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【人道支援スーダン】僕には何ができるのか ~with Planet掲載記事 原文~

割引あり

皆さんこんにちは
人道支援家のTaichiroSatoです。

先日、朝日デジタルのwithPlanetさんで僕の書いた記事(記事化の過程で何人かの方に編集を担当していただきました)がリリースされました。

本投稿は約3000字程度ですが、元原稿は6000字オーバーのボリュームとなっていました。

今回の投稿には、何名かの編集のプロに目を通していただき、読者の方向けに読みやすくしていただきました。

まだまだ伝えたいことは尽きませんでしたが、6000字原稿の方は僕の2023年から関わってきたスーダン紛争の一区切りをまるっと文字化したものといっても過言ではなく、何か皆さんに読んでもらえたら嬉しく思います。

世界を知り、
世界とつながる、
そして、世界を想う。

そんなきっかけになったら嬉しいです。

スーダンでは依然として厳しい状況が続き、
多くの人々が苦難の状態です。
1日でも早い紛争の終息と現状の改善を心から願う共に、
そこで奮闘する同志へ感謝を送りたいです。

このnoteでの原稿はあえて写真を抜いてあります。
僕の文章から、現場の匂いを感じ取ってもらえたら。

                 人道支援家 Taichiro Sato

【人道支援スーダン】 目の前でこぼれ落ちる命に僕は何ができるのか

序章
アフリカ北部チャドに、僕が国境なき医師団(MSF)の看護師として赴任していた2023年4月。チャドの隣国スーダンで、スーダン国軍(SAF)と準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」の大規模な武力衝突が始まった。

僕はチャドのMSF宿舎で、仲間たちと事態を伝えるテレビニュースを見た。「これは、ひどい」。仲間の一人はつぶやく。皆がテレビにくぎ付けになっているのを見ながらも、まだ僕はこの紛争がどこか、テレビの中の、他の世界の出来事のように感じていた。
このときはまだ自分がそこで活動することになるとは、想像していなかった。

戦火は瞬く間にスーダン全土に広がった。2023年6月になると、一般市民が巻き込まれ国境を越えて逃げる人たちが後を絶たないようになった。 ある日の午後11時30分、僕らMSFの元に緊急支援要請の一報が入った。銃で撃たれた人たちが300人以上、スーダンから国境を越えチャドに到着した、と。

深夜だったがすぐ緊急ミーティングが開かれた。チームリーダーのブバカは、僕に尋ねる。

「タイ(僕の名前)、すぐに現地に飛べるか?」

僕は「行くよ」と即答した。その瞬間、身体がドクッと脈打つ。この時初めて、自分がスーダン紛争を現実のものとして感じた、ということを鮮明に覚えている。

僕たちはすぐにヘリコプターでスーダン国境に近いアドレへ飛び、緊急対応を始めた。国境を越えてたどり着く人に24時間体制で医療を提供できるよう、テント病院を設営。1日100人を超える患者さんを受け入れた。9割以上が銃で撃たれた人だった。


スーダンで何が起きたのか

スーダンは面積約188万平方キロ。日本の約5倍の広大な国土を持つ国だ。サハラ砂漠以北のエジプトなどいわゆるアラブ圏と、サハラ以南の非アラブ圏のつなぎ目にあり、アラブ人、ヌビア人、ヌバ人、フール人、ベジャ人など多くの民族が暮らす。アラビア語が公用語だが、各地に多様な言語と文化がある。

民族構成が複雑で国土も広いだけに、以前から政情は安定しているとはいいがたい。長く南北の内戦が続き、民族対立や干ばつ、飢饉などの危機が相次いだ。約1200万人が暮らす西部ダルフール地方では、2003年から武力対立と混乱が深刻化。大勢の市民が死亡したうえ避難民となる事態となった。 2011年には南部が「南スーダン」として分離独立したものの、南スーダンも内部の民族対立など様々な問題を抱えている。


