カニ鍋

小説『オスカルな女たち』 35

第 9 章 『 結 論 』・・・3


     《 最初で最後の晩餐 》


「やっとここに来れたと思ったら、お引越しですものね」
突然思い出したようにふふっと笑う玲(あきら)。
すっかり片付けられたリビングの真ん中にポツンと置かれたダイニングテーブルと、その上には豪華な鍋セットにラメ入りのピンクのボトル。つかさの新居への引っ越しが明日と迫った週末の夜だった。
「ごめんねぇ、急な話で。その代わり今日の持ち出しはわたしのおごりで」
キッチンで手際よく野菜を切り分けながら、すぐ後ろで食器棚に目を走らせる織瀬(おりせ)に「グラスはそこの奥…」と目配せする。
「そんなこと…。パジャマパーティみたいで楽しいわ」
と、織瀬が持ってきたグラスをテーブルの空いたスペースに促す玲は、他人の家に集まるというと決まって堅苦しいドレスコードのつまらないホームパーティしか経験がないことを嘆いた。それゆえ、友人宅でのこうした素朴な光景が本当に嬉しそうだった。
「家具は処分したの? それともいくつか持ち出すのかしら?」
手元を見ながら、キッチンの向こうで忙しく手を動かすつかさに問いかける。並べられたシャンパングラスに丁寧に、引っ越し祝いに自分が持ってきたピンク色のスパークリングワインを注ぎ、対面キッチンの狭いテーブルの下の壁の色に目を移す。そこは数か月前まで〈離婚届〉をため込んでいた書類棚が置いてあった場所で、真っ白な部分がつかさの人生の年月を物語っていた。
「使わないものとか、痛みが激しいものは処分する。新しいアパートに、極力ここのものは持ち込みたくないと思って。それはこっちも同じなんだけど、さ…」
と、あまり持ち出しが少ないことを申し訳ないと思っているのか、弟たちの新しい生活に遠慮している部分が窺えた。
「もっていくのはタンスの中身と、犬のものだけ…」
今の時代、婚礼ダンスを持っている主婦は少ないだろう。クローゼットの中身を断捨離しながら荷造りするのだ。苦い思い出の残るこの家に、つかさが持ち出す品物など既に限られているということだろう。
「そう…」
だから自分の車だけで済むのね…と、つぶやく玲。ここにある荷物は、ほとんどが吾郎と共有していたものだ。それは新しい門出には不必要なもの。
「さぁはじめましょうか」
そう言って玲は真実(まこと)と向かい合わせに腰掛け、自分から真正面に見える出窓の下でつかさの愛犬たちが「お先に失礼」とばかりにそれぞれの食器を舐めまわしているゲージに目を移した。
「わんちゃんたちは、ホームシックとかないのかしら?」
「ン…。しばらくは寝ないかもね…」
言いながら水道の蛇口をキュっと閉めるつかさ。
「でも、思ったより早かったね」
ざるに盛られた野菜を手に織瀬が真実の隣の席に着く。
「うん。リフォーム工事が思いのほか早くできそうで」
食器棚からビールグラスをふたつ取り出し、冷蔵庫に向かうつかさ。
「しかし思い切ったもんだね。姉弟揃って開業とは…」
箸を持ってお待ちかねの真実のグラスは既に空だった。
「もう、マコは…。つかさ、すぐなくなりそうだからもう一本持ってきてくれるかしら」
キッチンに向かって言いながら、玲は少し重そうなピンク色のボトルを持ち上げ真実のグラスに傾けた。
冷凍庫にグラスを冷やしたあと、冷蔵室からもう一本ワインを取り出し、栓を開けるつかさは「ビールもあるからね」と真実に向かって微笑んだ。
「あたしの話を聞いてて、思いついたみたいよ。まぁいくら経営者とはいえ、ずっとキッチンカーに乗ってるわけにもいかないとは考えてたみたいだけど」
つかさの引っ越しのあとこの家には、すぐ下の弟の家族が住むことになっている。そこで〈継(つぐ)〉は、一階を改装して「古民家cafeを開く」と言い出したのだ。仕事を辞めるつもりでいた現在身重の妻〈みさき〉も、ゆくゆくは一緒に店に立つ予定で既に週1でカフェスクールに通っているという。
