見出し画像

【人道支援スーダン序章】文字で伝える人道支援

割引あり

みなさんこんにちは
人道支援家のTaichiroSatoです

スーダンのミッションを終え、帰国を3週間以上が経ちました。
とにかくマイペースに、ゆっくりと日々を過ごしながらそろそろ今回のミッションを振り返ってみようかなと考え始めた今日この頃です。

今回のミッションで僕は国境なき医師団(MSF)として6回目の派遣を終了しました。人道援助に以外も含めて海外で活動するようになってから6年以上の月日があっという間にすぎ、ここ最近では国内外を問わず飛行機に乗ることが日常のようになってきています。(ちなみに今日からちょこっと南アフリカ ケープタウンに飛び、さらっと帰ってくる予定。と、いった具合に。)

見慣れた世界中の空港を何度も経由しながらも、毎回見える景色が違うと感じます。それは経由地のアディスアババであってもドバイであっても、帰国の羽田/成田であっても、同じ景色でありながら明らかに「違う」という説明できない変化を感じるんです。
きっと僕の中に怒涛のように流れた各地での時間がそうさせるのかもしれません。具体的にそれをどうしたいという事はないのですが、今回からの数回の投稿はスーダン派遣を通して今の僕の中に流れる散らばった想いを整理整頓しながら思考展開をいつも通り文字におこしていこうと思います。

久々の投稿です。散らばった文章で長々書くかもしれませんが、お付き合いください。


人道援助コングレス
2024年4月。都内某所で国境なき医師団と国際赤十字を中心とした人道支援に関するディスカッションの場「人道支援コングレス」が開催された。
各国際関連の専門家たちや学生たちも参加・発言し、幅広い視野でのディスカッションがとても印象体的だった。
僕は帰国直後だったが、どんな人たちが、どんな話をしているのか、そこに興味があって参加してみた。
参加する前は内心、机上の空論みないな内容になるのではないかと半信半疑であったが、実際に参加し内容を見てみるととても興味深い内容でとても実践的であった。
なかでも、政界からそして外務省から参加していたパネリストの方々の提言に僕は共感したのと同時に考えさせられた。

「当事者間での紛争解決は、ほぼあり得ない。各国の難民問題解決には政治的介入が必須だ」

人道援助コングレス ディスカッション内容より抜粋

国際の舞台で活動する人たちにとって、特に人災の緊急支援に携わる人たちにとって体感としてあるのは「僕たちに世界は変えられない」という感覚ではないだろうか。
世界中どこであっても現地医療の質の向上は、命を救う可能性を高める。しかし、どんなに現地医療を充実させて現地医療者が奮闘しても紛争は止まらない。
傷つく人たちを生み出す元凶が、僕らの医療活動によって直接的になくなることはないのだ。

紛争の構図はどんな規模であっても複雑である。問題のうちのどれか一つを解決しても、はいそうですね、とキレイに収まることはなく、人道援助コングレスでも共有されたように当事者間での解決はほぼゼロに等しい。争いには必ず、後ろ盾の団体や国々があり、更にそれらを根本から牛耳っている大国の影がある。前者を二次的、後者を三次的とここではするが、三次的な国の政治的な介入(支援や制裁など)がないと解決への道筋をたどることは非常に困難なのだ。

では、現地で活動する医療者の僕に出来ることは、なにか。
視点を僕のマクロ世界にフォーカスする。
僕は緊急医療支援のプロなので、苦難にある人たちへの最低限必要な医療アクセスを迅速に作り、そこから質を上げていく。それは、プロとして当然のこと。そこに満足するつもりもないし、妥協するつもりもない。ただひたすらに、もっと命を救えるように、自分自身に出来ることを増やし、チームの力を底上げしていくことに今後も全力であり続ければいい。

ある一定の関心がある人たち
人道援助コングレスで外務省の方がこんなことを言っていた。
人道に関する記事を上げると日本でのリアクションのほとんどが「自国の問題は自国で解決するべき」「日本だって大変なのになぜ他国の支援を続けるのか」などといったネガティブなものだという。
僕の立場はというと、少なくともそのような国際関連記事に目を通しコメントをくれているだけで、どのような意見であれ ある一定の関心 があるということ、と思っている。本当に無関心であれば記事を見ることも世界のニュースに触れることも、それについて考えることもない。
他国で起こっていることが、自分の国では起こりっこない、自分たちとは違う世界のことだ、そう思えること(歴史的なことや地理的なバイアスがたくさんあるが)それ自体は、悪い事だとは思わない。セキュリティー不安を自分事にとらえられないほど、世の中は安定していて、誰が首相になっても回る日本。心配事の少ない、そんな国に生まれ育つことがどんなにすばらしい事かと僕自身はただただ実感する毎日である。
ここについては今回は深堀せず、後日触れることとする。

