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末寺の末事 105

 ない気がする。

 全てではない。確かに、目的意識を持ち、勿論だが理解も深め、研鑽を怠らず、コミュニケーションに努めている部分もある。と思うし、思いたい。

 けど、往々にして、ない気がする。寺やその宗教活動の現場といっても、ほとんどが、葬儀や法事、ごく稀に法要や他の儀式的な縁があるかもしれないが、そこに目的意識を明確に持って臨む者の姿はどれほどだろう。

 一般人はそのほとんど、あまつさえ僧侶の形をしたものでも、「正しく」目的を意識できているかと突き付けられたら、かなり怪しくなってくる。

 答えは簡単で、面倒くさいからに他ならない。何が?

 大して意味を感じない、目的を意識することが煩わしい仕事みたいで面倒くさいのだろう。

 僕が注目していることは、ほぼここに尽きるが、今、仏教として認識され信仰されているほとんどの部分が、面倒くさくて、その目的など機能していないことなのだ。

to be continued



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