「向こうもいろいろと入用だから、家具もそのまま使うって言うし、弟たちの部屋のものはそのまま置いて行くし、食器とかは揃ってないものを持ちだして、古い物は捨ててって感じで、あたしのやることは少なくて済むから」
「なんだか追い出されるみたいだな…」
相変わらず真実の歯に衣着せぬ物言いに、
「でも、こういうことは勢いも大事だから。ねっ」
と、織瀬が擁護する。
「まぁねぇ…タイミングってあるよね」
つかさはそう言いながら、ワインボトルをテーブルに置いて玲の隣の席に着いた。
「あたしも、住むところ決まったらさ、いろいろと欲が出て…」
と付け足し鍋の蓋を開けた。
「時期的には早いかなと思ったんだけど、これが一番食器が少なくて済むから…」
仕事のあとということもあり、準備が少なくてすむ「鍋」に言い訳するようにして3人に目で訴えるつかさ。
「わぁお。充分、充分、さっさとやっつけよう」
箸を持ったままの真実に、
「さ、乾杯しましょう」
玲がグラスを持ち上げた。
「なにに?」
待ちきれない真実もグラスを手にした。
「つかさの引っ越しと…。織瀬のために」
勿体つけたようにふたりを交互に見遣る玲。
「そうか。つかさの今後の発展と…ついでに継くんのcafeの成功。そして、織瀬のこれからの人生に…」
乾杯!
「いい感じ。…4人でテーブル囲むの久しぶりだね」
立ち上がり、取り皿に手を伸ばしながら織瀬が言った。
「それで? お義姉(ねえ)さまのようすはどうなの?」
待ちわびていたようにつかさが玲を見る。
「あぁ明日香さん…?」
つかさの問いかけに一瞬落胆する玲。義姉の『巻き毛のオスカル』こと〈御門明日香〉は、2週間前から玲のマンションに転がり込んでいた。
「今日はどうしてんの? よくついてこなかったな『巻き毛のオスカル』」
いの一番に取り皿を受け取りながら真実は玲を見た。
「今日でよかったわ。本当についてきそうな勢いだったから…」
そう言ってスパークリングワインをゆっくりと味わいながら、
「今日はご長男の誕生日らしくて、ホテルでお食事ですってよ」
と、グラスをテーブルに置いた。
「じゃぁ、帰ったの?」
鍋の具を取り皿に取り分けながら織瀬が問う。
「いいえ。お兄様はお仕事。だって今日は土曜よ? 料亭が休みのわけないじゃない」
「女将は休みなんだ…。あちっ」
せっかちに箸を動かしながら皮肉を忘れない真実。
「…じゃぁ、子どもだけなんだ…まだ続いてんの? 夫婦喧嘩」
真実と玲のグラスにスパークリングワインを注ぎ足しながらつかさが続いた。
「しかしよくやるね。わざわざ玲のマンションから通ってんだろ? 毎日」
「そうよ、毎日4時半起きで。おかげさまで毎朝旅館のような朝食が食卓を飾ってるけど…朝からあんなに食べきれないわ。喜んでいるのはうちの主人と子どもたち」
「大変だね、玲も」
取り皿を玲に渡す織瀬。
「ありがとう。…どうもね、『オスカル』が絡んでるらしいのよ」
「オスカル?」
取り皿を受け取りながらつかさが言った。
「そう。…『小悪魔オスカル』よ」
「小悪魔? まさか、子リスちゃんか…!」
真実には思い当たる人物がいるのか、再び空になった皿を織瀬に差しながら鼻で笑った。
「子リス?」
それを受け不思議顔のつかさ。
「そう。その子リスちゃんよ」
玲はつかさのグラスにスパークリングワインを注いで、わずかに残った分を自分のグラスに注ぎ足した。
「また新しいオスカルが出てきた」
空のボトルを受け取り自分の足元に置くつかさは、とことん『オスカル』には疎い様子で苦笑い。
「あたしも知ってる。子リスちゃん、人の彼氏とっちゃうって子でしょ? え、まさか」
もしかしたら「クラスメイトだったかも?」と、なんとなくうろ覚えの織瀬。
「そのまさかよ。どうやらお兄様の浮気相手がその子リスちゃんだっていうのよ。明日香さんの話だと、ね」
「どっから湧いて出た?」
「店で仲居をしているらしいわ」