国際へのある一定の関心がある人たちの言う「自国の問題は自国で解決しろ」といったコメントは、ごもっともなのかもしれない。
僕がやっているこういった国境を超えた活動は、彼らから見れば ただのキレイごと で、余計なお節介 なのかもしれない。

それぞれの置かれた場所で、それぞれが抱える大変さ。
とてもよくわかる。
生きていくのは簡単なことではない。先進国であっても途上国であっても、皆それぞれの場所で大変なのだ。

ただ、僕なりに世界中を飛び回りながら感じることは、「自国で何とかして」といっても、まず自国ではどうにもならない。
だから、皆が世界が頭を悩ませている。

結論から言うと、
それが解決される為の何かが起こるために 関心 がいるのだ。
その国に話し合って解決するようなシステムがあるのであれば、国会で話し合えばいい。そんなキレイな世界は日本の外にはあまり存在していないらしい。
アフリカのとある国で選挙になると、選挙が行われる一か月間は国中が超警戒態勢。外出禁止、街に出ることすらできなくなる。
国のTOPが変わり政策が変われば、国民の生活が一変する。生きることが出来なくなる人も出てくる場合だってあるくらいだ。
アフリカの友人は、「選挙は殺し合い」とまで言っていた。肌感としてわかる気がする。選挙が終わっても、クーデターや暴力が起こり選挙そのものが認められないといったことだってあるし、そもそも選挙なんか行われない国がたくさんあるのだ。

そんな国に生まれて生きる人たちに、面と向かって自分たちのことは自分でやってよと、とてもじゃないが僕には言えない(あくまで個人の感覚の問題だ)。おそらく、僕には世界中に友達がいて、彼らのことをよく知っていて、彼らがどんな思いで、どんな苦労をしているか がわかるからなのかもしれない。
いろんな国に行けば行くほど、僕にとってどこかの国の それ は他人ごとではなくなっていく感覚が年々強くなっている。

他人という感覚
あなたにとって、どこまでが 私たち でどこからが 他人 だろうか?
国が違えば、別の世界なのだろうか。そこに知り合いが一人もいなければ無関心でいられるのだろうか。
ここに関して僕は以前こんな記事を書いているので興味がある方は見てみてほしい。

1.日本は世界で唯一の国 ~「僕たち」と「それ以外」~ を参照

団体や組織として何かをするのであれば、対応する人数が大きくなればなるほど、グループにしなければ対応できない。どこまでを対応して、どこまでをしないのか。マジョリティに対する活動での意思決定は必ず対応しない少数を発生させる線引きがつきものである。

では、個人ではどうだろうか。
人は何かと区別することを好むようだ。
○○か、否か。「私たち」か「他人」か。
これはこう、この人たちはこうゆう人たちだからと、括りをつくる方が個別に対応する必要性が減り、圧倒的に楽だ。

僕はというと、いろんな国で活動する上で、何かを区別し、括ることをやめた。相交えない、宗教や社会構造、教育の違いというものもあるのはわかっている。
だから何だというのか。
一人の人間として、現代に生きるのであれば、区別する必要なんかないのではないだろうか。
宗教が違うから、肌の色が違うから、話す言葉が違うから、僕らは争うのだろうか。
その人たちは「私たち」ではなく「それ以外」なのだろうか。
他国の問題だから、自国の問題だから。
何かをくくることで楽になり、知った気になる。

無関心は不都合な世界のすべての現実に目をつぶる。
僕は、無関心ではいられないのだ。


人道支援家と、ある一定の関心がある人達との距離
先日、国際支援に関わるメンバーとの集まりがあり、とても有意義な時間を過ごした。
その中で話題は世間と人道支援家たちとの距離になり、経験豊富なメンバーたちは皆は口々にこう言った。
日本の人はわかっていない、、現地はそんなもんじゃない、、行けばわかる、、これは伝わらないことだから、、何度言っても無駄なんだ、、と。

