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【閑話】直観の系譜

 私は、実生活から出発し足を地に着けてものごとを考えるという態度を、シェイクスピア、福田恆存、ゲーテ、そして小林秀雄等から学んだ。

彼らの書いたものを読む以前の私は、何か曖昧な観念によってものを考えがちな、いやむしろそれらの観念に振り回されているような人間だった。大学時代、文学部に所属し、古今東西の古典文学に惹きつけられるものを感じていた私であったが、その理由は、心の中でおぼろげに求めていたものの所在を古典の中にならば突き止められるのではないかという、素朴な願いからだった。

その一方で、それが文学を通して突き止めることのできるものなのか、むしろ文学以外の方法でないと突き止められないのではないかという一抹の不安が常に付きまとっていた。そんなとき、時折聞こえてくる「文学など役に立たない」という社会からの俗言は、私の不安を高めることはあっても鎮めることはなかった。

そんな苦しい葛藤の中で、私は、シェイクスピア(一五六四―一六一六)に出会った。現代流のリアリズムという観念を通してしか文学の読み方を知らなかった私の目に、シェイクスピアの作品がいかに豊穣に生き生きと映じたことか。よほどこちらのほうが現実的に思えた。

一見して荒唐無稽に感じるのは、目に見える現実でなく、心で見る現実を描いているからにすぎない。シェイクスピアの作品に登場する人間は全員が個性を持って生きている。読み終えた後にも、そこには人物が残る、踊る、主役から脇役に至るまですべての人物がである。このような経験は初めてだった、新鮮だった、衝撃だった。

その後、私はシェイクスピアの翻訳者である福田恆存(一九一二―一九九四)という人物に興味をもった。ごく自然な流れである。そして彼の批評『一匹と九十九匹と—ひとつの反時代的考察』に出会った。これもまた、脳天からハンマーを撃ち抜かれた気分だった。一つの重要な世界の見方を、すなわち文学と政治の峻別という大きな思考の枠組みを教わった。社会における文学の存在意義を初めて、おぼろげながら感得できた気がした。

また、福田恆存の名前を知る前に、D.H.ロレンスに何か惹かれるものを感じ、『チャタレイ夫人の恋人』や『恋する女たち』を理解しきれぬままではあるが読み終えていた私にとって、福田恆存がロレンスから多大な影響を受けたことを知ったときに、何か宿命的なものを感じたことは言うまでもない。またその後、「宿命」というものが福田恆存の思想の柱であり、彼の主著『人間・この劇的なるもの』の主題であることを知った時に、この人は私の人生の重要な教師になると直感した。

「なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはゐない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する—ほしいのは、さういふ実感だ」

福田恆存『人間・この劇的なるもの』


福田は、我々が本当に求めているのは自由ではなく、宿命だと言った。また、我々は自然と歴史と言葉を学ぶのではなく、自然と歴史と言葉から学ばなければならないと説いた。これらは個々の人間よりも遥かに大きな存在であり、そこから学ぶ謙虚な心を忘れてはならない、それを忘れてしまったことに、現代の最大の不幸があると言った。

自然への畏敬、それはまさしく、ゲーテ(一七四九―一八三二)の思想の最も深い核心でもあった。近代科学が自然の支配を推し進め始めたとき、その危険と不幸とに真っ先に勘付き、独自の自然観の中で自然と付き合い続けたのが、ゲーテであった。

「考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである」というゲーテの言葉の美しさは、それが彼の生き方を端的に表しているからに違いない。崇めることを忘れた人間は、知性で何でも理解できるという迷妄に囚われる。知性で解決できる問題ならば知性で解決すればよい、ただ、知性で解決できない問題などないと思うなら、それは人間の傲慢ではないか。

小林秀雄(一九〇二―一九八三)は、私の祖父の最も敬愛する作家であった。そのことは祖父の生前から知っていた。ただ私が小林秀雄の書いたものを初めてしっかりと読んだのは、祖父が亡くなったことがきっかけだった。

小林秀雄は福田恆存の先輩だった。そして、福田は小林自らが唯一の正統な後継者と認めた人物だった。ここでも何か偶然のつながりめいたものを感じながら、私は小林秀雄の『美を求める心』という短い講演を読んだ。目が見開かれるようであった。

その後、『様々なる意匠』に始まり、『私小説論』、『政治と文学』、『作家の顔』、『無常という事』、『モオツァルト』と読み進めていく中で、小林が福田から「見えすぎる目」を持つと言われた理由が分かったと同時に、なぜ福田が小林の後継者なのかも理解した気がした。

一言でいうと、小林も福田も、観念に踊らされることがほとんどないのだ。彼らは、常に現実を自分の心眼を用いて見ることから始める。そして常識を大切にし、生理的違和感に敏感である。論理的に正しくても、直観が拒否すれば、それは彼らにとって正しくない、仮に正しいとしても、重要ではないのである。

それは非論理的なことだろうか?論理の限界を踏まえた優れた論理感覚とも言えないだろうか?

ともかく彼らの核心は、直観にある。

そしてそれは、ゲーテにも言えることであり、ゲーテが尊敬したシェイクスピアにも言えることだ。ここに、観念の系譜に反抗する直観の系譜というものが浮かび上がってくる。この系譜に属する人間は、言葉の曖昧な観念に踊らされることが少ないために、彼らの言葉はより真実性を帯びている。

そしてこの系譜に属する人間は何も詩人や作家だけではないだろう。ありとあらゆる分野、時代の中に、この系譜に連なる人間を一人でも多く見つけ出すことが、重要だ。その系譜を見つけたから何だというだろう。それが私の直観ならば、私はそれを大切にしたいと思うのだ。

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