「へぇ~」
「気づかなかったの? その、雇う時に…」
自分の分を取り分けたところで席に着く織瀬。
「仲居を雇うのは仲居頭に任せてるらしくて…明日香さん自身、履歴書を見た時は名前だけじゃ気づかなかったみたいなのよ」
箸を止め、ため息をつく玲。
「なんて名だった? 子リスちゃん」
「若林舞さん…って言ってたかしら」
「若林さん…知らないなぁ」
そう言ってつかさはグラスを口に運んだ。
「それは事実なの? 浮気の話は…」
曲がりなりにも明日香の夫は玲の実兄だ。追及するにも遠慮がちな織瀬。
「知らないわ。でも、どうかしらね…? 明日香さんは話しだすと泣き出すし…お兄様はお兄様で、なぜ家出されたのか気づいてもいないようだったし…?」
「子リスちゃんひとりが盛り上がってんのか?」
「と、思うわよ。私は…」
そう言って玲はグラスを空けた。
「じゃぁ違うんじゃない?」
そんな玲のグラスにスパークリングワインを注ぎながら、心当たりがあるのか…と、つかさはなにやら言いにくそうに口を開いた。
「正妻なんだから、家出なんてしないでもっと堂々としてりゃいいのに…」
「明日香さんには他に、気になることがあるらしいのよ。だから…」
ちょっと含んだ言い方をして織瀬をちらりと見る玲。
「浮気の他に?」
それを受け真実が「まだなんかあんの?」とグラスを持つ手を戻した。
「でもいつまでもそのままってわけにはいかないでしょ?」
続いてつかさも、いろいろあるだろうけど…と言葉を濁した。
「まぁね。そろそろ冷静になれたんじゃないかしら。様子を見て、お兄様に迎えに来てもらうわ…」
明日香の「他に気になる理由」というのが織瀬の夜の事情と重なることから、自然と織瀬に目がいった玲は、
「ところで織瀬。手術の日は決まったの?」
と、聞きにくい内容を話のついでのように持ち掛けた。
「そうだね。決まったんだよね?」
気になっていたつかさもなかなか言い出せずにいた手前、申し訳なさそうにそれを受けた。
「うん。月末の披露宴のあと月曜に入院。翌日手術で3日で退院」
「今月末? そんなにのんびり構えてていいの?」
手術という言葉に、玲は産後の入院経験から体調を案じてそう言った。
「手術の都合もあるけど…今、繁忙期だし。仕事減らしてるとは言っても、今月は披露宴も週末だけにとどまらないし…」
「最近、忙しそうだもんね」
織瀬と一緒にいることが多いつかさの気になるところでもあった。
「今までもそれでやってきたし、生理じゃなきゃ痛みも貧血もないから、今さら安静にしたところで、ね。理由が解れば、むやみに怖がる必要もなくなった」
「それにしたってだろ…」
急に過保護モードの真実に、
「でも今は、サポートに回ってるから立ち仕事もそんなにはないよ」
と、それでも過度な仕事はしていない…と微笑む織瀬。
「そのための今日、かな。あんまり考えなくて済むように、さ」
鍋に野菜を足しながら織瀬はなんでもないことのように話した。確かに手術も2週間も待たされれば、だれかと会ってでもいない限り考えてしまうのは必至だ。
「でも術後3日で退院できるんだね」
盲腸なみの速さだ…と、同じく手術に過敏になっているつかさが続いた。
「うん」
「思ったより大変じゃない?…のかしら…」
ついと専門家である目の前の真実に目配せする玲だったが、思いのほか乗りの悪い様子に未だ「自分が先に気づけなかったこと」を気にしているのかと、あえて話を振るのを避け織瀬に視線を戻した。
「全摘っていうと大変そうだけど…切るの?」
摘出というくらいだから、時間もその作業も大変なのだろうと伺うつかさ。
「うぅん。切らずに…器具を入れて…って、食べてるときによそう」
当然だが織瀬自身、あまり触れられたくはないらしい。
「そうね…ごめんねおりちゃん」
本音は、夫である幸(ゆき)の動向が窺いたかったつかさではあったが、これ以上は聞けないと思い口を閉じた。だが、
「膣式?」
