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映画 『PERFECT DAYS』における、「私」と「他者」との「木漏れ日」

いい映画は、しばしば私たちをその独特な世界観に引きこむものであり、抜け出すのが困難であることがある。Wim Wenders監督の『PERFECT DAYS』もそうした作品のひとつであった。

さていきなりだが、みなさんはこの映画のタイトルをどう訳すだろうか?『完璧な日々』『完全な日々』、『申し分ない日々』、直訳すればこんなところだろう。だが、その内実は単なる語句の連なりを超えている。

 多くの評者は、この映画がミニマリスト的な生活の豊かさや禅的な生活観を映し出していると指摘する。この視点は、映画のポスターにも反映されており、「こんなふうに生きていけたらな」という言葉が中心的なメッセージとして提示されている。このフレーズは、一見して自己決定的な生き様の肯定のように見えるが、同時に、その多義性において様々な解釈が可能だろう。
 さて、そうするとこの映画は、 主人公であるトイレ清掃員の平山(役所広司)がミニマリスト的に、日々の小さな喜びを感じながら、自分の好きなように生きるPerfectな日々を描いているように見える。
 しかし、本当にそうだっただろうか?
 本当に平山は自分の思いのままに生きる、Perfectな日々を過ごしていただろうか?平山の生き方は、真に自己決定的で"Perfect"なのだろうか?

 映画の重要なセリフ、「この世界には、本当はたくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある・・・・」からは、平山の生き様が一見完璧に見えても、実際はそうではないことを示唆している。

 平山は「ひとり」であれば、自分の生き方を味わいながら生きている。しかし、そんな平山の生活は時に、揺らぐことがある。それは決まって「他者」と関わる時だ。「つながっているように見えても、つながっていない世界がある」。どんなにお互いを信頼していたり、あるいは好意をもっていたとしても、「私」と「他者」は相容れない領域がある。これは他者との関係、また二者関係における影だ。それを象徴するシーンが、妹と出会う場面であった。平山は妹や家族のことを愛している。また姪と過ごしていた時間も、至福の時間だった。これは他者との関係における光だ。しかし、どこかで平山と彼女らは、世界が違う。この世界の違いはコミュニケーションで乗り越えられるんじゃないか、と思いたいが、容易ではない。

 このように他者との関係には、悦びもあれば、理不尽もある。感情や気持ちはつながっているのに、別の「何か」がつながっていない、あるいは了解できない。いや、そもそもつながっている、と思うこと自体がフィクションなのかもしれない。システム理論で有名な、ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンは、自己創出的な人間のあり方を心的システムとして捉えた。心的システムである人間は、オートポイエーティックに作動しているのであり、どんなに外部からの働きかけがあろうとも、それをどう受けとめ理解するかは、全てその心的システム次第だ。心的システムはブラックボックスなのであり、「この人はこう思ってるだろう」という想定も、実際のところはわからないのである。そんな他者と関わることは、よく考えたらとても自分にとって不安定なものだ。平山はそれをわかっていて、一人で生きることを選んでいるかのようにも見える。

 『PERFECT DAYS』は、一人の時間を味わう生き様と、他者との関係に潜む根本的な了解不可能性を浮かび上がらせる。平山が他者との接触をなるべくしないようにするのは、他者との間ににある了解不可能性の苦しみから逃れたいからなのかもしれない。だが、他者は当然ながら常に「私」を害するような存在ではない。むしろこの上ない悦びをもたらしてくれることもある。姪と過ごした時間、スナックのママに会いにいく時間、この瞬間は平山にとっても幸福な時間だったはずだ。また、スナックのママの元夫とヤケ酒をし、遊ぶ姿からも、平山は必ずしも他者を拒絶してるわけではないことがわかる。ただ他者への深入りはしない。他者の了解不可能性は影を落とすかもしれないが、他者がもたらす光もある。

 さて、この映画のモチーフは「木漏れ日」であった。それは光と影が風とともに交差することによって、木の葉の間からもれてさす日の光だ。平山はこの木漏れ日や、光とそこから反射するものを愛でていた。
 こうしてみると、平山の人生にとって、「ひとり」の時間は光で、他者との関わりは影なのだろう。しかし、他者が常に影というわけではなく、姪と過ごした時間や、スナックのママに会う時のように、他者は光にもなりうる。映画のモチーフである「木漏れ日」は、光と影の交差、すなわち他者との関係がもたらす複雑さを象徴しているようにもみえた。聖人のように自分の生き方を貫きつつも、そこに光と影をもたらす他者から垣間見える、その「木漏れ日」が、PERFECT DAYSをつくりあげているのだろう

 最後に、自分自身に問いかける。平山のような生き方が自分に可能か、と。平山の物事を愛でて味わう姿勢は共感できる部分もあるし、いいなと思う。だがその徹底的に個人化された生き方は、今の自分には難しそうだ。

 一人で物事を愛でることは楽しいし重要だ。(余談だが平山のように一つの事物を愛でる姿は、商品化や現代の消費社会へのアンチテーゼでもあると思う)。だが、物事を他者と共有したり、協同で何かを作りあげたり、味わうことで、一人では到達できない仕方で事物を味わうことができるし、人間関係も味わうことができると思う。自己充足的なアイデンティティの追求には限界がある他者は時に深い絶望をもたらすが、関係性の光を信じたい

それは若さゆえの楽観かもしれないが。

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