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小説『オスカルな女たち』45

第 12 章 『 決 断 』・・・1


    《 そうするための… 》


ガチャリ…と冷たい金属音が、引き金となった。
ふいに肘のあたりを掴まれ、掬われるようにして腰を抱きかかえられた。相手の顔が間近に見えたと思った途端、左頬に手をあてがわれ、
『ん…っ!』
(な、なに!)
キ、キスされてる!?・・・・

    自分のことなのに、傍観している感が否めない。

きつく腰を寄せられ、突然のことにされるがまま呆然とする。
(…な、く、くる、しい)
息ができない。
『…っ』
身動きが取れないまま息もつけずに、必死で頭をそらす。
一瞬、力がゆるんだ隙に、胸を突く。
『…ちょ! 章悟くん』
(え…!?)
章悟くん!?・・・・

    その名に驚いたのはだれよりも自分だった。

我に返る章悟は、バツの悪い顔をしている。
『い…っ、いき、なり、なのね…』
気まずそうなその顔に、こちらも無碍にできずに思わず取り繕ってしまう。が、内心は心臓が飛び出しそうなほどうろたえていた。それはあまりに強引で、
余韻もなにも、あったもんじゃない・・・・

    別の自分の声がする。

部屋に入るなりキスされるとは、迂闊だった。
キスなんて軽いものじゃない、それはベッドの中でするような熱い絡みだ。
『…ずっと、こうしたかった』
吐息まじりにそう言いながら、章悟は壊れ物でも扱うように、今度は優しく肩を引き寄せ、自分の胸に織瀬(おりせ)の顔を添わせた。
『…ずっと…?』
…ずっと?

    イツカラ?

自分の心音なのか、章悟のそれか、頬に当たる胸が熱い。
『旅行中?…』
旅行?・・・・

    いつの間にそんな話がついたのか。

ついてきておきながら章悟の本心に「気づいていない」とは言い難い。だが、そんな気はなかった風を装いたいのが女心。
『それとも、』
『ずっと前から、気になってた…』
気づけば章悟は少し震えているようにも感じる。
『ずっと、こうしたかった…。じゃなきゃ旅行なんか誘わない』
言われて「始めからそのつもりだったのか」と思考を巡らせる。そうなると…
のこのこついてきたあたしは、

    電話を掛けたのはわたし、

『…あたしもその気だと思った?』
章悟の胸に頬を預けたまま、顔色を伺うように上目遣いで見上げる。
章悟はわずかに視線を外し『来てくれるとは思ってなかった』と言い織瀬の肩に自分の額をうずめた。
『そうなの?』
しめしめと、舌なめずりして待ち構えていたわけではなかったようだ。
織瀬の中の「男はけだもの」説がハラハラとほどけていく。
『今朝まで、本当に来てくれるのか…。ここにつくまで、気が気じゃなかった。だから、つい』
そう言って、ようやっと腕を下ろした。
なんと殊勝な男なのか…そうまでの思いをして誘ってきたのか。声をかけてきたときは、あれほどに余裕で、妙な駆け引きさえ感じていたというのに。 甘えてもいいのだろうか・・・・

    許されるのなら流されたい。

『あたしは、純粋に、旅行に来たのよ…?』
旅行・・・・

    ココハドコ…?

相手の余裕のなさが返ってこちらの自信になる。
織瀬は悪戯っぽく笑って見せた。そうして「すみません…」と、章悟が言いかけるのを遮るように、人差し指を差し出し、
『あなた、と・・・・   
彼の唇に手を当てる。


