態です。あるいは、〈私〉はここにいたいのに〈私〉の一部が無理やり引っ張っていこうとしている状態であるかもしれません。ですので、〈私〉全体が同じ方を向いているわけではないという意味合いで〈私〉が伴っていないと言えるように思います。
 ちなみに、〈私〉のなかにズレがあるというのもおかしな表現です。ズレというのは2つ以上の個体の間に生じるものであるはずです。しかし、〈私〉というのは1つであるはずなので、ズレが生じるというのは論理的にあり得ないことになります。この点については、「〈私〉についての考察」で説明を試みようと思っていますが、〈私〉というのは身体という境界によって分断された存在なのではなく、社会に存在する概念などとの関係のなかに存在していると考えています。もう少し言うと、〈私〉というのは物体のことではなくこころの概念であり、こころというのは外部との関係を築いていくものだと考えています。そして関係のなかに存在する〈私〉は、中心部と境界部に分けることができるのではないかとも考えており、ここでいうズレというのは中心部と境界部のズレであると考えることができます。この点については、後ほど説明を試みたいと思います。
 「納得できないていない/充実感がない」の「充実感がない」という点については、〈私〉が伴っているかどうかが充実感に影響するのではないかと考えているということです。なんでやっているのかわからないことをやっているとき充実感は感じられませんが、反対に好きではないかもしれないけどやる意味がわかっているものには充実感を感じられます。その行為や時間に〈私〉が伴っていることが充実感につながるのではないかと考えているということです。
 調子が良くてやる気はありまくるのだけど体がついてこない、というのはやる気はあるので充実していそうではあります。違和感を無視して無理をしている状態に該当しそうですが、充実感があるのであれば矛盾が生じそうです。なのですが、その違和感を無視して動いていたら次第に動かなくなって充実感もなくなっていくのではないかと思います。すごく単純に考えて、体が疲れているのに次から次へとやる気が出てきて疲れている体を動かし続けることができてしまえば、いつかは倒れてしまいます。だからやる気と体の疲労との間に一時的にズレが生じることはあっても、どこかのタイミングで体に引っ張られるようにやる気もダウンする、こころが休止モードに入るのではないかと思っています。そういうシステムがなければ生存に影響するはずなので、大雑把な物言いではありますが進化の過程でそのようなシステムが築かれているように思うのです。だから少し話は逸れますが、明らかに疲れていそうなのに異様にやる気があるような状態には注意しなければいけないように思っています。倒れる前に休むのが大事というのもありますが、身体やこころのどこか一部が適切に働かずにトラブルにつながるようにも思うからです。
 
 〈私〉が伴っていないけど動いているという右下の状態に対して、〈私〉が伴っているのに動いていないという左上の状態はすこし不思議に感じられる状態かもしれません。〈私〉が伴っているのであれば動くだろうと思えるからです。これは、好きなことはあるけどやっていないとか、やるべきことは分かっているのだけどやっていないという状態です。
 そのひとつには、「障壁がある」から動いていないという状態であり、「スキルや体力が不足している」とか「時間やお金が足りない」とか「社会の制度や慣習が邪魔をしている」などを例として挙げました。作りたいものがあるけど何からどう始めればいいのか分からないというのは、スキルが不足している状態かもしれません。大好きな旅行に行きたいのだけど時間やお金が足りなくて行けていないということもあるでしょう。他方で、そのような〈私〉の内側にではなく外側である社会に障壁がある場合もあるでしょう。例えば、最近は減ってきているのだと思いますが、一昔前までは女性はお茶汲みみたいな仕事しか募集がなかったと聞くこともあります。営業や企画をやってみたいと思っていた女性にとっては、社会の側に大きな障壁があったことになります。
 しかしながらそうした障壁も思い込みである場合があるはずです。例えば、Webサイトを作れればこんなことをしたいのにと思っていたとして、この場合はWebサイトを作るスキルが不足しているという障壁があり動いていない状態です。しかし今ではWordPressなどで簡単に作ることができますし、さらに最近では生成AIを使って作ることもできるようです。他に進路などに関しても、理系であれば理系就職しかないというのは思い込みで理系から文系就職をすることもできるというのは、私自身先輩がそのようなことをしていたので思い込みであると知ることができました。〈私〉のなかの思い込みは思い込みだと気づけば何でそんなことを思っていたのかとおかしく感じてしまいますが、思い込んでいる時はそれ以外にはありえないと思っています。そして〈私〉が本当は行きたい道はあるのだけどそこに道はないと思い込んでいるから動いていない、その方向性に〈私〉は伴っているのに動いていないということがあるのだと思うのです。
 「思うような成果が出ず進めない」というのもあると思います。こんなことをやってみたいと周りに言っても共感も協力も得られない、あるいは筋トレをしても結果に結びつかない。こんなとき、客観的にみれば動いているのですが、本人は動いていないと感じているかもしれません。〈私〉は全然前に進んでいないという感覚です。〈私〉のなかでは正しいと思うことがある、これをやれば結果に結びつくはずだと思うことがある、のだけれどなかなか成果が出ない。いろいろ思案したり試したりするのだけどそれもうまくいかず八方塞がりのように感じてしまう。そんなこともあるかもしれません。そんなとき、〈私〉は動いていないと〈私〉は感じるのだと思います。
 なお、「障壁がある」の横に「※リベルでは注力しない」というカッコ書きをしています。一応、今回このようなことを整理することで、その先にみえてくるものを事業にしていきたいと思っています。その際に「障壁がある」は対象としては考えないということです。理由としては、スキルの不足や時間やお金の不足に関しては、既にノウハウが多様に用意されているように思うからです。社会や制度の慣習が邪魔をするという点に関しては、個人や集団で働きかけをしていくということになるのだと思いますが、リベルは特定の慣習の是正に関して働きかけをするわけではないということです。人の認識や思考といったところへ焦点を当てて、自由へとつながるようなことをやっていきたいと思っています。

