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『先輩』(短編小説)


   交差点の信号が青になった。帰路を急ぐ人の群れが一斉に動き出す。ワンテンポ遅れて僕たちも横断歩道へと歩き出した。

「先輩、軽くお茶でもしていきません? 」
「いいけど、また何かの相談? 」
「ま、まあ・・・はい。・・・ほら、あそこに見える赤煉瓦の喫茶店とかどうですか」
「うんいいね、あそこにしよう」

   カランカランとドアベルの音を鳴らして店内に足を踏み入れる。そこには昭和のまま時間が止まったような世界が広がっていた。琥珀色のランプ。艶のあるメローなジャズピアノの音色。薄暗い店の奥のカウンター席では、三毛猫がアンニュイな表情でこちらを見ている。

   僕たちは窓際の席に案内された。お尻が深く沈む真っ赤なソファに腰をかける。コーヒーを2つ頼んだ。

「この店すごいね。雰囲気が」
「ですね。美輪明宏が通ってそうな・・・」
「で、相談って? 」
「・・・はい。実は、ある友人から言われたことが気になってて・・・」

   先日、友人と食事に行った時のことだ。新宿の路地裏にある小さなインド料理店。会話の中で彼から言われた言葉が頭から離れないのだ。その言葉を聞いた時の居心地の悪さは、カレーの辛さがどこかに吹き飛んでしまうほどだった。




「お金なんてね、最低限あれば幸せになれると思うよ、俺は」



「・・・って言われたんですよ」
「それで? 」
「何かを悟った詩人みたいな口ぶりでした。それを聞いてなんだかすごく嫌な気分になったというか」
「そうなんだ」
「ヤツは上場企業のビジネスマンで収入も僕なんかとはケタ違いです。僕が安月給なのを知ってて、そういうこと言うんですよ」
「確かに、収入格差のある人から言われたらねえ。そういうのは悪気がなかったりするから余計にタチが悪いよね」

   ひとまわりほど年上の先輩は、いつもこちらの意見をしっかり聞いてくれる。端っから否定することなんて絶対にない。適当に聞き流さないし、何よりも相手のことを全力でわかろうとする。先輩はそういう人だ。だから、会社の若手のみんなから慕われているし、僕もこういうプライベートな相談をしたくなる。

「たくさん持っている人が全然持っていない人に向かって逆のことを言う場面ってあるじゃないですか」
「例えばどんな? 」
「恋人とっかえひっかえの超モテの人が、『本当に愛する人なんて一人でいいんだ』なんて酔いしれながら、モテない人に向かって言うじゃないですか」
「ああ、いるよね」
「SNSとかでフォロワー数万人いる人が、『フォロワーなんて大した意味はない。ただの数字だよ』とか得意げに語るじゃないですか」
「いるいる」

   先輩は深くうなずいていた。

「僕ね、ああいうのが嫌いで。だからヤツがそれ言った時は『ああ、お前もか』ってなりました」
「なるほどね」
「ヤツの発言に対してこういうふうに思ってしまうのは、僕の単なる妬みなのかなあなんて思っちゃって。先輩の客観的な意見を聞いてみたいです」
「・・・うーん、そうだなあ」

   僕のストレートな問いに対して、先輩は腕を組み、眉間に皺を寄せて難しそうな顔をした。

「人の思考っていうのは0か100の2パターンだけではないじゃない? 20とか50とか80もあるよね。そうやって口に出すということは妬みという感情も少し混ざっているってことじゃないかな」
「ああ確かに」
「でも、森くんにとっては、妬みっていうのはほんの一部の感情で、大部分が友人の言葉への違和感だよね」
「はい、まさにそうです。なんでそんなこと言うんだろう、それをおかしいと思う自分が気にしすぎなのかなって・・・」
「わかるよ。俺なら友達に向かってそういうことは絶対に言わない」

   その時、コーヒーが運ばれてきた。漂う芳醇な香りと立ち上がる湯気が二人を包んだ。


「・・・あっ、でも、もし先輩から同じことを言われたとしたら嫌じゃないかもです」
「ありがとう。そうなんだよね。言葉はさ、誰が発するかっていう部分で意味や印象がかなり変わるよね」
「ってことは・・・」
「俺はそういう立場になったことはないんだけどね・・・、お金持ちになってから気づくことって確実にあるだろうし、モテモテになってから気づくことだってあるはずなんだよね」
「はい」
「でも、そういうのは、限られたごく一部に人にしか味わえない感覚だから、ほとんどの人の参考にはならないんだよね」
「そうなんです。だから、僕みたいな人間は、“お前は安月給のサラリーマンでいいじゃん。それでも幸せになれるよ”って言われたのかと・・・」
「そう思っちゃうよね。当たり前だけど、肝心なのは目の前にいる相手を大切にしながら話すことだよね」
「はい」
「知ってた? 人間ってさ、忙しくなると、意地悪になるんだって。ちょっとタイトルは覚えてないんだけど、アメリカの有名大学の教授が書いた本で読んだ記憶がある」
「そうなんですか」
「人間は、権力を手にするほど、他者への共感力や感受性を失っていくんだよ。つまり、イヤな奴になっていくんだ」
「へえ」

   僕は、先輩に話を聞いてもらうだけで、自分の心が穏やかになっていることに気づいた。

「最近ではさあ、再現性という言葉でよく語られているみたいだけどさ、成功者の言葉って参考にしても真に受けちゃダメだと思う。見習って同じことしても、だいたいダメだよね。まあ、これは個人的に思うことだけど」
「ああ・・・」
「あと、その言葉が本当に相手を思ってのものなのか、自分の立場を優位にするためのものなのかわからないからね」
「なるほど。その人を信用できるかできないか、どうやって判断したらいいんですかねえ」
「その人が誰のために話しているのか見極めるのは難しいよね」
「そうですね」
「森くんも言った通り、自分の言葉に酔いやすい人の話とかは鵜呑みにしない方がいいかも」

   意外だった。先輩の口から、そんなに具体的な答えが出てくるなんて。

「自分の言葉に酔いやすい人、ですか」
「自分語りが気持ちよくなっている時点でね、誰かのためではなく、自分のために話しているんだよね。こんなこと言ってる自分はすごいヤツなんだぞってね」
「わかる気がします。僕の友人もそんな感じだった気がします」
「・・・まあ、適当に流して、気にしないことだね」
「ああ〜、先輩と話して、心が軽くなりました」
「お役に立ててよかったよ」





   先輩と赤煉瓦の喫茶店で話したあの日からもう五年が経つ。僕は当時勤めていた会社を辞め、今は新しい職場で元気にやっている。あの友人ともあれっきり会っていない。

   ある日、元同僚から先輩の近況を聞いた。驚きのあまりスマホを地面に落としてしまった。僕を追うように会社を辞めたというのは知っていたけれど、その後、独立してインターネット事業で大成功したという。SNSではちょっとした有名インフルエンサーになっていて、昨年、自身の著書も出版されたそうだ。

   気になったので大手通販サイトで先輩の名前を検索してみた。出てきた書籍のタイトルは「成功に必要なのはお金でもフォロワーでもない」だった。

   赤煉瓦での記憶が、限りなく脆く、どこまでも頼りなく感じた。


(了)


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