がば…っ


「な、なに!?」
キャン…
(あなたと…?)
織瀬は人差し指を伸ばす形のままの自分の指を見つめ、
「そんなこと…!」
左手で右手を握りしめ、気を落ち着けようとする。次に顔を覆い、右手で自分の胸ぐらをキツくつかんだ。
(パジャマ…キャン?)
不意に視界に黒い毛玉。
「だ、だよねぇ…」
すぐ脇で愛犬〈ちょきん〉が「はっはっ…」と笑顔のご挨拶。
「ちょき…」
愛犬を抱き寄せ、安堵する。
「だよねぇ…?」
大きく息を吐いて、静まり返った部屋を見回す。
見慣れたベッドカバーに、見慣れたクローゼット、見慣れたドア。そして散らばる段ボール箱…は、いつまでも幸(ゆき)と生活していたこの部屋に留まるわけにはいかないと、荷造りのために運び込んだ。
(なんて夢みてんのよ~、あたしは…)
まだ胸がドキドキしている。
昨夜、真田に電話を掛けたせいだろうか。
「でも…」
(出掛けるってことは…そういう、こと…か?)
愛犬に首筋をなめられながら、そして、急に現実を感じる。
「ちょき~」
キツく抱きしめるが、するりと逃げられる。
「ちょき~」
落胆してかけ布団をめくりあげ、伸びをする。
「ん~っ…」
(これから、どうなるのか…)
寝室のドアを見つめ、ドア向こうのリビングのテーブルの上に置かれた封書の中身を考える。
「ちょ~き。お散歩いこっか…」
無気力にそう言って立ち上がり、ドアに向かう。
テーブルの上の書面は、夢ではなかった。
送り主は夫の幸。封書の中身は、既に署名も捺印もされている〈離婚届〉だった。
(これが10年の結果? 求めた結果だというの…)
なにか落ち度があったわけでもない。ただずっと、ありもしない「浮気」を疑われ続けていた末の結果がこれなのだ。
あたしは、どうすればよかったの・・・・!
昨夜織瀬は自問し、頭を抱えてひとしきり泣き崩れた。
「はぁ…」
これが現実…とのため息に、両の頬に再び手を当て沈黙。
「あ~やっぱりむくんでるじゃ~ん」
織瀬はわざと声を立てて嘆いた。
「シャワー浴びよ」
独り言が増えたと思う。
静まり返るマンションの中、生活音すら冷たく感じる。
(もうここにはいられない…)
気持ちをリセットしたかった。
昨夜の涙も、先ほどの夢も、すべて流してしまいたい。
キャンキャン…と、嬉しそうにまとわりつく毛玉だけが唯一の現実、唯一の癒しだった。

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12月に入り、街の様子もクリスマス一色になった。
いつもならツリーを飾るリビングも閑散としたままだ。
とてもツリーを飾る気分にはなれないし、年内にマンションを出ていこうと考えている織瀬にはクリスマスなどないも同じだった。
「いってきます」
玄関脇のちょきんの部屋のドアを閉め、コートとバッグを掴んでヒールに足を通した。