 左上の〈私〉が伴っているけど動いていないというのは、動いていないもどかしさはあるかもしれませんが、〈私〉の方向性のようなものは持てている状態です。あまりうまく事は進んでいないのですが、希望のようなものはあるということです。右下の〈私〉が伴っていないけど動いているというのは、たしかに納得できていなかったり充実感があまりなかったりするのですが、動いてはいます。私は、動いていることはとても大事なことだと思っています。動いていないとそれだけでストレスが溜まるというかよどみが生じるような気がしています。元気だから動いているというよりも、動いているから元気という側面があるのではないかということです。
 それらの状態に対して左下は、そのどちらもない状態です。〈私〉が伴っている方向性もみえていないですし、動いてもいないということです。何をしたいのか自分でわからなくても動くことはできますが、動くことが無駄だとか意味がないとか思ってしまえば動くことはできないように思います。例えば私の場合は、スタートアップという概念に依存して動いた挙げ句、「僕は何のためにこれをやっているのか」と思った時にその状態になったのだと思います。この先に何もないと思ってしまった。ただそれはあくまでも“私にとって”何もないということなのですが、そう思ってしまったときそのまま歩き続けることが困難になるのだと思います。
 嫌なことを続けすぎて、自己防衛的に遮断するようになるということもあるでしょう。例えば勉強をしなさいと言われて、意味もわからず納得感もないまま、ただ机に向かい続ける。そんなことが続いたとき、勉強とその都度生じる負の感情が強く結びついてその負の感情を避けるために勉強を反射的に避けるようになるということも起きてくるように思います。無理は多少は続けることができても、長く続けすぎるとそれを無意識的に受け入れなくなってしまうのではないかと思うのです。それは、好きだった・やりたかったことでも起こりうることだと思っています。
 この左下の状態が最も不自由であると言うことはできます。しかし、ここが再出発であるといえることもあると思います。左上の、〈私〉には方向性がみえているのに思うような成果が出ないとき、それは周りがみえていないからなのかもしれません。右下の、納得ができていないようなとき、その納得していない対象の言い分も聴いたうえで〈私〉のなかで咀嚼しどのように付き合っていくのか考える時間が必要になったりもするのでしょう。〈私〉が伴っていると思っていれば〈世界〉や〈私〉を見直すという気持ちになりにくいかもしれませんし、動いていればそのまま動き続けることをあえて止めようとはしにくいかもしれません。その局面が変わり、方向性を見失い動こうにも動けなくなったとき、〈私〉や〈私〉が生きる〈世界〉というものをしっかりとみようという気持ちにもなるように思うのです。

ある自由とつくる自由

 物心ついた頃からといったら言い過ぎかもしれませんが、先のことをよく聞かれるようになります。小学生の頃から「夢はなんですか?」と聞かれるし、中学校に入ったら高校受験の話が次第にされ始めます。僕が驚いたのは、高校入学早々に「どこの大学を希望しますか?」と面談などで聞かれたことです。大学のことなどまったく知らないのに聞かれて、適当に応えざるをえませんでした。
 こういう質問は、未来を意識したものであると言えます。もうすこし抽象化すると、“今ここにないもの”を意識する・させるためのものです。受験の日はまだまだ先なのに受験を意識させられる、大学のことなどまったく頭にないのにそういうものがあるのだとインプットさせられる。わずらわしくもあるのですが、とはいえ、受験が間近に迫ってから勉強をしても間に合いませんし、大学に行きたいとか行かなければならないと思うタイミングが遅ければ浪人をしなければいけなくなるかもしれないという現実があります。
 今ここにないものを想像してイメージとしてもつことができる能力をヒトはもっています。イメージを強めていけばその人にとっての現実に近づいていき、場合によっては現実とイメージが逆転してしまうなんてこともあるのかもしれません。
 そして、その能力をつかって人間は生存してきたのだと思います。弥生時代以降稲作を始めてからは、川が氾濫してせっかく造り上げた田畑が跡形もなくなったとき、その災害をただ見過ごすのではなく、また起こるかもしれないと想像して対策を講じてきたことでしょう。稲作に限らず、事象をパターン化したり知識や経験で補ったりしながら予測し、先に起こりうることへの対策をしてきたはずです。目の前にいる獰猛な動物から逃げたり偶然見つけた熟れた果実を手にとったりするだけではなく、今ここにないものへ想像を巡らせて対策をとってきた。そして時にはイメージが膨らんで、冒険へとくり出すきっかけとなった。
 今ここにないものをイメージとしてつくり出す能力を使って、生存の可能性を高めたり、未来へと動機づけられたりしているはずです。しかしその一方で、未来への備えとしてその能力を使わせようとする社会の要求は、個人に窮屈さや不安を感じさせることもあるのかもしれません。

 自由の定義の図に書いた「つくる自由」というのは、今はなんだか不自由な状態にあるのだけれど、そこから〈私〉なりの自由をつくっていくということを意味しています。どこかにあると思っている自由を求めるというのは、今ここにないものを意識できるヒトの特性に基づく行為です。
 “つくる”自由とあえて書いている理由は二つあります。
 一つには、自由とはつくることができるという考えを私はもっているからです。不自由であるということに、その原因によっては軽々しく言えない場合もあると思いますが、ただ身を任せているしかないわけでもないのだと思います。〈私〉や〈世界〉への〈私〉による働きかけや、〈私〉と〈世界〉との関係性の調整のなかで自由へと近づいていくことができるのではないかと思っています。
 そして二つには、今ここにないものを意識してそれを目指しているとき、今すでにあるかもしれない自由を犠牲にしている可能性を認識しておきたいからです。これは自由の定義の図の右上に書いている「ある自由」との対比のなかで考えておきたいことです。たとえば、こんな例を挙げて説明を試みたいと思います。