そうなる気持ちはよくわかる。僕だってそう思ったことが何度だってある。
国に帰ってくる度、今回はどこに行ってきたの?皆から聞かれ、僕がここに行ってきたよと回答した後のリアクションは「……ん?どこ?へぇー大変だねぇ。」だ。

誰もがそんな簡単に知らない世界のことを自分事として捉えれる人はいない。僕の友人にはとても感性豊かな人たちがいて、彼らは毎回感心をもって僕の話を聞いてくれる。そのことに改めて感謝を伝えたい。

一方で、言っても結局わからないんだ、という僕のどこかにある諦め。

ただ今一度、自分に問い質してみる。
現場を知り、熱量をもって伝えるチャンスが僕にはある。
その僕は本気で伝える努力をしているだろうか、と。

僕に出来ること、現地医療ともう一つ
人道支援コングレスで「各国の難民問題解決には政治的介入が必須だ」という歴史と経験に基づいた力強い言葉が、僕に前を見ろと背中を押してくれる。

紛争解決への道の可能性を作るには、政治が動く必要がある。
政治が動くには、世論が動く必要がある。
世論が動くには、大衆が問題意識を持つ必要がある。
問題を認識するには、誰かが声を上げる必要がある。

誰かが闇雲にただ声を上げても、世論は変わらないだろう。
自分のこととして感じれるくらい、熱量を持ち問題だと叫び続けなければ、人は動かない。
それは、当事者でしかできないことなんだと思う。

では、実際に紛争などで被害にあっている当事者の人たちは声を上げれるだろうか。
答えは 明らかにNO だ。
明日がどうなるかもわからない今日を生きることに必死な人たちが、
そこから立ち上がり声を上げ、国へそして国際社会へ一石を投じることなんてできない。
本当に大変な境遇にある人たちは、今日を生き延びることに必死だ。
声を上げることすらできない、というのが僕が今まで経験してきた状況での常だった。

「Advocacy」すなわち代弁者というのはそのために活動する人たちのことある。声にならない叫びに耳を傾け、「こんな世界でいいのか!」と代弁する。

前もって断っておくが僕は決して、世間を混乱させたいわけでも、自己の主張を押し通したいわけでもない。野次馬のように闇雲に叫びたいわけではないのだ。

ただ、同じ時代に生きる人として、「当たり前に生きる」ことを誰もが選択することが出来て、明日を想像することが出来る、
あなたの今いる場所がそんな場所であったらいいと思っているだけだ。

もしも、今を生きることすら困難で、自分の足で立ち上がれない人たちがいたら、僕はそこに手を差し伸べることが出来る人でありたい。
もしも、あなたにとってその場所が「当たり前に生きる」を選択できない、明日も想像できない、そんな世界だとしたら。
それを実現するために当事者たちが声を上げることすら許されない状況だとしたら、僕が代わりに声をあげることくらいはできるんじゃないかと思うのだ。

僕や誰かが声を上げたからといって、世論が動き、政治が動くかどうかなんてわからない。可能性はむしろほんの数パーセントの話だろう。
でも、何もしなければ現状は何一つ変わらない。
生きるという選択をすることも、明日を想像することもできない人たちは、生き延びるためだけに日々の時間を使っていく。

数パーセントの可能性で世界が良い方向へと移り行くチャンスがあるのならば、僕はそこに僕の人生の時間を使いたい。
100回しゃべって何かが動くのであれば、僕は自らの声を嗄らしたい。
100回でも1000回でも僕の声が出る限り。

僕らの現地活動は同じことをちょっとづつ工夫しながら、あれやこれやとひたすらに繰り返すということをしている。
とても地味で、短調で、一見なにも変わっていないように見える。
でも100回のうちの変化の1回が、明日かもしれない。それで誰かの命が救われることにつながるのであれば、僕にとってそれを続けることに疑念はこれっぽっちもない。

大衆にとっての「どこか他人事」の世界。

政治が動く、その前に世論があって、世論が知る為のリアルを知ることが当事者でしか語れない事で、その当事者たちが方語ることすら許されないのであれば、僕らのような現地医療者やジャーナリズムはその代弁者であれる。
僕に出来ること。現地医療ともう一つ。

それは、Advocacy。
声にならない叫びを代弁すること。

写真にもならない世界からのメッセージ
僕のミッション地であるスーダン。
今回僕はほとんど写真を撮らなかった。
政治的な動きが目まぐるしく厳しい情勢が続くスーダン国内。
外から来たよそ者である僕らは常に活動を見張られていた。何気ない日常もどこに関係者がいるかもわからず自然と政治的な話を口にする人は一人もいなかった。いや、話せる状況ではなかったというのが正しいのかもしれない。