織瀬はあの日以来、時間の許す限り〈吉沢産婦人科医院〉に通っていた。それは自身の通院のためではなく、院内に唯一設けられた〈ファミリールーム〉に入院している特別患者、女優の〈弥生すみれ〉を見舞うためだった。現在彼女は妊娠しており、お腹の中の子どもの父親は主治医の真実(まこと)にさえ知らされてはいない。そして、そのお腹の子どもの「里親に」と、弥生子は織瀬を切望していた。
特別患者の女優は本名を〈花村弥生子(やえこ)〉といい、高校時代の同級生で在学当時は『観劇のオスカル』と呼ばれていた。その呼び名の通りに夢を叶えた弥生子は、同じく『高嶺(高値)のオスカル』と呼ばれていた御門(みかど)グループの御令嬢〈玲(あきら)〉の取り巻きのひとりであったが、当時『おてんばオスカル』と呼ばれていた織瀬とはまったく接点はなかった。
接点のなかった織瀬に、なぜ弥生子は〈里親〉の申し出をしたのか、理由はまったくわからない。織瀬の身体の事情を偶然耳にし付け焼刃の思い付きだったのか、単なる気まぐれか、なにか他の意図があるのか…。だが、ただ言えるのは思いのほか織瀬を「気に入っている」というのが一番適当な言葉だろうか。
「順調よ」
弥生子は織瀬の顔を見ると必ずそう言って出迎えた。
弥生子のお腹の中の子どもは現在31週目を迎え、心配されていた〈子宮筋腫〉においても今のところはそれほど悪さをすることもなく順調と言えた。
病室のふたりがなにを話し合っているのか、真実の知るところではなかったが、ふたりにとってはそれが必要な時間だった。
「それじゃぁ、また…」
そう言って病室を後にする織瀬を目に止めたのは、真実の実母で医院の医師でもある〈吉澤操(みさお)〉であった。
「おや、今日は早いね」
「操先生…」
「特患さまは今日もご機嫌かい?」
「はい。疲れさせてもいけないと思いまして…」
そう言って織瀬は操に会釈した。
「疲れるようなことしてないと思うがね」
少々呆れ気味に〈ファミリールーム〉に目を配る。
「それでも、一日中お邪魔してるわけにもいかないので」
そう言って織瀬は笑った。
「笑えるようになったんだねぇ」
独り言のような操の言葉に「そういえば…」と、改めて思う織瀬。自分でも気づけないほどに、自分のことが見えていないようだ。
「ちょっと、時間あるかい?」
「はい…」
なんの話か…というより、呼び止められたことは織瀬にとっても好都合だった。
普段は〈マタニティ教室〉や〈母児同室指導〉などに使われている談話室に入ったふたりは、室内に設置されている座椅子に向かい合わせで座った。
「体の調子はどうなんだい? 今は昔ほど大変な手術でもなくなったから、回復も早いだろうけど」
「はい、おかげさまで。傷みもなく順調です」
聞かれるまま静かに答える織瀬。
「それはよかった。これから寒くなるから、体を冷やさないようにね」
「確かに。腰のあたりに冷えを感じます」
言いながら腰に手を当てる。
「そうだろう。いくら回復が早いと言っても手術は手術だからね、あとあと響いてくるから。労りなよ」
「はい。ありがとうございます」
「それで…。腹は決まったのかい?」
おそらくそれは弥生子の赤ちゃんの〈里親〉を引き受ける覚悟はできたのか…ということだと織瀬は理解した。だが、それには即答はできなかった。
「まぁ、納得いくまで話をすればいいさ」
そう言われながらも織瀬は、弥生子の病室に〈里親〉の話をしに来ているわけではなかった。弥生子自身も、織瀬に対し「どうするのか」と言及することもない。ただ、接点のなかった学生時代の話や、これまでどんな暮らしをしてきたのか…などというとりとめもない話をしているだけなのだ。
織瀬は、操が〈里親〉についてどういう考えを持って自分を呼び止めたのか…と勘ぐるも、勧めるつもりも止めるつもりもない姿勢に少し物足りなさを感じながら言葉を選んだ。
「あの…少し聞いても、よろしいでしょうか」
「なんだい?」
「真実のこと、聞きました。それで、ひとつだけ質問があるんですが…」
「あぁ…」
「どうして、自分では…子どもを産もうとは思わなかったんですか…?」
「弟のことは聞いたのかい?」
答える代わりにうなずく織瀬。
「そうかい。なら、隠す必要もないね」
そう前置きをし、操は語りだした。
「昔は『産みたくても産めない母親』のほかに『育てたくても育てられない母親』ってのもいたんだよ。いろんな事情があったからねぇ、さすがにもう〈みなしご〉や〈捨て子〉なんて子どもはいなかったけど。今はいろんな機関があってなんの問題もないように見えるけど、いつの時代も女の悩みは変わらないよ」
「はい…」
「うちは…もとは〈産科〉はやってなくてね。それでも、軽い発熱から感染症なんかでやってくる幼子をたくさん見てきた。ここは病院だからね、元気な子どもを見れることは少なくて、毎日祈るように見ていたよ」
操はそう言うとひと息つき、遠くを見るような目で天井を仰いだ。幼い頃の記憶とはいえ、操にとっては昨日のように鮮明に思い出せるのだ。