こうした背景の中で、MSFは1979年からスーダンに常駐し、さまざまな援助活動を続けてきた。2023年4月に国軍とRSFの戦闘が始まると、スーダン各地のMSFチームはさまざまな困難に直面しながらも、人道・医療援助を続けてきた。

僕がいたチャドでMSFは、スーダンから逃げ込んできた数万人の外傷を治療し、難民キャンプに診療所と入院の機能を持った病院を作ったり、他団体と医療分野の住み分けを行い地域全体で医療ニーズに応えることが出来るように調整したりした。僕もその活動に加わった一人だ。つまり、紛争の初期から深く関係してきたことになる。


僕がスーダン国内に入ったのは、2024年1月のことだ。チャドと国境を接するスーダン西部で戦闘が落ち着いたこともあり、破壊された現地の医療を再稼働するため、西ダルフール州の州都ジェネイナに向かった。


陸路でチャド国境を越え、最初に通りがかった街には、全く人の気配がない。崩壊した建物と使い古した軍用車が横たわる。この街を抜けるとジェネイナの繁華街があるのだが、もぬけの殻となっていた。UNICEFによると、ジェネイナには元々の住民と長く続いた混乱で逃げ込んできた人を合わせ、50万人を超える人びとがいたのだ。

僕らが支援する病院は、そんな地域にあった。ジュネイナはRSFが占領している区域だ。スーダン全土で戦闘が続いていたが、僕が現地入りした当時、この街では激しい戦闘はなかった。しかし、活気も人の気配もない。頻繁にRSF兵士の車が走っているのを見かけ、それを避けるようにひっそりと暮らす人たちの姿を時折、見ることができた。


こんな状況だけに、MSFとしてはセキュリティを考慮して僕を含む最小人数のチームをこの地に送り、医療の再稼働に着手することになったのだ。

一般的に激しい戦闘中は、戦闘に巻き込まれた人たちのけが(外傷)による医療ニーズが大きい。そして戦闘が落ち着いてくると、経済や社会インフラが大きなダメージを負ったことで、医療機能が大きな影響を受けている状況が見えてくる。


病院再稼働で子どもたちの犠牲を防げ

脆弱な医療システムの中で、外傷患者の次に医療ニーズが大きくなるのは、子どもたちだ。

「限られた機能だとしても、一刻も早く小児病院を再稼働させる」。これが僕たちのチームの任務だった。

プロジェクトが始まった1月は、気温も比較的低く、季節性の感染症もまだ少ない時期だ。暑くなってやがて雨季となり、マラリアなどの感染症などが増える前に、どうやって医療を再び機能させることができるか。今このタイミングで医療が必要な子どもたちを助けるだけでなく、数か月以内に来るであろう食料不足などによる低栄養危機に対応し、マラリアなど感染症の波が来た時に危機的状況とならないよう、病院の機能を取り戻すことは急務だった。

小児病院の再稼働に必要な建物の修復。機材や医薬品の配備。激しい戦闘後の地域での医療人材の確保。ニーズに合わせた適切な病院の設営。これらが、僕らが果たすべきアクションの焦点となった。


僕の両手からこぼれ落ちた、小さな命

医療体制がどのような悲惨な状況だったとしても、いま苦しんでいる患者たちにとって、医療は必要だ。

僕がジュネイナに到着してすぐのこと。赤ちゃんがぐったりとしているのに気付いた。昨日生まれたばかりの子だった。
気づいた時にはすでに呼吸をしていない。
即座に赤ちゃんの為の補助換気と心臓マッサージを始めた。
薬はどこだ、機材はどこだと、僕はこの子を救うために必要なものを必死に探した。

しかし、これらを病院内で見つけることは簡単ではなかった。
なぜなら、建物の多くは破壊され、医薬品や医療機器、お金になりそうな設備のほとんどが盗まれてたからだ。新たな医薬品や機材の搬入も、まだ始まっていなかった。

薬も機材も圧倒的に足りない。そんな中で僕ら医療者は、本当に無力だ。
僕はこういった地域での医療活動を何回も経験する中で、生身の自分たちがいかに無力なのかと事実を、毎回突きつけられる。