それまで黙っていた真実が、なにか思いついたように反応して織瀬を見た。
「ぅん。そう…」
対し織瀬はうつむいたまま歯切れが悪い。
「へぇ…」
少し驚いた口調の真実は、固まっている織瀬から視線を外して再び勢いよくグラスを空け立ち上がった。
「やだ、マコ、飲みすぎよ」
「やっぱ、ビールがいい…」
そう言って「勝手にもらうよ」とまっすぐキッチンに向かう。
「まこちゃん、グラス冷やしてある…」
つかさはそう言って立ち上がろうとしたが、椅子を引かずに座り直した。
「なによ、マコ。気に入らないの?」
その様子に釈然としない玲は、冷蔵庫を開ける真実を振り返る。
「そういうわけじゃない」
憮然として答える真実は冷えたグラスと500㎖の缶ビールを取り出し、のらのらと席に戻った。そして織瀬を見ずに、
「開腹と違って、あんまり痛みもないみたいだから、よかったじゃん」
そう言って手酌でビールを注いだ。
「あら、そう。私はてっきり腹腔鏡くらいがいいところなのかと思っていたけれど、そうじゃない手術もあるのね」
明らかに態度のおかしい真実と、うつむいたままの織瀬を目線だけで追い、つかさと目を合わせる玲。様子がおかしい…と、おそらく同じ心持ちだろうことを悟った。
「まぁ、限られた場合…」
さらに勢いよくビールをあおる真実と、無表情の織瀬の様子からそれ以上は触れてはいけない空気が流れた。

アンコウ鍋

「…つかさの話を聞かせて」
うまい具合に玲が切り返す。
「そうだ、いつかの『次に会った時に聞いて』…は、どうなった?」
真実も一変してその話題に食いついた。
「あぁ…そうね。でも、なんの進展もないよ」
軽く身を引くようなしぐさをし、矢面に立たされたことに少々難色を示すつかさだったが、デリケートな空気を一掃するつもりで口を開く。
「ただ食事して、昔話して、」
「進展がないって、やっぱり既婚だったの?」
既婚と言ってしまって隣の織瀬が気になった真実だったが、今日はNGワードが多いことに顔をしかめてやりにくそうに背もたれに身を預けた。
「既婚ではなかったよ」
「じゃぁ…」
目を輝かせ玲がつかさを見るが、
「でもね。…再会したとき、気になる荷物を持ってたんだよねぇ。あれがちょっと引っかかってて…」
言いながらグラスに手を伸ばすつかさ。
「荷物?」
「うん。買い物袋を持っててね」
言い終えてスパークリングワインを一口飲むつかさの表情は、再会にときめいているという表情ではなかった。
「…中身は?」
当然皆が気になるだろうことを真実が急かす。
「紙おむつだった…と思う」
「おむつ? 赤ちゃんがいるってこと?」
意外な言葉に体を起こして身構える真実。
「でも結婚してないんだよね?」
先だって話を聞いていた織瀬も、興味を示した。
「うん。だから、赤ちゃん、いるのかもしれない…ってことかと」
「なんだ、それ」
「紙おむつって、介護かも知れないじゃない」
擁護するような玲の言葉に、
「そんな大きなものじゃなかった…赤ちゃんのおむつメーカーだったよ」
と、平坦に答え再度グラスを口に運ぶつかさ。
「赤ちゃん…か。身内の子かもよ?」
なんとも言いようのない真実は、再び背もたれに体を預けた。
「だから、進展はないのよ」
「志半ばにして撃沈か…? 勝負パンツの出番はなしか…?」
と、意外に真顔で突っ込む真実。
「勝負パンツ?」
先日盛り上がった話を思い返し、上目遣いでつかさを見る織瀬。
「勝負パンツなんてないよ」
「そうなの? 男と会うときはみんなちっちゃいパンツ履いて行くもんだと思ってた」
きょとんと、自分の固定観念に疑問を抱く真実。
「ちっちゃいパンツって…もうそんなの何年も履いてないよ。だいたい腰が冷えるし」
「だってデートだろ? 一応」
「そういうの期待してないもの。ていうより、面白いくらいにそっちに話が流れないのよねぇ。あたしも別にそっちはどうでもいいって感じ。でもまったくないってのも…」