多様性の時代だと会社でも日常会話でもテレビでも言われるけど、〈私〉はいまいちそれについて分からずにそれでも多様性を意識していると装わざるをえない。はっきりいって窮屈だ。そこで、頑張って前向きに、多様性について理解しようと本屋に行ってみる。すると、たしかに時代として語られる多様性に関する本が並んでいる。これを読んで理解しようと思っていたら、書店員さんのユーモアなのか「サンゴ礁の生態系」なるタイトルの本が横にある。妙に惹かれてしまう、手が伸びそうになる。しかし〈私〉が今求める多様性は人間社会が直面している多様性の話なのだから、サンゴ礁の世界の多様性のことなど知っても仕方がない。

「多様性を意識していると装わざるをえない」というのは自由の定義の右下に位置する状態です。納得はしていないけど動いているということです。納得はしていないしさほど関心もないのだけど、避けられない雰囲気でどうでもいい問題とすることもできません。だから、本を読んでまずは理解しようと試みます。理解することで〈私〉なりにそれに向き合う意味を見出そうとする、そして右上の自由へと近づいていこうとするアプローチです。仮に〈私〉なりの意味が感じられなかったのであれば、どうでもいい問題となって自由/不自由の土俵から消えるという可能性もあるでしょう。
 ここでいっている多様性とは人間社会の多様性の話ですから、ふと目についたサンゴ礁の世界の多様性とは関係が薄いという判断になります。目的から外れているということです。しかしどうしてもそれに惹かれてしまった、読んでみたいと思ってしまった。
 目的があるとき、そこから外れるものを排除することが目的に対しては合理的です。無意識のうちに排除しているかもしれないですし、意識的に頑張って退けていることもあるでしょう。しかしながら、目的とは関係なくどうしても惹かれてしまうところに、すでに自由はあるのではないかと思うのです。人間社会の多様性とは関係のないサンゴ礁の世界の多様性の本を誘惑に負けて読んだとき、その時間は自由であると言えるのだと思います。意識の上にある目的とは合致していなくても、それを読みたいと思う〈私〉はいるからです。しかし、今ここにない自由へと〈私〉が向かい過ぎていると、今そこに“ある自由”を取り逃してしまう。
 今ある不自由に目を向けてそれを解消しようと今はまだない自由へ向けて動くことは、ネガティブな状況をポジティブへと変えていこうとすることなので良いことなのだと思います。しかし、今ここにないものへ目を向けている時、今ここにあるものへは目が向いていないはずです。そして今ここにある自由というのはずっと〈私〉から離れずにキープされているわけでもないように思います。サンゴ礁の生態系の本を読みたいと思ったのは今目の前にその本があるから思ったのであって、そこから離れてしまえばもうそのような気持ちにはならないかもしれない。だから、どこかにある自由を目指すばかりではなく、すでにそこにあるかもしれない自由を掴むことも大切なことなのではないかと思うのです。これは、つい先のことばかり気にしてしまう私に対しての言い聞かせでもあります。

 「すでにそこにあるかもしれない自由を掴むことも大切なことなのではないか」というところをもう少し掘り下げたいと思います。なぜ大切なのかということについてです。
 ひとつには、あまり掘り下げになっていないかもしれませんが、ある自由とはそれ自体がおもしろかったり充実感を感じられたりする時間ですから、その時間を過ごすこと自体がいいことなのではないかということです。人間社会の多様性について理解しようと思ったのにサンゴ礁の生態系に魅了されて「すげぇ」と思っている時間は幸せなのだと思います。
 とはいえ、人間社会の多様性について気にしなければいけない時は訪れます。だから脱線ばかりしていられないのよ、というのも現実です。しかしその脱線していられない現実にとっても「ある自由」というのは大切であると考えます。
 ふたつには、「つくる自由」というプロセスにおいて、「ある自由」で確認できる感覚が〈私〉なりの理解や納得へと向かう基点になるのではないかと考えているからです。
 たとえば、仕事において部下に成長を求める投げかけをしているけどまったく響かず関係もうまくいっていなかったとします。そんな仕事熱心な毎日を〈私〉は送りつつも、休日に大学時代の友人と会ってバカ話をする。サークルでいつもくだらない同じ話をくり返したり、かと思えば大会に向けてプロになるわけでもないのに練習に打ち込んだりしたときのことを思い出す。すると、何かに一直線であることや合理的であることが人生の全てではないということを思い出すかもしれません。そしてそのような価値観や感覚というのは、そんな時間を過ごしたことがある〈私〉にも当然に理解できるということになります。仕事熱心な今の〈私〉とは違う側面をもって他者である部下に接することができれば、関係はまた変わっていくかもしれません。
 さきほどの人間社会の多様性の話とサンゴ礁の世界の多様性の話にしても、サンゴ礁の世界の多様性に感動すれば、その目をもって人間社会の多様性を見られるようになるかもしれません。サンゴというのは単体ではとても小さな生き物なのだけれど、褐虫藻かっちゅうそうというサンゴよりもさらに小さな生き物との共生によって生存をしている。そしてサンゴの周りにはカニや魚が寄って生きていて、ときにはカニが天敵であるオニヒトデを撃退してくれたりする。多様な生き物たちが決して意識しているわけではないのだろうけど互いに助け合って一つの世界を形成しています。そして人間が観光で訪れるように、見た目にも美しい。多様性が社会から課せられた義務のような存在から、求めてみたい対象へと変化するかもしれません。
 ここで定義している自由とは、〈私〉が伴っていることをひとつの条件としています。そして、ある自由とはそのまま〈私〉が伴っている状態です。それに対して、つくる自由とはある対象物・概念と〈私〉との関係を再構築していくことであると考えています。〈私〉との関係を再構築するとき、そのときの〈私〉が関係の一方の基点になるのですから〈私〉というものを感覚としてもっていなければいけないのだと思います。ただ相手や社会に合わせるだけでは〈私〉が伴っていないので自由には近づきません。〈私〉というものをもって関係の構築を図らなければ自由には近づかないということになります。その〈私〉というものを自覚できるのが「ある自由」の体験なのではないかと思っています。
 
