偽りの「科学的思考」には注意せよ!
1.偽りの「科学的思考」がはびこってしまっている
科学はわからないことをわかろうとする人間の営みであり、
わからないところをしっかりと認めるところも科学の大事な役割だということを伝えて参りました。
科学は正しく使えば私達の人生をよりよく変えていくことができる潜在性を持っていることは間違いないと思っていますが、
今の世の中では、科学の使われ方があまりにも偏っていて、
「科学的」なようでいて、実は「科学」の本質からかけ離れてしまっている考えがはびこってしまっているように思えてなりません。
具体的な例で言えば、連日報道されるウイルス感染症の感染者数推移の数値情報やグラフを見た時に、
この数値が一体何を意味しているのか、あるいはそれがどこまで現状を適切に反映しているのかを検証する態度が本来の科学的思考だと思うわけですが、
実際にはこの数値が絶対的に正しいことが前提となって全ての話が進んでいるような印象が強いわけです。
科学はデータを重視します。客観的な観測事実を重視します。
しかしながらそのデータ、客観的な観測事実自体を疑うというスタンスにはあまり慣れていないのかもしれません。
真実を解明しようとする科学のスタンスから言えば、データが違う可能性があればとことん追求しなければならないわけですが、
それができずに前提が間違っていることに気づかず突き進んでいくさまは、
さながら科学の力で生み出されたブルドーザーが、いつの間にか運転手不在でどこまでも突き進んでしまっているような光景に思えます。
データの妥当性が疑われることなく、すべての思考が突き進んでいくような思考は、
たとえどれだけ偉大な専門家が語っていようとも、
「科学的思考」に見えるだけで、その実は偽りの「科学的思考」になってしまっているように思います。
2.偽りの「科学的思考」であることに気づくために
前提が間違っているかもしれないというのは口で言うのは簡単ですが、
それを言い出したらどこまで疑ったらよいかキリがないのではないかと思われるかもしれません。
しかし私は闇雲に前提を疑えと言いたいわけではありません。
ものごとを疑うのであれば、それなりの根拠というものが必要だと思います。
その疑うためのポイントが「事実に即していない」というところです。
「科学的思考」の中で必ず行うことに、「仮説を立てる」というものがあります。
例えば「ウイルスは飛沫を介してヒトからヒトへ伝播する」「PCR検査はウイルスの存在を99%の確率で検出する」など仮説を立てているとします。
しかしそうだとしたら、日本全国同時のタイミングでPCR検査の陽性者が全国に広がっているという事実があった時に矛盾を生じます。
なぜならばヒトからヒトへ伝わってPCR検査の陽性者が増えるのであれば、最初の段階で必ず局地性が存在してしかるべきであるからです。
それが全国同時のタイミングでPCR検査陽性者が広まっていて、しかも検査の件数に応じて陽性者数が増えるという傾向があるのであれば、
それは「ウイルスが飛沫を介してヒトからヒトへ伝わっている」「PCR検査はウイルスの存在を99%の確率で検出する」の仮説のどちらか、あるいはどちらもが間違っている可能性を考えなければなりません。
「ウイルスは伝播しているというよりは一定の確率で普遍的に存在している」のかもしれませんし、「PCR検査はウイルスだけではなくウイルスと似た構造物を検出している」のかもしれません。
真偽はともかくとして、少なくともその仮説の方が事実を説明することができているので、
今度はこの修正した「仮説」に対して、事実に即していない事象がないかどうか検証していく必要が出てくるのです。
このように「仮説」を立てること、「事実」をよく観測すること、「仮説」の妥当性を「検証」すること、必要に応じて「仮説を修正」して、また「事実」を観測しなおすこと、
こうしたプロセスを繰り返して真実を明らかにしていくことこそが、真の「科学的姿勢」と言えるのではないかと思います。
そのプロセスの中で、どうしても「仮説の修正」だけでは説明できない事実と遭遇してしまった場合は、
そこで「前提を疑う」というアプローチの必要があるというわけです。
逆に言えば、ここで「前提を疑う」ことができなければ、その先の科学はまるで運転者不在のブルドーザーのように、秩序を失ってどこまでも無秩序の方向へと突き進んでしまうことになります。
今の社会はまさにそういう状況に直面してしまっているのだと私は思います。
3.偽りの「科学的思考」に惑わされないための2つのコツ
さぁ、そうしたら私達はどうすればよいのでしょうか。
賢い人達が間違っているかもしれないということまでは理解したとしても、
だからといってそんな賢い人達に頭の良さで遠く及ばないような自分に何ができるというのでしょうか。
これについては頭の善し悪しとか意識せずに、「自分の頭で考える」ということに尽きるわけですが、
「自分の頭で考える」ことができるようになるためには、大きく2つの要素が必要であると思います。
一つは「自分から情報を集める」、もう一つは「多様な価値観を受け入れる」ということです。
前者は「自分から」というのがポイントです。例えばテレビやSNSから流れてくる情報を眺めることは「自分から情報を集める」ことに該当しません。
それは「情報を集める」というより、「情報にぶつかる」といった方が適切な行為です。「自分から情報を集める」行為を行うためには、まず自分が「疑問を持つ」ことが必要不可欠なプロセスです。
「疑問を持つ」ことがあってはじめて、その疑問を解決するために必要な情報を「集める」行為が可能となります。ここが明らかでないと「情報を集めている」つもりであっても、実際にはただ「情報にぶつかっている」だけの行為となってしまい、それでは情報がまとまることはありません。
そうすれば、自分の中で納得のいく思考の軸のようなものが出来上がっていくわけですが、その段階になると次の「多様な価値観を理解する」が重要になってきます。
なぜならば自分の頭で考えて出来上がった思考の軸は唯一無二の正解ではありません。あくまでも自分の生育環境、自分が遭遇した人生の課題、自分が使えたリソースの中で創り上げてきた思考の軸です。
その自分の思考の軸の中では気づき得なかった着眼点を、他人の思考の軸が教えてくれる場合があるわけですが、
ここで自分の思考の軸に絶対的な信頼感を覚えてしまっていると、他人の思考の軸に妥当性があったとしても、自分と異なるというだけで排除してしまうことになりかねません。
それは他人の思考の軸の中に潜む真実、本質を見過ごすことにもなってしまうので、「科学的思考」でもなくなってしまうのです。
運転者不在のブルドーザーの暴走を止めるためには、私達自身が運転者となって、暴走を止めていくしかありません。
それは誰にでもできることであり、誰もがやらなければならないことです。
そのための第一歩である「自分の頭で考える」ことを、できるところからはじめていこうではありませんか。
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