シリコン製の袋を手で押して肺に空気を送り込む「アンビューバック」を押し続けながら、呼吸しろ!呼吸しろ!と強く念じ、赤ちゃんに声を掛ける。同時に振り返り、「何かほかに出来ることはないか」と現地の医療スタッフに声をかける。だが、彼らは力なく首を横に振り「何もない……」と答えるだけだった。

全身が土色のようになってしまった赤ちゃんが、一度、すぅーっと大きく呼吸をした。その瞬間、僕の体の中にもぶわっと酸素が入ってくる感覚になる。

しかし、その呼吸を最後に、その赤ちゃんが再び息をすることはなかった。 両手ほどしかない小さな小さな鼓動が止まるという事実はあまりにあっけなく残酷で、僕らの心に拭ってもぬぐい切れないべっとりとした感情を残した。


ぼくは、タオルに包まれた小さな塊をトントンと、さする。
苦しかったね。
辛い思いさせてごめんね。
僕は、なんだか謝りたくなった。

子どもたちの死は、こたえる。



この日、厳しいケースが続いた。父親が、だらんとした少女を抱きかかえて病院に走り込んできた。しかし、少女は病院に到着した時、既に息を引き取っていた。

日本に帰国してこの記事を書いている今も、少女の死も赤ちゃんの死も、僕の脳裏に焼き付いている。


「できることには限界がある。それでも前に進め」

この地で何とか最低限の医療が出来るように、ミーティングや関係各方面との交渉を重ね、自らの体を動かし、人を動かし、僕らは最善を尽くした。

物流が困難な状況で必要な医療器材を搬入し、機能が失われていた薬局を立て直した。壊れた建物を修復し、24時間電気が使えるように巨大な発電機を据え付けた。この地で唯一の、誰でも医療が受けられる病院が、何とか機能し始めた。


病院が機能するということは、患者を救うこと以上の意味を持つ。紛争によって完全に経済が麻痺した地域に少しばかりの雇用を生み出し、ほんの一部だけだが、社会機能が動き出したようにも感じた。

このような状況下で子どもたち向けの病院を運営するうえで、低栄養、つまり飢餓状態の子どもたちの対策も必要不可欠だ。僕らの病院もそんな子どもたちを受け入れる「低栄養センター」を開設。入院治療をスタートさせた。ほとんどのケースで改善がみられ、母子がそろって退院していく姿を見ることで、緊迫した日々の中で少しの安堵を覚えた。


捨て子と帰れない母

ある日、僕は現地スタッフから相談を受けた。 退院しても帰宅できない母親がいる。さらに彼女は、自分が産んだのではない子どもを抱えているという。 僕は状況が理解できず、彼女と直接、話をすることにした。彼女はうつむきながら言った。

「退院しても帰る場所がないんです。家がありません。お金がありません。地元で働く場所もありません。同じ時期に入院していた私の友達の母親が、子どもを置いてどこかに行ってしまいました。病院を出たら、私はこの子どもたちと、どうしたらいいんでしょうか」

治療を終えて退院できるようになっても、帰れない人たちがいる。実際に、いったん体調が改善して退院した後、地元に帰っても食べるものがなく、再び低栄養の状態で戻ってきた子どもたちもいた。


この頃、夜の病院はたくさんの人びとが集まる場所となっていた。
夜のジュネイナは暴力が横行し、強盗もあちこちに出没する。どこにも安心できる場所はなかった。 一方で病院には食べ物があり、電気があり、襲われる心配もない。

僕は複雑な心境だった。今僕らが作っている病院という場所が、この地で生きる人たちにとって一番安全な場所となり、人々が集ってくる。

MSFのスタッフ同士でも話し合ったが、これは、僕たちが取り組んできた「医療の再稼働」という枠を超えた、安全な社会の再構築という、さらに大きな問題なのだ。地域医療を支えるべく活動してきた僕らに、そこで何が出来るのか。

