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その「悪」は、自分自身でもあると思えるか

政治家が庶民の不安も知らずに高級料亭で会食をしていたり、

大金持ちが豪遊しているという話を聞くにつれて、

この人達に謙虚や倹約という発想はないのかと、

そんなことがまかり通ってしまうバランスの悪さがこの社会をダメにしているなどと、

まるで「巨悪」のように感じられてしまうことがあるかもしれません。

ですが、ふと自分のことを振り返ってみますと、

大学生になってはじめて一人暮らしをした頃は四畳半の一部屋のみで、風呂トイレキッチン共同という中で生活していたことがありました。

しかし次第に自分の力で稼げるようになり、

自分の裁量で自由に使えるお金が増えていくにつれて、

生活の場も変わり、少しずつ家賃の高いところに住むことができるようになってきたように思います。

今、さきほど巨悪だと認識していた相手を、この家賃が高い家に住めるようになった自分に置き換えて考えた時に、

自分が謙虚さや倹約の考えでもとの四畳半の部屋に住めるかといったら、

それはなかなか厳しいものがあるし、そもそもそんなことをする必要性が感じられなかったりします。

自分に使えるお金があるから純粋にお金を使っているだけであって、

別に浪費しようという意識はないし、庶民を苦しめようという意図もさらさらありません。

つまり何が言いたいかといいますと、

その「悪」に思える相手の側面は、自分の中にもある「人間の共通構造」であるということがある、ということです。


「逆の立場になって考えよう」という言い方がありますが、

政治家でもない自分が政治家の立場になって考えるなんてことはできるはずもありません。

しかしそうではなくて、ものごとの本質に注目することで、

一見全く違う存在と思える相手と自分との共通点を見出すことができるようになります。

これは負の感情を抑えるのに非常に有効な考え方です。

以前哲学カフェで、こどもの虐待をする親の心理に話題が及んだ時に、

実際に虐待をしたことがあると告白してくれた参加者の方の意見を聞いていて、

実は虐待に至る心理が誰にでも存在している普通の感覚に由来しているということに気づかされることがありました。

相手と自分は違うと思うからこそ許せないとか、蔑んだりといった負の感情が沸き起こるのではないでしょうか。

「悪」だと思う基準自体も、人それぞれに細かく異なっているところがあるわけですが、

実はその基準の立て方も、本質的なところに注目すると、見ている部分が同じだったりします。

そしてそのことに気づけた瞬間から、争いや軽蔑や差別といった行動とは次元の違った解決行動へと向かうことができるのだと私は思います。

誰もが自然の摂理に従って行動しているだけなのですから。

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