「あたしらの世代で〈ひとりっ子〉っていうのは珍しくてね、周りは3~4人、少なくてもふたり、兄弟のいない家庭はないくらいだった。それがうらやましくてね…でも、母親の身体が弱かったから『兄弟が欲しい』とは言えなかった。それと同時に、あたしの将来も決まっていた」
静かに身の上を語ってくれる操。それを受け、
「将来…」
「病院を継ぐってことだね」
「あぁ」
高度経済成長期とはいえ、操が生まれたころはまだまだ女性が活躍する場は少なく、就職先も「縫製会社」や「紡績工場」などが主流で「より良い結婚」こそがしあわせと信じられていた時代だ。家業を継ぐということは、今以上に重要だった時代。息子がいないからといって、それを諦められる世の中ではなかった。
「…母親のこともあったし、父親を見ていたから病院を継ぐことにはなんの疑問もなくて、当たり前と思っていた。けど、子どもの頭の中の『当たり前』なんてあてにならないもんで、本気だったのかどうか…今となっては解らないけどね」
「わたしも、兄弟がいないのでよく解ります。だから子どもも、最低ふたりは欲しいと思っていました」
織瀬も、自分の想いを語った。
「兄弟どころか、わたしは祖母に育てられたので…」
「そうなんだってね。苦労したんだね」
「いえ。…幸い、祖母が仕事をしておりましたので、それほど不自由ではありませんでした。でも、母のいないさみしさは祖母だけでは埋められなくて…随分とわがままをしたと思います」
「いいんだよ、子どもは自由で。わがままも言えないような家では、幸せとは言えないからね」
「そう、でしょうか…」
その点に関して、織瀬には少なからず後悔があるようで、
「祖母にしたって、自分の娘は行方も解らない状態で、突然わたしのような子どもを押しつけられても大変だったと…」
多少自虐めいた言葉を発した。だが、
「それでもこんなにいい子に育ったじゃないか。おばあちゃんはしあわせだったと思うよ」
操もそれには言及せずにやさしい目をして答えた。
「そう、なのかな…」
独り言のようにつぶやく織瀬。
それは今まで、だれにも言えないことでもあった。両親のことを語ろうとするとき、おのずと自分が「捨てられた」という思いがついてくる。たとえ相手に「そうではない」と言ってもらったところで、そんな慰め程度のセリフで納得できるようなものではなかったからだ。
「そんなことは理解しようとしなくていい。育ててもらった現実と、今感じている気持ちだけでいいんだよ」
操は織瀬の心が解るかのように、そう言って微笑んだ。
「ひとの心は簡単じゃないからね」
「はい…」
目を潤ませながら答える織瀬。
確かに、簡単な言葉で済ませられることではない。
「どうしようもないことはあるんだよ。子どもには特にね。…そんな時、眞(まこと)は…弟はやってきた」
そう言って操は話を続けた。
「お乳を与えられずに息を引き取った母親は、どこのだれかは結局解らず仕舞いだったけど、しっかりと守るように赤ん坊を抱きかかえていてね。おそらく、自分で産んだんだろう。その赤ん坊は小さくてとても生きてるようには見えなかったよ。でも必死であたしの指を掴んだその子は確かに生きようとしていた…」
それは操がまだ小学生自分だった頃の話。
「赤ん坊だってひとりの人間だ。どんな事情があろうとも、その個人の将来を母親がいないというだけで決めていいもんかね。だからそんな子どもがひとりでも母親と一緒にいれるよう〈産科〉を作った。そして〈里親〉のあっせんもした。まぁ当時はいろいろ言われたけどね。だから公にはしていない」
そう言って操は織瀬をまっすぐに見た。
「そうだったんですね…」
純粋に「母子」という関係を大事にしたかったのだ…と操は言う。
「きれいごとかもしれないけどね、自分は子どもを『諦める母親』にはなりたくなかった…ってことかね。弟のような子が、この先なん人やってくるのか解らないけど、そういう子らの母親でありたいと思った」
言いながら操は自分の胸を叩き、
「自分は捨てられたのではなく、この『あたしに』望まれて生まれてきた子なんだって…。だから、自分で産む必要はなかったんだよ」
そう語る操の表情は実に穏やかで「子どもは生まれる場所を選んでやってくる」と、我が子である真実に教え聞かせた心意が見えた気がした。
「わたしに…!」
「うん…?」
織瀬は息をのみ、
「わたしも、なれるでしょうか…」
鼻をつまらせ、涙をこらえながら言葉を吐き出した。
「母親にかい?」
「…えぇ。ただ『子どもが欲しい』というだけで、なにも解っていなかったような気がして。こんなわたしでも…!」
「織ちゃん」
「…はい」
「女はね『子どもを持ちたい』と思った瞬間から、もう母親なんだよ」
「ぁ…」
操は立ち上がり、織瀬の前に立つとそっと頭を撫でた。
「織ちゃんは、もうずっと前からお母さんになる準備はできているんだろ?」
「…ぅ。お、かあ、さん…」
そう言って両手で操の手を取る織瀬。それを操はやさしく抱いた。
「わたし、わたし…。本当は…!」
「ぅん。うん、解ってるよぉ、解ってる。ずーっと我慢してきたんだねぇ。でももう、自分の思うようにしていいよ」
おかあさん、おかあさん・・・・!
心の中で、だれともない母を呼ぶ。だが、織瀬の記憶の中に母はいない。
「ぅぅ…」
幼い自分が顔を出す。