今までにもたくさん経験したことだが、世界にはカメラに収められることのないエリアがある。スーダン国内の一部の地域のTikTokには日本のようなきれいな美女が躍る動画ではなく、その地域の惨事が投稿されている。それらは、すぐに削除され、世界に配信されることはない。
写真にも動画にもならない世界があるのだ。

実際にスーダン紛争はいま「忘れ去られた紛争」と揶揄されている。
当事者が声をあげることも、写真にも動画になることもない、
誰も知ることのない世界の惨事。

だから僕は文字にして伝えることを選んでいるのかもしれない。
彼らの代わりに世界から関心が寄せられ、一日でも早く、一人でも多くの人が生きることを選択できる日が来るように。

残念ながらAdvocacyのアウトカムは今とは限らない。
明日かもしれないし、10年後かもしれない。
たとえそれが、10年、30年と長く時間のかかることであったとしても、僕はそれが価値のあることだと信じて活動を続ける。
その時まで、理不尽に命が消えていかないように、医療者として出来ることをする。
そこに全力でありつつも、もう一つ、伝える努力をしていきたのだ。

どんなカタチであれ、いずれ世界が動く。
それはAdvocacyによるものかもしれないし、そうでないかもしれない。
僕に世界を動かす力はない。
でも、世界が動くための小さな小さなパズルのピースになることはできる。

文字にして伝える人道支援。
それは現地医療と、僕に出来るもう一つのライフワークなのかもしれない。


~おわりに~
文字のプロたちと伝えるを作る
今回の長い投稿を最後までお読みいただきありがとうございました。
ここ最近の僕はというとありがたいことに記事を書くことが増えてきました。
あくまで僕は文字を書くことはドが付くほどの素人のため、僕と読者との間に編集担当の文字のプロが入り、チームで「伝える」を作っています。
(このnoteは完全に僕の自由投稿です。見ればわかるかw)

僕はあくまで、現地の事象を言語化する第一段階の人間。
だから第一原稿を書き上げた後の構成は、基本的に文章のプロに任せています。訂正編集第4~第5原稿くらいで完成するイメージで、構成が何度も練られ、最も読者が世界をイメージしやすい展開を文字のプロが導いてくれるんです。
その過程で彼らは、僕が本当に伝えたい内容が残せているか、それが引き出せているかを確認しながら進めてくれています。プロの方達と活動をさせていもらえること、そして彼らが僕をフォローしてくれること、本当に感謝しかありません。

僕は、現地の医療者としていろんな現場を経験する上で、写真も取れないような惨状や政治的なプレシャー、医療現場事情を、規範にのっとった可能な範囲で、安全に、限りなく誰もにとってwin-winでいられるような形で、言語化して「伝える」ことが出来たらいいなと思っています。

まだまだ無駄の多い荒い文章ばかりですが、近い将来は編集に携わってくれるプロの方たちの手間が少しでも減るように文章化を少しでもスキルアップしていけたいいんだけどなぁと思いながら、これからも投稿を続けていこうと思います。回数を重ねそれがいつか質に辿り着くその時まで、文字にすることをコツコツと。

次回からは、スーダンでの僕の思考展開を綴っていきます。乞うご期待!とまでは言えませんが、楽しみにしていただけたら嬉しく思います。


チームで「伝える」を作る。
それが、誰かに伝わり、いつか世界が動く。
僕はそんなパズルのピースとしてこれからも在り続けようと思います。

想いを文字にして、それをチームで伝える。
そこから始まる人道支援。
はじめのいーーっぽ。


※投稿内容は全て個人の見解です。
最後まで記事を読んでいただきありがとうございます!
よろしければフォローも是非お願いします!!
また次回お会いしましょう。
Best,
Tai

尚、ぼくの投稿は全文公開にしていますが、有料記事設定しています。
応援し応援される関係になれたらこんなに嬉しいことはありません。
今後ともよろしくお願いします。

ここから先は

0字

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が参加している募集

#新生活をたのしく

47,912件

#一度は行きたいあの場所

51,981件

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

いつも記事を読んでいただきありがとうございます!!記事にできる内容に限りはありますが、見えない世界を少しでも身近に感じてもらえるように、自分を通して見える世界をこれからも発信していきます☺これからも応援よろしくお願いします🙌