『素材について』ひたすら素材に忠実たらんとすること
この論文において福田は、文学における素材の価値について問う。
まず一方に、通俗文学というものがある。これらの作品には、素材を寄るべき大樹として利用することで、自らの価値を実際以上に高くみせかけようとするものがある。このような作品に対しては、あえて素材の価値を過小評価する必要もあると福田は述べる。
次に、他方、(こちらがこの論文の中心となるが)純文学というものがある。これらは反対に、素材を軽侮する。かれらは文学の本質は素材にはないと主張する。しかしながら、福田はかれらのように「素材をどうしても文学の第二義的な要素としか考へられぬひとびと」へも共感しえないと言う。
そこで、このような純文学に表れる「素材を軽視する態度」の発生したる所以を求めて、福田は明治時代にさかのぼる。そこで、坪内逍遥の『小説神髄』に始まり、二葉亭四迷につづく初期近代文学の発想のうちにその原因が求められる。
純文学の名の下に、作家は、自己遮閉を行い、自らの心理なるものに隠れ込んだ。そして「行為の世界をも芸術をもつて塗りつぶ」した結果、かれらはなにを得たか。それは、性格の画一化、機械化、平均化である。
作家の心理なるものを、まるで機械の部品を組み立てるようにこねくり回してみても、出来上がるものは、おなじような、画一化された作品である。大量生産の工業製品である。
だが、同じ時代に、このような芸術至上主義の放縦と荒廃からは距離を置いていた一人の作家がいた。福田によればその人物は、「素材のもつなみなみならぬ重要性を自覚」し、「素材以外に文学はないと考」えていたと言う。かれの名は森鷗外である。福田は鷗外の『渋江抽斎』を引用したあとに述べる。
福田は言う。「ひたすら素材に忠実たらんとするものをのみ、素材は導いてゆく」、そして「素材の必然に随つて一歩一歩著実に歩む以外に偶然の溝を超す方法はない」と。
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