 その一方で、ここまで「ある自由」の側で触れてきましたが、「つくる自由」の重要性が劣ると考えているわけでは決してありません。仕事や学校がうまくいっていなくても趣味の時間が楽しければいいやと思っていても、次第に不安が募って趣味どころではなくなるかもしれません。自分が正しいと思って突き進んでいても、うまくいかなければ〈私〉そのものが揺らぎ始めるかもしれません。ある自由を感じられる時間を過ごすためにも、不自由に目を向けてその解消へ時間と力を注がなければいけないということもあるのだと思います。
 ですので「ある自由」と「つくる自由」というのは両輪で存在しているのだと考えています。ある自由とは、それ自体が自由を感じるものであるし、つくる自由にとって重要な〈私〉というものを自覚させてくれる。つくる自由とは、それ自体には自由を感じ難いものかもしれないけど、不自由の次第によっては〈私〉に大きく影響しある自由どころではなくなってしまうかもしれないから、時には向き合う必要がある。つくる自由というのは、自由へ向かうという意味でも、ある自由を過ごすという意味でも必要なことである。そんな両輪性を意識していく必要があるのではないかと思っています。
 人によっては、既にある自由などには目を向けずあえて困難に飛び込むということもあるかもしれません。しかしそれは、(周りからみて)既にある自由というのは、その人にとっては自由ではないということなのだと解釈しています。周りからみるとなんでそんな困難なことを、という道を行くことがその人にとっては自由なのではないかと思うのです。もちろん、周りに焚き付けられてとか社会の見えない力に強いられてという場合は不自由なのではないかと思います。しかし、その困難をその人自身が受け入れているのであれば、それはやはり自由なのだと考えます。ここでいう不自由とは、本当に嫌でそこから早く抜け出したいと心底思う状態を指しています。

 ここまでで自由の定義とそれに関する説明を一旦終わりにしたいと思います。私個人の不自由の感覚を起点としましたが、4象限に整理することである程度は広く考えることができたのではないかと思っています。
 次は〈私〉と〈世界〉について書いていこうと思っています。自由の定義にある「〈私〉」に関して説明できていないので、まだ自由について宙に浮いている部分があります。〈私〉に関する考えを深めるなかで改めて自由について考えてみたいと思います。また、〈私〉は〈世界〉のうえに生きているという前提のもと、〈世界〉についても考えてみたいと思います。〈私〉は〈世界〉のうえを歩いているとするならば、そのふたつに対する理解が自由へ向かうための示唆をくれるはずです。

2章 〈私〉と〈世界〉について

 この章では、自由の定義に用いた「〈私〉」についてと、〈私〉が生きている〈世界〉について考えをまとめていこうと思っています。そして〈私〉と〈世界〉に関する考察を踏まえた上であらためて自由について考えていこうと思っています。ここで考える自由と前章で考えた自由の定義との違いは、ここでは原因に近づくための思考であるという点です。もったいぶらずに結論を先に言うと、自由とは「〈私〉と〈世界〉とが調和している状態」であり不自由とは「〈私〉と〈世界〉とが調和していない状態」であると考えています。これは自由・不自由の定義を言い直したにすぎないのですが、自由であるために必要なことを教えてくれる意味のある一歩であると感じています。

〈私〉についての考察1 -存在性

 自由の定義の縦軸では、〈こころ〉ではなく〈私〉を表現として選びました。理由としては、自由や不自由を感じる〈私〉も、〈私〉が生きる〈世界〉も個別性・主観性をはらんでいるからであると先に書きました。〈世界〉は誰にでも同じように存在しているようでいて実は個別性を拭えないのではないかと考えています。ですので、一般的・客観的表現の〈こころ〉ではなく個別的・主観的な〈私〉の方が適していると考え選びました。
 あらゆるところに介在する〈私〉。そんなに〈私〉ばかり登場してくると、自由というのは自己中心的に感じるものであり、〈世界〉も同様に自分に都合のいいように存在するものと考えているのかと思われてしまうかもしれません。しかし、そう考えているわけではありません。むしろその逆で、私のものでしかないはずの〈私〉は、私のコントロール下にあり私に決定権があるもの、“ではない”と考えています。少し混乱してしまうのでこの先は、「自らを分ける」「分けられた自ら」と書く「自分」というものを登場させます。そして、「自分」とほぼ同義語のように使われる「〈私〉」と対比させながら「〈私〉」について考えていきたいと思います。

 「自分」という言葉は日常でよく使います。「自分に向き合う」「自分に自信がない」「自分の責任でしょ」など、自分という言葉を使わずに会話をすることは困難かもしれません。しかしある時から、自分としての「私」というのは本当に存在しうるのだろうかと思うようになりました。ここで言いたいのは、自分とは「自らを分ける」あるいは「分けられた自ら」と書きますが、「私」とは本当に周囲から分けられた存在なのかということです。
 たしかに、肉体の皮膚を境界とすれば「自分」という存在が視覚的には認識されるかもしれません。しかし人間には、得体のしれない「こころ」というものがあります。身近な人が困っていればこちらまでそわそわしてきて何か助けられないかと考える。昔(過去)のことが不意に思い起こされて悔やんだり苛立ったり、週末(未来)の飲み会を楽しみに仕事を頑張ったりする。隣にいる人やテレビの向こうで起きている出来事にまで影響を受け、過去や未来とも切り離すことはできない。私の境界はどこにあるのか、私とはどのような存在性のものなのか。
 「私は自由だ」と言うときに、周囲から分けられた存在としての〈私〉が自由なのだというのと、周囲との境界があいまいな〈私〉が自由なのだというのとでは、イメージされるものが大きく異なります。〈私〉という存在性に対する理解が、自由・不自由の理解に影響することは間違いないのでしょう。