「女としては、問題ね」
ズバリ言い切る玲。
「つかさはそうだとしても、男は違うだろ。いつそうなるか解らないんだから、ちっちゃいパンツ、買っといたら?」
他人事だと思って遠慮のない真実は、空笑いして少なくなったビールを一気に喉に流し込む。
「ちっちゃいパンツで恋するわけじゃないんだから…。そういうマコはもってるの?」
「必要ないもん」
「色気ないわね」
つまらなそうに言って箸をすすめる玲に、真実は「ほっとけ」と言い殴り、ニヤリとした。
「…そういう玲は、そろそろ失禁パンツじゃね~のか?」
「なっ! なに言ってるのよマコ! 失礼よっ」
カッとなってキツイ視線を送る玲に、
「わかってるよ~。5人も子ども産んでりゃ仕方ないよなぁ」
面白そうに答えた。
「ふざけないで! 私はちゃんと鍛えてるから平気よ!」
女にとって、パンツ事情はいろいろなのだ。
「いやぁね、自分が色気がないことを棚に上げて、話をすり替えないでよ」
玲は目の前の真実の足を軽く蹴り上げた。
「いって…なんだよ玲。みんな通る道だろ?」
「食事の席で話すことじゃないわね」
「まぁまぁ…」
いつものようにつかさが、程よいタイミングで仲裁に入る。
「でもそう考えると…若いうちはいいけど、年齢を重ねてからの恋愛って、いろいろ障害があるかもね」
それまで口数の少なかった織瀬がぽつりと言った。
「障害?」
「ちっちゃいパンツとか? しぼんだおっぱいとか、たるんだお腹とか…。ガードルで引き締めて会ってたら脱げなくない?」
「やめろ~! 考えたくない」
「あら、マコは脱がないんだから、いいじゃない」
真実の反応が面白くて悪乗りする玲。
「それにしたってだよっ」
「ちっちゃいパンツがよくて、浮気するのかな?」
思い出したようにつかさが続く。
「なんだよ、やっぱり旦那に浮気されてたのか?」
「そうじゃなくて。ほら、浮気…って言ったら、さ。あのコは、どうした?」
つかさの申し訳なさそうな視線を受けながら玲は、
「あのコ…? あぁ、綾香ちゃん?」
そうだったわね…と、ため息をついて見せた。
「なんだよ、だれか浮気してんの?」
「そう。綾香ちゃん…」
言っちゃまずかった?…と、少し目を見開かせるつかさ。
「綾香ちゃん?」
勝手の解らない織瀬が問う。
「うちの事務のコね…」
「え? 玲の旦那と?」
あからさまに嬉しそうな表情をする真実。
「残念ながらそこは期待外れだったわね…でも、うちだってありえないことじゃないのよねぇ…ランジェリーショップ行こうかしら」
「脱いじまったらそんなのどうでもいいだろ? 煩悩の思うままなんだから」
「マコちゃん、極端。それじゃ勝負パンツも意味ないじゃない…」
「そうか」
「そこまでのやり取りを楽しむほど、余裕も時間もないかもねぇ」
それは年上の旦那に対する言葉なのか、自分のことを言っているのか、どちらとも取れない言い方をする玲。
「電気消せばいい」
「や~だ、マコちゃんてば。…でも結局どうしたの…?」
浮気が発覚しただけで傍観を決め込むのか…と、つかさが問う。
「先月いっぱいで異動させたわよ、10月だし。ちょうどいい時期でしょ」
そう言って玲はスパークリングワインを口に運ぶ。
「どこに?」
「磨鹿(まじか)市の支店に」
「え? それって例の浮気相手がいるところ? いいの?」
そんなつかさと玲のやり取りを受け、
「なになに、話が見えないけど…?」
ビールをグラスに注ぎながら聞き返す真実。
「うちの事務所のコね…。磨鹿支店の支店長との不倫が発覚してね」
小さく溜息をつく。
「玲も人並みなことで悩むんだな」
「なによそれ」
「だっていつもなら『どうぞご勝手に』…だろ?」
喉を鳴らしてビールを飲む真実に玲は、それはそうだけど…と前置きをし、
「実はあの支店長、前科があるらしくて」
と、自分でもそうそう傍観していられないことを告げた。
「前科? 前にも浮気してるってこと?」