お、か、あ、さ、ん・・・・!

母親がいたらこんな風だったろうか…と、織瀬は子どものように泣きじゃくった。
「誰だって不安さ、人の子の親になるってことはね」
操自身、織瀬のすべてを知っているわけではない。だが、最後に、
「完璧なんてないんだ。子どもだって、みんな違う。母親だって、だれひとり同じ人間はいないんだよ…。妊娠したことのない母親がいたっていいじゃないか」
そう言って一筋の涙を流した。

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それからも織瀬は、弥生子の病室でいろいろな話をした。
これまでの生活、高校を卒業してからどんな仕事に就き、どんなことを考え、どんな恋をしたのか。そして「母親になりたい」と語った。
「正直、自信はありません。それでも…」
「もう、いい加減敬語辞めない? 同い年なのに。わたしはこっち側の人間。本来なら玲さんたちと肩を並べられるような立場にないのよ」
「でも…」
「いいから…! 堅っ苦しいのはうんざりよ。あなた、本当に真実さんのお友達? あんなにぶっきらぼうで遠慮のない…玲さんもそうだけど、あなたたち4人、一緒にいてまったく違和感ないの?」
「え…特に、感じたことないで…ぁ、ないけど」
「そこが不思議なのよねぇ…」
こっち側の人間…という弥生子だが、そうは言ってもお互いほほ初対面に近い関係に、最初は織瀬も随分と構えていたものだった。だが、ハーブティーが好きなことやハイヒールの手入れ、仕事に対する姿勢など、意外にも共通点が多く、不思議なくらいふたりの間にそう大きなハードルはなかった。
「あの…弥生子さんは、子どもは両親とも揃っていないといけないとお考えですか?」
少しずつ気持ちが傾きつつあるとはいえ、織瀬には子どもを迎えるにあたりまったく問題がないわけではなかった。
「だから、敬語。やめて」
「はぃ…」
「もう。…まぁいいわ。なに? やっぱりあなたたち離婚するの?」
未だ答えの出ない、真実やつかさにもいっていない話題も、弥生子の前では多数行きかった。
「まだ、なんとも。でも…多分、」
「あなたは、もう無理だと思うのね」
コクリとうなずく。
「先のことは解らないけれど…」
「好きな人でもいるの?」
弥生子は織瀬に対しても遠慮がなかった。
「ぁ、ぇと…」
さすがにそれには答えられない織瀬。だが、
「図星ね」
「…なんで」
「なんで…? そりゃ、あなたのこと全部知ってるってわけじゃないけど。これまでの流れで『別れるかもしれない』現実は少なからずあるとは思っていたし。でも、無理だといっておきながら『先のことは解らない』だなんて言うのはつじつまが合わないもの。なにかあると思うじゃない」
すべては解らないまでも、なかなかに洞察力が鋭い。
「それにしたって…」
「わたしは女優よ。いわば、人の顔色を仕事にしてるの。しかも勉強する時間はた~っぷりあった」
弥生子はそう言って両手を広げて見せる。売れていない自覚は充分にあるというわけだ。
「ひとの本音。本気か嘘か、なにもないのか、隠しているのか、その程度の判断がつかなきゃ、チョイ役でインパクト植え付けることなんて到底できないわよ」
「はぁ…」
改めて弥生子を「すごい」と思う織瀬だった。
(ホントに売れてないのかしら…?)
これまで知らされていた弥生子の評判は「チョイ役」「脇役」「個性派」と、あまりいいイメージでは伝わってはいない。織瀬自身、弥生子の出演するドラマを意識して観たことはなかったが、改めて観てみたいと思うのだった。
織瀬には、高校時代からの親友にミュージカル女優〈橘もえ(本名:立花萌絵)〉がいる。彼女もまた在学中は『第九のオスカル』と呼ばれていてちょっとした有名人だった。その親友からも彼女の話題は聞いたことがない。務めて話題にしたことがない…といった方が正しいだろうか。
「ま、お互い様だけど、プライベートをどうこう言うつもりはないわ。あなたが母親になりたい気持ちに変わりはないのでしょうから。それに、」
弥生子は腕組みをし、
「わたしだって〈里親〉を考えなければ私生児なわけだし。ふた親揃ってたからって、必ずしもいい家庭ってわけじゃないしね」
「それは、そうだけど…」
両親とも揃っていない織瀬には、説得力のある言葉だった。