 まず前段として、このコンテンツでは「私」と「〈私〉」を使い分けています。「私」とは今この文章を書いている一人称の私です。それに対して「〈私〉」は、私とあなたとあなたとあなたと...あなたの、すべての人にとっての一人称の私を意味しています。「〈私〉」とはあなたにとっての私(=あなた)でもありますし、私にとっての私(=私)でもありますし、全く知らないそこらへんにいる人にとっての私(=全く知らないその人)のことでもあります。ある意味では一般化した「私」が「〈私〉」です。ただし、人はそれぞれに違うので、みんな同じ〈私〉ではありません。生まれながらもつ気質も、生まれてから得てきた経験や知識やつながりも、そして物事への感じ方も違います。〈私〉にはそういった個有性が含まれることは前提にしています。個有性のあるそれぞれの「私」が〈私〉ということです。
 本題に入りたいと思います。〈私〉の存在性についてですが、問いとしては「〈私〉とは周囲から分けられて存在するものなのか」ということについて考えていきます。

 私が「自分」という表現に抵抗を覚えるようになったのは、自分という区分けが強すぎると孤独に向かうのではないかと感じるようになったからです。閉じた自分の中だけで考えていても思考は塞がっていくし、「自分が」という主語が強すぎるアイディアや考えは受け入れられません。結果として孤独に向かっていくだけなのではないかと思うからです。なんだか良くない方向に向かうような気がして、人は本当はどの程度「自分」というものをもって生きているのだろうかと疑問を抱くようになりました。良くない方向に向かう思考様式は、生存戦略として淘汰されていくはずです。であるならば、「自分」という言葉はその言葉が示すほど「周囲から分けた自ら」を意味していない・意味してこなかったのではないかと思うのです。「自分」という言葉は会話などでは普通に使うのだけれど、実はそこまで自らだけを指していないのではないかとということです。たとえば「自分を振り返る」という時でも、本当に自分だけをみているというよりも、出来事全体や関わっている人との関係全体をみているのではないかと思ったりもします。
 このような「自分」という言葉や概念へのもやもやは、つまり「自分」というのはそこまで周囲から分けられた自らを指しているわけではないのではないかという仮説は、次のようなケースを考えることで答えへの道筋が見えました。次に紹介するケースは私が実際に経験したことと構造は変えずに内容を変えたものとなっています。

 たとえば、東京に住んでいる私が地元である盛岡にUターンできるか検討していたとします。物理的に移動することは新幹線や夜行バスを使えば簡単に行えます。でも生活や仕事の面で自信がありません。自信がないというのは、仕事の面では、東京から盛岡に移住すると収入が下がりそうですし、未知の世界ですから興味をもって打ち込めるものに出合えるのか不安です。生活の面でも、もう15年くらい盛岡から離れていたので友達との関係も薄くなり、地域との関わりも薄くなっていました。
 そんなことを不安に思いながらも、実家へ帰省する度にUターン者向けに仕事を紹介してくれるところへ相談へ行ったり、昔の友達に連絡をとって会ったりしていきました。すると、興味をもてそうな仕事はありそうですし、仕事の紹介もなんとかしてもらえそうな気がしてきました。あとは実家が農家なのですが、それを本業にすることは難しくても、しっかりとやっていけば副収入として頼りになる柱にはなりそうです。地域との関わりも帰る度に出合う人にあいさつをしていると、相手も覚えてくれていたようでとけこんでいけそうです。地元での友達関係もUターンの相談をするなかで復活していきました。私は、Uターンができるのではないかと徐々に自信を深めていきます(おわり)。

 ここで考えたいのは、自信を深めていった私とは周囲から自らを分けた「自分」のことを指しているのかということです。たしかに「自信を深める」というのは主観的な感覚であると考えられるため、私に生じた感覚でありあなたに生じたものではありません。しかし自信の深めた私というのは、私単体で存在しているものなのでしょうか。
 私が仕事を見つけられそうだと思えたのは、Uターン者を対象とした就業支援の仕組みやネットワークが存在していたり、友達のツテもありそうだったりしたからです。また副収入として期待したのは農地に対してであり、その農地を生産性の高いものとして保ってきたのはご先祖様方です。地域との関わりも私のことを覚えていてくれて快く受け入れてくれそうなその地域の人々がいたから、うまくやっていけそうだという気持ちになれました。つまり、私が自信を深めたのは私自身に原因をおく何かに対してというよりは、仕組みやネットワークや人の存在があったこと、そしてそれらとの関係ができていったことに原因がありそうです。就業支援の窓口に行ったら仕事を紹介してもらえそうだった、友達に情報やアドバイスをもらえたしこれからも協力してもらえそうだった、など周囲との関係ができていくなかで「私はできそうだ」と思えていったのです。このときにみているのは、周囲から分けた存在としての私ではなく、周囲との関係のなかに存在している私です。局所的な私だけをみて「私はできそうだ」と思ったのではなく、私が関係する全体をみて「私はできそうだ」と思ったのではないかということです。だから、自信という感覚を得たのは個人としての私かもしれませんが、そのとき無意識的には私と関わりのある全体を想定しています。その全体のなかにある〈私〉を前提にして「私はできそうだ」と思っているのであれば、〈私〉とは関係のなかに存在していると言えるのではないでしょうか。
 〈私〉というものは周囲との関係のなかに存在している。よく、人は一人では生きていけないとか、だから周りに感謝しなさいとか言われます。このような他者との関係を意識するべきだなどということを、ここで言いたいわけではありません。意識せずとも他者の気持ちや思考や存在そのものは〈私〉に影響し〈私〉の一部のようになるということです。そして、〈私〉の存在に関係するものは人だけではなく、仕組みやモノやスキルや他の生物やそれらに付随する概念など、人が認知している範囲の周囲環境にあるあらゆるものが対象になっているのではないかと推察しています。
 さらにもう少し、〈私〉を表す具体例をみながら深めていきたいと思います。

