たいじん

【非僧非俗の空想坊主】 空想家、宗教家、自由業、世捨人、逃げ組、下等遊民、厨煮病、奇人…

たいじん

【非僧非俗の空想坊主】 空想家、宗教家、自由業、世捨人、逃げ組、下等遊民、厨煮病、奇人、変人、元クライマー、自転車愛好家、掃除好き、ミニマリスト、シンプリスト、チーパー、A(C)、負けず嫌いの平和主義、孤独を好む寂しん坊、破戒僧、乞食僧、愛煙家、酒呑み、 …的なヒト科のなにか

マガジン

  • 続々 しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、更に綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • 続 しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、重ねて綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • うまくいかない

    人生が『うまくいかない』ことについて、自分なりの気づきや思うところを纏めてみました。

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いきづらさらぼ

人生の自由研究として『生きづらさ』をテーマに、日々想うところを散文的に綴っていくだけの、雑記のような書き物やなんやかんやにしてみようと思い、 それなりに書き溜まったなら、それとなく整理して分類するつもりなので、結果的に、いつか誰かの『生きづらさ』が、少しでもフッと楽になる為に、適当な読み物やなんやかんやなんかに、なってしまえば本望オーライ…、 と、いうのは詭弁で、要するに、自分用の思考整理と覚え書き的な意味の方が多分にあって、自己満足の萌えカスの掃き溜めやなんやかんやに、

    • 末寺の末事 105

       ない気がする。  全てではない。確かに、目的意識を持ち、勿論だが理解も深め、研鑽を怠らず、コミュニケーションに努めている部分もある。と思うし、思いたい。  けど、往々にして、ない気がする。寺やその宗教活動の現場といっても、ほとんどが、葬儀や法事、ごく稀に法要や他の儀式的な縁があるかもしれないが、そこに目的意識を明確に持って臨む者の姿はどれほどだろう。  一般人はそのほとんど、あまつさえ僧侶の形をしたものでも、「正しく」目的を意識できているかと突き付けられたら、かなり怪

      • 末寺の末事 104

         運動にしても、歌や踊りにしても、書画にしても、飲食にしても、そのもの本来の姿は本能に近いものを感じさせ、芸術的な美の追求や、精神的な崇高さの保持などが、その心(意)として体現(口・身)されるが、そこにコミュニケーション(共有・伝達)を発生させると、目的(利益)が求められ、その事によって、事業性・商業性のようなものを意図させてしまうという仮説。  何かややこしいけど言わんとすることは伝わるだろうか?  例えばこの件も、文字を使って、僕が仮説を弄くり倒している間は、落書き(

        • 末寺の末事 103

           何かを行うということには、目的があります。目的がない行いには、無目的という目的があります。  大抵の場合、この目的とは利益・メリットをイメージさせられるのですが、コミニュケーションという、心(意)の共有・伝達という言動(口・身)=行い(業)を、これに当て嵌めるとすると、そこには論理的合理性など、かなり現実的な意味を求められるような気がします。  要するに、共に有したり、伝え達するというコミニュケーションには、そうしようとしている側に、そうすべき(または、そうしようとして

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        いきづらさらぼ

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        記事

          末寺の末事 102

           コミニュケーションについて、ふとあることが気になったのです。  知覚や感情・思考の共有や伝達については、様々なケースに於いて、多種多様なジャンルがあって、一様に分析するのは困難かもしれませんが、ひとつの視点として、得意不得意、得手不得手、という部分に着眼してみると、自分の性分とか癖のようなものが垣間見えてくるのではないでしょうか。  僕自身、飲食を通じたコミュニケーションなんかは特に強い思い入れを感じる傾向が見られ、これは偏に環境や教育による影響がかなり大きいのではない

          末寺の末事 102

          末寺の末事 101

           コミュニケーションのことを、ずっとコミニュケーションと間違って認識していたくらい、コミュニケーションが苦手な僕ですが、世間でも最近は「コミュ障」という言葉を新設してまで、コミュニケーション下手への理解を深め、認知しようという動きがあるとかないとか。…ないか(笑)。  ですってー。  いや、だからどうって話でもないのですが、お寺という環境もそれを取り巻く組織も、そこにいる人間同士のコミュニケーションで、成り立ってますから、一考して損はないかと…。 to be contin

          末寺の末事 101

          Writers-High

           長距離走と似ている。走ることが好きな人もいて、嫌いな人もいる。しかし、走って肉体に負荷をかけるという行為は、当然ながらキツいし実に疲れる。そのような部分のみを好む者はいるだろうか?先ず、いないと思う。その疲弊に相応しいか、若しくはそれ以上に得るものがあってこそ走れるワケであって、仮に、走者にとってそれが単なる好き嫌いを超越した感覚であったとしても、その行為へと誘い突き動かし足ら締めんとする、動力のようなモノの存在を否定し得ない。こと運動という分野に於いて、直感的にその類いが

          Writers-High

          末寺の末事 100

           浄土真宗という教団は、深く因果の道理をわきまえ、現世祈祷や呪いを行わず、占いなどに頼らないという特徴をもって、「迷信を拠り所としない」姿勢を貫きます。  これは「他力本願」「信心正因」「称名報恩」といった教義の絶対的な根幹が、決して揺らぐことがあってはならないという意味で受け止めています。  なので、それ以外の世界観が「ある」という風に見えても、僕がそれに拠り掛かることはありませんが、そういう世界観のなかに生きる人も「ある」というのが、また僕の拠り所でも「ある」という真実で