チームで協議し、特例としてこの家族の病院内での滞在を認め、地元に帰るための交通費など少しばかりの金銭的なサポートもすることになった。子どもの面倒を見ることができる施設とコンタクトをとり、この母親のことをつなぎ、支援を依頼した。それが当時の僕らに出来る全てだった。僕らに常に、自分たちができることの限界とも向き合わなければならないのだ。


MSFは患者だけでなく地域医療を担うスタッフも支援する

スーダン経済は紛争で破綻状態となった。政府からの公務員給与支給率は0%という報告もあるほどの惨状だ。公立病院のスタッフは、働き続けても1年近く、給与を受け取っておらず、事態は深刻だった。

MSFが支援する病院では、100名を超えるパートタイムのスタッフもおり、彼らは働く時間に応じてMSFが雇用と給与という形でのサポートしている。さらに昨年、紛争が激化していた時もMSFは命を守るため、生きていく為の配給を行う目的で、患者と家族だけでなく、病院で働くスタッフにも食事などを供給した。もちろん全ての問題をカバーすることはできないが、人としてその地で生きるための最低限を確保するため、僕らは日々最善の努力を尽くしている。

日ごろの皆さんからのMSFへの貴重なご寄付は、薬や医療機器になるだけでなく、雇用や最低限の交通費や生活費などライフセービングとしても活用されていることを知ってもらいたい。


目の前の現状、点でなく線でとらえる

僕は緊急支援プロジェクトに関わることが多い。そこで大切にしている感覚がある。 それは現地の状況を、これまでの経緯を踏まえた「線」で見ることだ。

現地に着くと、まず取り組もうとするのは悲惨な現状の改善だ。しかし、その一瞬の「点」で事象をとらえてしまうと、大事なものを見落としてしまうことがある。スーダンでの活動もそうだった。

僕が現地に入った時点で、医療レベルはかなり悲惨だった。
スタッフの入れ替えも選択肢に入る。しかし彼らと対話し、流れを線でとらえると見方は変わる。

暴力が激しかった時期、この病院では50人を超える職員が亡くなった。生き残った職員のほとんどは隣国に逃れた。僕たちが病院に着いた時、そこで働いていたのは戦火の中でも逃げず、あるいは逃げることができず、給料もないままボランティアとして職員のいなくなった病院で働き始めた、地元の人たちだったのだ。

彼らは荒らされた病院を掃除し、マットレスを拾い集めて部屋に並べた。薬も底を尽きる中、傷を洗ったりしてできる事を続けた。
そんな人たちを「レベルが低い」と切り捨てられるだろうか。

チームの現地リーダーのムハンマドは会議で、よくこんな言葉を口にした。

「彼らはヒーローなんだ。それを分かった上でサポートしよう」


後から来た外国人の僕らが、彼らの一番の理解者になれるよう、そして良きサポーターでいられるよう最善を尽くそうと、メンバー間で認識を共有した。MSFは彼らを雇用という形で支え、トレーニングした 。


ムハンマドはこう続けた。

「退院した人たちが、帰る場所がなくて病院にいる。でも、安心できる病院という場所を作ることができたなら、ひとまず、それでいいじゃないか」


医療体制や物流、経済、そして人々が、少しずつジュネイナに戻ってきた。MSFは小児病院の再稼働という当初の目標を達成し、いまは更なる医療の質の向上と地域医療の問題解決に活動を広げている。
僕は4月、今後の課題を後続のチームに託し、スーダンを後にした。


今も理不尽な暴力にさらされる人たちがいる。
そんな人たちのために現地で医療を提供し続けるスタッフがいる。
彼らの勇気と行動力、人を助けたいという熱い思いに、最大限のリスペクトと感謝を送りたい。

そして、現地の人たちの「声なき声」を伝えることは、現地での医療活動に加えて僕にできる、もう一つのライフワークかもしれない。
そう思い、この一文を綴っている。

Best,
Tai

※投稿内容は全て個人の見解です。
最後まで記事を読んでいただきありがとうございます!
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また次回お会いしましょう。

尚、ぼくの投稿は全文公開にしていますが、有料記事設定しています。
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