 まずは、自己紹介や履歴書などで用いられる〈私〉を表す代表的な特徴から、関係のなかに存在する〈私〉について考えてみたいと思います。出身校、性別、資格あたりについて取り上げてみます。
 出身校も性別も資格も、最近は項目も見直されてきているとは思いますが、履歴書にはよくある項目だと思います。それらは本当にその人を説明するものなのかは別にして、その人に付いている属性です。「私は〇〇です」と言ったり書いたりする、そこに関係の存在性を見出さざるを得ないのは、その〇〇のイメージが社会に存在するからです。東大出身だと言えば、その人は頭がいい人だと周りからは思われます。あるいは京大だと言えば、頭はいいのだろうけど少し変わっている人なのかなと思われるかもしれません。京大出身者には失礼かもしれませんが、京都大学は実際に「変人」であることを肯定的な面としてプロモーションもしています。ですので、京大出身の人は自身の伺い知らないところで、変人であるという特徴が強化されているかもしれないのです。〈私〉を紹介するそれは、社会のなかに既にイメージがあり、それを認知した他者は社会的イメージを経由して〈私〉をみます。そして〈私〉も、〈私〉が関係しているそれの社会的イメージを経由して〈私〉をみているように思うのです。

 次に性別についてです。
 男の子なんだから泣いちゃダメと言われる、女の子なんだから戦いごっこなんかしないのと言われる。あるいは、男性は「男は(お金を)稼がなければ」と思っているかもしれないし、女性は家事や育児を男性よりもしっかりやっていないと後ろめたさを感じてしまうかもしれない。生殖器の違いによって生物学的に男性・女性と〈私〉は分類され、分かりやすい違いなので周りからも〈私〉からも「私は男性です・女性です」と断定されます。そしてその生物学的な分類をもとに、男はこうである・女はこうであるなどと、こころの面まで分類されます。
 しかし、その生物学的特徴は、こころの面に本当はどの程度影響を与えるのでしょうか。先に挙げた「男は強く」などというのは、人のこころを二つに分類し〈私〉の生物学的分類と単純に結びつけた結果であると言えるでしょう。生物学的分類は〈私〉のこころをどの程度説明できるものなのか。このような問いに対する考察が『ジェンダーと脳 性別を超える脳の多様性』[1]でされています。問いに関連してこの本から読み取れたことを二点紹介します。
 一点目は、統計をとると男性に多い・女性に多いと示される心理的特徴はある、しかし一人の人間のなかに男性的特徴も女性的特徴も両方混在するという点です。性別差がみられる典型的な心理的特徴は、例えばうつ病・体型認識・非行・衝動性・ギャンブル・家事への貢献・スポーツがあるのだといいます[1,P98]。本の中では「どちらがが男性的特徴か女性的特徴かはわかるでしょ?」的に書かれていて実際の統計結果は示されていませんでしたが、男性的なのは非行・ギャンブル・スポーツあたりだと推測し、女性的なのは体型認識・家事への貢献あたりだと推測しておきます。これらの特徴は統計をとると確かに非行は男性に多い特徴として示されるのだけど、一人の男性としては非行的(男性的)ではあるけど家事への貢献(女性的)も十分にあるというケースもあるということです。あるいは、男性的心理特徴よりも女性的心理特徴の方を多く有する男性もいます。著者は一人の人間のなかに男性的・女性的双方の特徴がランダムに混在することを「脳のモザイク」と表現しています。これらのことから言えることは、生物学的分類にもとづいて〈私〉のこころの面まで明確に分類できるのかというと、それは科学的には「できない」と言わざるを得ないということです。
 では、よくよく調べていくと生物学的分類でこころの面を説明できないにも関わらず、男だから・女だからなどと〈私〉を表してしまうのはなぜなのでしょうか。それはごく手近な範囲で要因を考えると、社会に男性像・女性像という観念が存在しているからなのだと思います。身体的特徴に応じて〈私〉はどちらかに分類され、こころの面までその分類に応じた像と結びつけられてしまう。たとえば、男の子がピンクの服を選んだりシルバニアファミリーのおもちゃコーナーに行くと、それとなく親に止められるかもしれません。あるいは、女の子が何かを蹴ったりすると男の子以上にたしなめられたりするかもしれません。このような異なる対応がとられることは、男性像・女性像があることの表れであると言えそうです。人間は基本的には正解からズレたくないと思うと考えられるので、社会通念上の像があればそこからズレないように働きかけるのだと思います。そして、そのような周りの反応をみて「〈私〉は男の子・女の子だからこうなんだ」という〈私〉のあるべき像のようなものが子供の頃から築かれていく。そうして男性・女性であることを踏まえた〈私〉が形成されていく。しかし、くり返しになりますがそのような男性像・女性像は社会に存在する側面が強いものだと考えられます。他者とそして〈私〉が、〈私〉の生物学的特徴に応じた検証不十分な根拠にもとづいて単純に結びつけたものに過ぎないと言えるのでしょう。しかし、少なくとも現時点では性別と結びつけて人をみるということは無意識的にも行っているし、意識できたとしても簡単に拭えるものではないのではないかと思います。
 二点目は、先ほど挙げたような男性的・女性的心理的特徴に対する社会的影響に関する点です。たとえば、女の赤ちゃんは男の赤ちゃんよりも言語テストで平均して好成績をあげるのだと言います[1,P31]。これは、女性の方が社交的とか文系に女子生徒が多いという一般的イメージに合致するかもしれません。赤ちゃんの頃からそうなのだから、やはり性別による生まれながらの違いはあるのではないかと納得することもできます。しかし、言語能力の発達にはよく話しかけることが良い影響を与えるのだそうですが、親は一般に男の赤ちゃんよりも女の赤ちゃんに話しかけることが多いのだといいます。つまり、性別による周囲の接し方の違いが、赤ちゃんの発達の違いに影響している可能性があるということです。ですから、言語能力の差異だけでなく、先ほど挙げた性別による違いが見られる心理的特徴であるうつ病・体型認識・非行なども、それが生物的違いによるものなのか・社会的な影響によるものなのかは分からないということです。親ですら子どもをそのままにみるのではなく、性別によって接し方を変えている可能性が高いのだと思います。いやむしろ親だから、男の子なのにピンクの服を選んだらいじめられるのではないかなどと心配で青を勧めるという側面もあると思います。その子の属性からなるべく外れないようにその子に接していく。そしてその接し方や周りの応対に影響を受けて、それに属する〈私〉というものが形成されていく。
 属する対象である男性・女性というのは、生物学的にはそうなのかもしれませんがこころの面ではそう単純に分類されるものではないようです。であるにも関わらず、男性・女性それぞれの像が社会にあり、周囲からも〈私〉からも〈私〉はそのどちらかに分類されていく。〈私〉の揺るぎない特徴であると思われる性別も、少なくともこころの面では〈私〉の中にあるというよりは社会にある側面があり、〈私〉はそれとの関係のなかに存在していると言えそうなのです。

