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自殺についての一考察

切っても切っても再生することで知られているプラナリア
しかし、調子に乗っていつまでも切り続けると再生を拒否して死んでしまいます。
さて、プラナリアよりは複雑な構造を持つ人類は脳を使って様々な思考をすることが出来ます。
しかし、いくら考えても「死に取りつかれる」ように見える自殺者の行動は不可解に思えることが多いと思います。
下薗壮太先生は原始人のプログラムの誤作動という説を挙げていらっしゃいますが、確かに縄文時代から試行錯誤して稲作を行うために集団生活を選択した日本人に刷り込まれたプログラムは現在の高度複雑化した産業構造に対応しきれていないというのは容易に理解できます。
集団生活の中での価値観と言うのは「誰かの役に立っている」というものが大きなウエイトを占めます。
だから、何かを喪失したり評価が低かったりすると「自分は役に立っていない」という価値観が無意識に頭をもたげるのです。
誰かの目を気にするというのも自分の価値を周囲の人間が自分をどう思うか、つまりは「自分に価値があると思われているか」というところが気になって仕方がないのです。
冷静に見れば、何かを失ったところで、残されたもので自分が出来る範囲内で誰かの役に立てればよいわけなのですが、産業革命以降農村部から工員に仕立てる為に導入された義務教育が競争を煽ったために「完全な状態で他人より良い点数を取る」ことが至上とされた弊害で、なかなか「生きているだけで誰かの役に立てる」という生きる意味を見出せないのが現状です。
「自分は自分、他人は他人」という割り切りが日本人にはなかなか難しいということもあります。


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