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末寺の末事 104
運動にしても、歌や踊りにしても、書画にしても、飲食にしても、そのもの本来の姿は本能に近いものを感じさせ、芸術的な美の追求や、精神的な崇高さの保持などが、その心(意)として体現(口・身)されるが、そこにコミュニケーション(共有・伝達)を発生させると、目的(利益)が求められ、その事によって、事業性・商業性のようなものを意図させてしまうという仮説。
何かややこしいけど言わんとすることは伝わるだろうか?
例えばこの件も、文字を使って、僕が仮説を弄くり倒している間は、落書き(ART感覚)や趣味の世界で勝手にしていろ、って感じだけど、伝えるという目的を求めると、煩わしい仕事のように面倒なものになっていく。
そこで気になったのは、寺やその宗教活動に関わるコミニュケーションには、どれほどこの目的意識がなされているものか。また、その目的は正しく共有・伝達されているのかである。
to be continued
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