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エッセイ

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人生の話、フリーランスの話、広告コピーの話まで。TAGOの日々のできごとや考えを綴った文章。
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#文章

ああ、そうか。書けなくなるのは、きっと代わり映えのない日常で生きてるからなんだ。

書ける。自分は書けるはずなんだ。 そんな呪文をぶつぶつ唱えても、いざキーボードに指を乗せてみたらぜんぜん進まない。なぜだろう。「なぜ」なんて疑問形でしらばっくれてみたけれど、その原因は薄々わかっていたりする。 人を惹きつける文章を書く人は、人を惹きつける生き方をしている人でもあることが多いように思う。つまり、彼ら彼女らは普段から高い意識を持って日々を気張って活動的に生きているからこそ、日常をそのまま文章にしても素敵に仕上がるんだよね。 比べるのは良くないんだけども、そう

偶然のひとときを、最高のひとときにする。

「反応がない」 文章をはじめ漫画やアートや音声や動画など自分の作品を発表している多くの方が一度は感じたことがあるのではないでしょうか。ぼくもそうです。今日はこの件について、コピーライターの視点で書いてみようと思います。 (この記事は、誰かに読んでもらうためではなくて、ただ自分が書きたいから書いている方には関係のない内容です) ぼくが仕事で携わっている広告なんて無視されて当たり前の世界で、“情報のゴミ”のような扱いを受けることだってしばしばあります。例えば、YouTube

エッセイは3割増しで書かれている、という説。

誰かのエッセイを読んだ後、 気分が上がるどころか、 逆に沈んだことはないだろうか。 ああこの人は自分が持っていないものを沢山持っているなあ、こんなすごいの自分には到底書けない、ネタにできるような人生経験がない、面白くおかしく感動的に語れるようなセンスや文章力もない、誰かの悩みや社会課題を解決するような知識もアイデアもない、軸となる思想もない、自分には何もない・・・・・・そんなふうに思ったこと、ないだろうか。 隣のエッセイは青く見えるんだよね。 でも、そのエッセイ、めちゃ

「書く」が、過去の自分を古くする。

なんでだろう、と考えていた。 体感的にはあっという間の一年だったはずなのに、 なぜか今年の春がはるか遠い過去のことのように感じる。 この二律背反の原因を突き詰めると、 それは間違いなく、今年3月からはじめたnoteが関係している。 約10ヶ月間でnoteに投稿したのは、 短編小説90本、エッセイ47本。 当初の自分では想像もできなかった量を書いた。 自信の無さを量で埋めた。 思えば、小説やエッセイという形で 心の中にある漠然とした何かを言語化することは、 「自分とは何

noteの掲げるミッションがすごく素敵だなあと思って、それについて書きたくなった。

「誰もが創作をはじめ、続けられるようにする」 ぼくは、このnoteのミッションが好きだ。 ミッション = その企業が存在する理由、その企業が社会の中で果たすべき役割を伝える言葉。 自分も、コピーライターとして、企業の理念(ミッション・バリュー・ビジョン等)を作らせていただくことがあって、これまでいろいろな理念を目にしてきたのだけど、これは本当に言葉が研ぎ澄まされていると思った。 一見、普通の短い言葉に見えるのだけど。 このミッションはピースオブケイク内部でのワークシ

そうか。書くことは、迷いを減らすことだったのだ。

人間は、みんな迷子だと思う。 物心ついた日からずっと迷い続ける生き物なんじゃないだろうか。この迷路に出口はなくて、あるとするならそれは死ってことになる。きっと、生きている限り、迷い(選択)の連続なのだ。 「たいやきのひとくち目は頭か尻尾か」「そろそろ寝るか、あともう少し起きてるか」「今日のデートはヒールかパンプスか」などの小さなことから、「就職するか進学するか」「別れるかプロポーズされるまで待つか」「子供の名前は一郎にするか秀喜にするか」などの人生に関わる大きなことまで、

「いいこと書かなきゃ」という呪縛。

自分の書いたもので、誰かの人生に少しでも影響を与えたいとか、誰かの日常にやさしい余韻を残したいとか、誰かのモチベーションの潤滑油になりたいとか、世の中を変えたいとか‥‥。 そういう“いいこと書かなきゃ意識”でパソコンに向かっているnoterは多いんじゃないだろうか。 書く行為は自分の内面をさらけ出すことだ。当然、外見と同じように、内面もいいように見られたいに決まっている。だから力んでしまう。うん、よくわかる。 でも、思ったように書けない。うまくまとまらない。できあがった

読みたい人よりも、読んでほしい人の方が多いかもしれないタイムラインを眺めながら思うこと。

読むこと、書くこと、どっちが好きだろう? 日常的に記事を投稿している人なら、後者の方が多いかもしれない。特にこのnoteという場では、読む人よりも、読んでほしい人(書きたい人)の方が多い気がする。気のせいかな。 今までの日本では、自分の考えを表明するのは勇気のいることだった。空気を読んで忖度して尖りすぎない大人になるように教育されてきたから。でもかつてないほど個や多様性が尊重される時代になってきた。ブログやSNSなどが登場して、誰もが簡単に自分の意見や作品などをネット上

書いていると、読みたくなる。

文章を日常的に書くようになると、「読む」ことへの視点や姿勢が変わったりすることはないだろうか。 自分は、ここ最近、小説に対する視点が少し変わった。どう変わったのかと言えば、読み手視点から書き手視点になった。自分なりに“小説的なもの”を書き始めてみて、物語を紡ぐ難しさと奥深さを身をもって感じているだけでなく、読み手として誰かの作品を眺めていた時とは違う感覚がいろいろと押し寄せてきている。 まず、以前より小説を読むようになった。これは単純に、みんながどんなものを書いているのか

一文も、一生も、やわらかく。

「やわらかい人」が好きだ。ここでいう「やわらかさ」とは、相手を受け止められる柔軟性(懐の深さ)のことだ。受け止めるというより受け入れるという方が正しいかもしれない。そういう人との時間は居心地が良い。それは「一緒にいるのが楽」だということだ。何かを押しつけないし、会話が途切れても怖くないし、素の自分のままでいられる人。極端に言えば、一緒にいる時にこちらがアクビをして眠そうな顔で鼻くそをほじっていても、笑って気にしない人だ。(いや、鼻くそは気にしろ) これは、文章にもあてはまる