 次にスキルからも考えてみます。スキルは性別などに比べると後天的に身に付くものですから、〈私〉という存在性とは関係してこないと考えるのが一般的なのかもしれません。会計スキルでも料理のスキルでもピアノのスキルでも、生来あるものではなく後から身にまとったものであり、膜のようなもので〈私〉とは明確に分離されたものであるという考え方です。言い方を変えると、〈私〉はスキルを着脱可能であるとする考えです。
 しかし、そのスキルが否定されたら〈私〉はどう思うでしょうか。たとえば、資格の勉強などもしながら身に付けた会計スキルが、ある日突然AIに代替されたりします。そうなったときに、衣服を着替えるような軽やかさでスキルも脱着できるものでしょうか。様々な論理で脱着を勧めること・肯定することはできるでしょうが、こころの面ではそう割り切れるものではないように思います。場合によっては〈私〉の一部が失われるような不安や虚しさを覚えるかもしれません。
 このような例の想像によってみえてくるのは、〈私〉に関する二つの側面です。
 一つには、〈私〉は、外的なものを〈私〉と同化させていく性質があるのではないかということです。スキルは少なくとも最初は〈私〉とは切り離された外部に存在するものであると言えると思います。会計・料理・ピアノのスキルも、テキストを読んだり人に習ったりしながら習得していくはずです。少なくとも初めの時点では、〈私〉の外側であるテキストや他者の方にスキルが存在していると言えるでしょう。しかしそれが徐々に同化されていく。同化というのは、習得の過程で体や脳がそのスキルに対して適応していくという意味での同化というのは一つあると思います。そしてもう一つは、〈私〉との同化です。元々は〈私〉の外にあったもの・関係のなかったものが、徐々に〈私〉に同化されていく。それが否定されると腹が立ったり不安になったりするし、反対に肯定されるとうれしかったり自信になったりする、初めは外部に存在していたものに対してそういう感情が湧くようになるということは、そのスキルが〈私〉と同化していっていると言ってもいいのではないかと思います。
 とはいえ、身につけた全てのスキルが〈私〉と同化していくわけではないとも思います。例えば私の場合は、大学あたりまでは英語を読んだり書いたり時々話す機会もあったりして、多少は使うことができました。でも今ではほとんど使うことはできないでしょう。しかしあまり気にしたことはありません。その一方で、大学でアルペンスキーを引退するときに、フィジカルトレーニングの方法をまとめたことがありました。私は小学校からアルペンスキーを始めて大学まで続けていましたが、夏場はランニングや筋トレなどのフィジカルトレーニングをして体を鍛えます。引退したら得た知識(スキルではないですが)がどんどん失われていくのかと思い、なんだか寂しくなってwordで30ページくらいにまとめました。そして(迷惑にも)後輩に配って回りました。元々は外部にあり、仮に私が忘れても外部には存在し続ける「フィジカルトレーニング」に対して、失われていくと感じたり寂しいと思ったりした。あれは、〈私〉から失われることに対する寂しさであり、「フィジカルトレーニング」が〈私〉に同化されていたことの表れなのではないかと思います。反対に英語はそこまでには至りませんでした。身についたスキルが何でも同化されるわけではないけれど、元々は外部にあったものや関係のなかったものが〈私〉に同化されることがあると言えるのではないかと思います。少し難解なテーマではありますが「アイデンティティ」とも関連してくる話なのかもしれません。
 二つには、スキルが〈私〉に同化されていくとはいっても、そのスキルは依然として周囲環境の一部として外部に存在しているということです。先ほど挙げた例では、会計スキルが〈私〉に同化されたとしても、社会環境の変化によって会計スキルの評価や社会的な意味合いは変わっていきます。そして、それに引っ張られるように〈私〉もその影響を受けます。言い方が難しいのですが、あくまでも仕事やキャリアという範囲において、そのスキルの社会的評価が下がれば〈私〉の評価も下がります。熟達して「自分のものにした」と感じられるスキルであったとしても、周囲環境の変化の影響を受けるのであれば、そのスキルは〈私〉が所有しているわけではないと言えるのだと思います。
 身に付けたスキルを発揮するときにも〈私〉の内側だけで完結しているわけではないと思います。たとえば、会計のルールが変われば新たに理解し直す必要がありますし、税率などの細かい情報は随時テキストを開いて確認しながら仕事をしているかもしれません。ですので、習熟の段階にあったとしても、外部環境にある会計スキルの管理センターのようなものと〈私〉はつながっていて参照しながらスキルを発揮していると言えるのだと思います。そして、そもそも〈私〉が会計スキルを発揮できるのは、社会に会計という概念があるからです。会計というものが法人の状態を記述する言語のようなものとして社会的に認められているからこそ、〈私〉には会計スキルを発揮する機会があります。いくら身に付けたとはいっても自分のものとして周囲から切り離しては意味を失います。〈私〉と同化していると言えるほどのスキルであったとしても、それは依然として周囲環境の一部として外部に存在していると言えるのではないかと思うのです。
 会計スキルは、テキストなどに知がまとめられているものの典型例でありますし、仕事的で他者からの評価が伴うものの典型例であるようにも思います。つまり外部に力点が置かれたものをあえて選んで論じているから〈私〉の外部性のようなものが見出されるのではないかという疑念が生じます。
 それでは、趣味の料理ではどうでしょうか。まず趣味というのは、誰に言われるでもなく行うものであり、お金などの対価を得られるものでもありません。〈私〉がそれをやりたいと思うからやる、そういう性質を有している時点で〈私〉と同化したものであるように思います。それを奪われるとどこかバランスが崩れてしまう。
 初めは料理本を読んだり料理教室に通ったりしながら学んでいた料理も、次第にそういった他者の手を借りずとも作れるようになっていくかもしれません。経験を活かしてメニューや調理法のアイディアも湧いてくるようになります。会計スキルの例とは違って、究極のところ〈私〉がおいしいと思えばいいですし、料理の技法がどんどん進化しても無視して従来通りの技法で作り続けても問題はありません。そういう意味では趣味の時間は、周囲の評価からは分けられた「自分」というものをもって過ごしているのかもしれません。
 でも、アイディアが浮かんだり料理をしたいとか楽しいと思ったりするこころの源泉が自分にあるのかというと違うように思います。買い出しに行ったら生ホタルイカが安くてどんな料理ができるだろうかと考える。鉄のフライパンをゲットしてテフロンではできなかった煙が出るほどの高熱調理ができることにワクワクする。友達が家に来ることになったから好きなだけ料理が作れる、というより好きなだけ料理をするために友達を家に呼ぶ。料理を楽しむ〈私〉というのは、食材や道具や他者という外部性が伴って初めて実現している。趣味というのは自分の世界に閉じこもっているイメージもあるかもしれませんが、ある部分では仕事よりも外に開いています。閃けばどんどんと試せますし、予算などという考えもなくお金をどんどんと使ってしまうこともあります。しかしそれらの思考や動機づけは外とのつながりのなかで生じるものです。ですので、〈私〉がこころから楽しんでいると言える行為であっても、そのときの〈私〉は周囲との関係のなかに存在していると言えるのではないかと思うのです。
 自分のものにしたと言えるほど習熟したスキルであっても、社会変化の影響を受けて評価が変わったり外部コンテンツを参照しながらスキルが発揮されたりしている。自分がこころから楽しんでいると感じられる趣味であっても、周囲環境との化学反応によって動機づけが生まれその行為におよんでいる。〈私〉の一部と思うほどに同化していても、同化した対象は依然として周囲環境の一部として外部に存在している。このような〈私〉の一部なのに外部にあるという矛盾は、〈私〉は関係のなかに存在していると捉えることで理解できるように思うのです。