          末寺の末事 100

          末寺の末事 99

           不勉強で、つい最近まであまり知らなかった世界ですが、チャネリングといって、自分の身体や感覚を媒介にして、宇宙人や絶対者というスピリチュアルな情報源と交信し、我々のような凡夫より遥かに高い次元のエネルギーを受けとる占いの一種?のような能力が存在し、…と言うか、僕にはない能力なので、想像で適当なことを言うのは良くないのかもしれないけど、そんなのがあったら、素敵だなぁと思います。  でもチャネリングは、実のところ僕もできます。ただ、僕が自分の身体や感覚を通して交信できるのは、残

          末寺の末事 99

          末寺の末事 98

           「当然、○○だ。」「○○ねばならない。」「○○べきだ。」など、主義・主張を持つことは否定しない。「なるほど」とは心にも思ってなくとも尊重はする。但し、それを僕や他者に求め強要するのなら、尊敬はしないでしょう。  「当然の権利だし、当たり前の理屈だ。」「みんな、そうせねばならない。」「私は正しいことを言っている。だから、この私にではなく、この私の主義・主張の前には、皆がひれ伏さなければ気にくわない。」  こんなの、みんな心のうちに各々秘めているのだから、求めても上手くいくワ

          末寺の末事 98

          末寺の末事 97

           二三、ある程度の形になっているイメージもあるにはある。  これからの寺の、これからの僕の、これからの信心の話だ。これまで積み上げられたものは変容してゆく。組織で運営する為の組織であろうとする努力はしない。必要とされないのであれば、根本から解体する。寺は新たにその存在意義を創造しなければならないが、その根幹に仏法に対する信心が(いただけ)ないなら、寺である意味がない。  何だか文字にするとあたりまえなのに、誰も表だって真剣に取り組もうとしていないだけなのかもしれない。いや、

          末寺の末事 97

          末寺の末事 96

           意欲がなければ始まらないし、欲望に溺れたら滅びる。源であって癌でもある。考えようによってはバランスがとれている。  「今あるひとつひとつに、感謝して始末をつけてゆく」、さて、何から動き出すか。  僕の頭の中にストレスによる刺激が生み落としたアイディアは、タスク管理されていない。バラバラでチグハグな箇条書きのようなものが、脳ミソの皺に引っ掛かっているようなもので、附随する記憶も朦朧としている。  ストレスから解放され、戦場の後片付けと、心身を平常に戻すリハビリが優先事項

          末寺の末事 96

          末寺の末事 95

           と、偉そうに行動の重要性に絡めて、自分の飲酒と喫煙を正当化するような言い種だったかもしれないが、要するに、頭でゴチャゴチャと難しく考えたりしなくても、肉体を動かす為には欲があれば十分なワケで、まぁ、欲に絆されて行動すれば、大概ロクな事にはならんのだけども、止まって澱んでいる心を揺さぶるくらいの効果はあると思うのです。  揺さぶられた心が少しばかり澄んでくると、五里霧中だった物語の向こう側もちょっぴり先が見えた(ような気がした)りして、人生って、そんな感じで身口意がバランス

          末寺の末事 95

          末寺の末事 94

           大乗仏教を語るには、提婆達多の存在は欠かせないものなのだろう。  ストレスは嫌なものだ。誰でもできることなら無い方が気楽でいい。でも嫌だけど必要なものでもある。  外部からの刺激を受けて生じた緊張状態こそ、行動するための燃料になる原資であって、力そのもの。  ここまでの禁酒&禁煙(正確には休酒&休煙)でも体感しているが、酒もタバコも所詮ドラッグ、薬品という毒だ。  もともと無い刺激を、故意に注入しているに過ぎない。しかし、そのくだらない緊張が人生に色彩という幻覚を与える

          末寺の末事 94

          末寺の末事 93

           「今あるひとつひとつに、感謝して始末をつけてゆく」という行動理念というか、私的マニフェストについて、煮詰めているうちに、ずっとストレスとなっている仕事も終わっている…はず。  はず、というのは、このnoteへの記述は400文字区切りで書き貯めたモノを、なるべくほぼ毎日アップするようにしているので、原稿の方が現行より少し先行している。(ダジャレかw)  この度の大きなストレスからの解放は、僕に何を寄与してくれただろう?先述のように、まだ事は終わってないし、むしろ始まってい

          末寺の末事 93

          末寺の末事 92

           なのに、その物語をもう一度知識の分野に引き戻して解釈しようとしたりして、信じる心を頭で解ろうなんてナンセンスだし、無駄なんだろうな、たぶん。  やっぱり満足も安穏もフワッとしたままで、心はスパッと解るものじゃなくして、ジワッと感じるものなんでしょう。で、そのジワッとがジワジワッと沁みて、滲んで、心の器の許容量を超過した時、溢れてくるのが感謝なのかな。  長嶋茂雄さんの擬音多用解説みたいになっちゃうのが物語るポイントなんだろうな。人柄やその行為とかが前提で伝わるワケで、そ

          末寺の末事 92