「この〈養子縁組〉は、お互いが納得しあって進めていくものでしょう? 納得するためにわたしたちはこうして話し合ってる。昔ばなしに花を咲かせるお友達ごっこじゃないのよ」
「でも、あなたには、それなりに理想があるのかと思ったから…」
自分のお腹を痛めて産むのだ。出産経験がないとはいえ、出産が女にとってどれほどの仕事か織瀬自身解っているつもりだった。ゆえに我が子に対する期待も、それなりに抱いているものだろうと思っての言葉だった。
「子どもを産み捨てようとしてるわたしに理想もなにもないでしょう? むしろ『ひどい母親』って罵ってくれていいのよ」
「そんな…」
「あなた、優しすぎるわ。そんなんじゃこの先子どもがいじめにでもあったらどうするの、しっかりしてくれなきゃ、任せられない。今から母親の不安押しつけられちゃ困るわ。ふたりで育てるわけじゃないのよ、あなたの子なんだから」
母親になりたい…との決心が堅いとはいえ、織瀬の中にはまだ迷いが残っていた。だが、弥生子の中では既にお腹の中の母親は自分ではなく織瀬だと割り切っている様子に少なからず圧倒されるのであった。
「だれだって『初めて』はそんななんじゃないの? わかんないけど」
〈出産・子育て〉についてはふたり、お互いに未知ではあったが、織瀬に任せることにおいて弥生子には不安はないようだった。
「そう、かな…」
「…お互いが納得してればいいんじゃない? ただ、途中リタイヤは許さない。まぁ話を聞く限り、あなたはそうならないでしょ」
この絶対の信頼はどこから来るのか。織瀬は、弥生子がなぜ子どもを手放そうとしているのかが理解しかねていた。だが一見楽観しているような弥生子の態度も、これまでの対話の中で彼女の「芯の強さ」を感じている織瀬には、それが彼女の優しさなのだと理解できた。
「で?」
「で…?」
「その彼とはどうなの」
「どう…って?」
「つきあってるの?」
これまた直球の質問にたじろぐ織瀬。
「まさか…」
「まさか…? つきあってないの? それじゃぁ先もなにもないじゃない」
「先のことなんか考えてないよ」
「なんでよ?」
「だって、これから赤ちゃん育てるかもしれないのに…」
「だからよ…! そのつもりで『ふた親』って言ったんじゃないの? 好きな彼と一緒に育てるつもりで」
弥生子にとってはすべては点と線、すべてが直線で結ばれているらしい。
「そんな…!」
織瀬にとっては幸との離婚を踏まえて…の「ふた親」発言だった。これから一人になるかもしれない自分に任せてもいいのか…と確認のつもりが、弥生子にはさらに先の話に捉えられているようだ。
「だって彼はなにも知らないし…そもそもつきあってないし、この先だってどうにかしようなんて思ってないもの」
妙に慌ててしまうのは、心にやましさがあるからだろうか。
「つまらないわね」
「つ、つまらないって。…そ、そういうことじゃないでしょ」
「男と女なんて、そういうことでしょうよっ」
「そんな…」
これまでのことを考えても「そういうこと」で済ませられるほど簡単ではない織瀬は混乱するばかりで言葉にもならなかった。
「面倒くさい人たちね。あなたも真実さんも、そちらの『オスカル』たちは奥手なのね」
「真実? 真実にも…?」
好きな相手が…いるのかと目を見張る。
「前の旦那さんよ。このところ、しつこくされてるみたいじゃない? 知らない?」
「知らない…」
だが確かに、数週間前にも似たようなことを耳にしたような気がする…と、織瀬は思うのだった。
「あら、そう。そういう話はしないのね…」
「言いたくないことは…」
お互い、言ってはいない。
「じゃぁあなたの彼のことも?」
「だから彼じゃないってば…!」
「どっちでもいいわよ、この際」
「わたしは…ひとりで育てることになるかもしれないから、それでもいいのかって確認したかっただけ。彼のことは…彼とどうこうなんて、無理だもの」
「本音が出たわね」
「え…?」
「無理だもの…って、諦めてるってことでしょう? それって、どうにかなりたいと思ってるからじゃないの?」
「と、とにかく。彼のことはいいの…!」
「ま、かわいらしいこと言っちゃって」
瞼を上下させ「そういうところがいいのかしら、真実さんも」と、織瀬に聞越えない程度のひとりごとをつぶやいた。

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