〈私〉についての考察2 -依存によって失くしたもの

 〈私〉が関係のなかに存在していると聞くと、もしかしたら〈私〉というものに対して無存在感を覚えてしまうかもしれません。外部にあるさまざまな概念や事物との関係の集合が〈私〉であり、仮にそれらを一つずつっていくと〈私〉というものは無くなるのではないかという疑念が湧くからです。
 しかしそんなことはないのでしょう。なぜなら、外部にあるさまざまなものとの関係の築き方が人によって違うからです。その関係の築き方の違いに〈私〉の中心部のようなものの存在を認めることができるのではないかと思います。では、その〈私〉の中心部を〈私〉と定義すればいいのではないかと思うかもしれませんが、それは違うように思います。なぜなら、ここまで述べてきたことになりますが、「〈私〉は〜〜です」というときの〈私〉は周囲環境にある物事や概念などとの関係のなかにある〈私〉を言っているのだと考えているからです。周囲との関係のなかにある〈私〉を〈私〉と呼んでいる・〈私〉と感じているように思います。
 〈私〉の中心部についてはさまざまな考えが巡ります。〈私〉が蓄積してきた時間なのか、認識なのか、あるいは遺伝子なのか。その答えは、少なくとも今の段階では見つけることができていませんし、もしかしたらそんなものはないのかもしれません。そうまで思うのは、思考を深めるほどに〈私〉は関係のなかに存在するという答えに行きつくからです。
 例えば、遺伝子が〈私〉の中心なのではないかと考えたとします。遺伝子は確率的に全ての人で違うと考えられ、同じ遺伝子を持った人はおそらく存在しないのでしょう。そう考えると〈私〉の中心であるような気もします。遺伝子に書かれた情報によってタンパク質が合成され、〈私〉の各部を形成している。親から子へクローズドに受け継がれた遺伝子情報をもとに〈私〉は形作られている。しかもそれは、身体的な特徴だけではなく、「神経症傾向」や「外向性」などといった性格の面にまで影響していると考えられています(安藤寿康著『遺伝マインド』[2]など)。遺伝子は純粋に〈私〉を表す〈私〉そのものであると考えられるかもしれません。しかし本当にそうでしょうか。
 遺伝子はアデニン(A)、チミン(T)、シトシン(C)、グアニン(G)という塩基の配列で記述されています。厳密にはATCGという塩基の羅列全体をゲノムと呼び、そのなかの心身の形成に関わっている一部を遺伝子と呼んでいます。細かい話ですが要は遺伝子はATCGという塩基がただ並んでいるだけです。この配列を見ただけで〈私〉という人間がわかるものでしょうか。たぶんその配列を見ただけではわかりません。そこに
 

・遺伝子と記憶と価値観について書く
・遺伝子そのものと発現方法について 環境との交互作用とは何か、やっぱり〈私〉とは関係のなかに存在する?
・記憶とは何か、特にそのあいまいさについて 記憶は〈私〉を形作るものなのか
・価値観について 失くした自覚があるのは価値観 それは何か 中心に近いものだと感じているが、あくまでも感じているだけ しかしあらゆる思考や判断に影響しているように感じる
・遺伝子と記憶と価値観の相互関係について ここらへんが〈私〉の中心なのではないか

〈世界〉についての考察


〈私〉と〈世界〉と自由


不自由の原因と不安や孤独


自由へ向かうとき

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