スパークリングワインをむせそうになるつかさ。
「そうなの。私も主人に聞くまで知らなかったんだけれどね…。別な支店でひと悶着あって今の支店に異動したらしいの。でも支店長を異動させても、また別の女の子に手を出すだけなら…支店長のところにあえて集めてみようって…」
「浮気相手を?」
「そう。元カノと、その元カノと別れるきっかけになった浮気相手と、綾香ちゃん」
「三つ巴?」
途端に目を輝かせる真実。
「不謹慎よ、マコ」
「え? 結婚してるんだよね?」
確か…とつかさが首をかしげて玲を見る。
「えぇ、元カノと浮気相手のあとに…」
「ひぇ~どんないい男なんだか…」
不謹慎などどこ吹く風だ。
「支店長はどんな感じなのよ? てか、その人事おもしろすぎる。やるなぁ旦那」
「ホント、思い切ったことするね。仕事に差し支えはないの…?」
鍋を取り分けながら問うつかさに、玲は得意な顔で、
「異動させたうえで支店長に『業績をあげろ』って告げたわけ」
とウィンクして見せた。
「へぇそれはまた、難題ね」
織瀬が真実のグラスに缶ビールの残りを注ぎながら言った。
「胃に穴が開くな、支店長」
グラスを持ちあげながら真実は「これからが楽しみだ」と言って、くくく…と楽しそうに笑った。

ベッド1

「ごめんねー。ちょっと狭いかもしれないけど、一応セミダブルだから…」
かつて継が使っていた部屋に織瀬と真実を通すつかさ。当然「シーツと毛布はきれいだから」と膝まづいて布団をパンパンと叩きながら、
「玲、ひとりじゃないと寝れないっていうし、ベッドじゃないとダメだっていうから…ここ使って」
言い殴るようにして部屋を出、そそくさとかつての寝室に向かうつかさ。ノックをし、
「…寝苦しくない?」
と、顔をのぞかせる。
「えぇ平気よ。つかさは…?」
「あたしはいつも通り下で…」
「ここに寝ればいいじゃない」
「だって、ひとりじゃないとダメなんじゃ…?」
「そんなこと言ったかしら?」
「うん。言ったよ。え…っだったら、下の布団運んで…」
そう言って「まさか」とつい先ほど出てきた部屋を振り返るつかさ。
「そうでも言わなきゃ、こんなチャンス滅多にないじゃない?」
「あきら?」
「あのふたり…どうにかなると思う?」
玲は意地悪な笑みを浮かべて見せ、キングサイズのベッドの左側の枕を叩いて見せた。
「そういうこと?」
眉をしかめて言いながら、そそくさと玲の隣に潜り込むつかさ。
「やっぱり、そうなの?」
やばいじゃん…などと言いながらも嬉しそうに玲と顔を合わせる。
「そうかどうかは解らないけれど、マコのナイトっぷりはただものじゃないわ」
と、楽しそうに話す玲。
「だよね、だよね。でも、まさか…」
正直この尋常でない妄想が現実であって欲しいわけではなかったが、当人にそれとして問いただせないことは往々にして人の興味を引くものだ。
「まぁそんな度胸はないと思うけどねぇ…」
「玲もなかなか、意地が悪いねぇ…」
「やだ、つかさだって期待してるじゃない」
くすくす…と隠れるように笑い合うふたりは、パジャマパーティーの少女の姿そのものだった。

ガラスのハート

一方、あっさりと放置された継の部屋のふたりは、
「ね、寝るか…。明日早いし」
と、なにやら気まずい空気に包まれていた。
「そうだね。9時にはトラックが来るんだもんね」
明日は継の家族の引っ越しのトラックがやってくる。織瀬と真実は荷下ろしを手伝ったあと、つかさの新居に移動し、先に行っているつかさと玲と一緒に荷解き作業をする予定だった。
「寝よう」
妙な掛け声とともに、ふたりは部屋の真ん中に敷かれた布団にお互い両側から入った。仰向けに並べられた人形のように同じ形で天井を仰ぐふたり。
気まずい…。
「2度目だね…一緒に寝るの」
さらに気まずい言葉を投げかける織瀬は、おかしい…といってくすくす笑った。
「怒るよ…」
真実にとっては思い出されたくない夜の出来事だ。
「ごめん」
「あやまるなよ、よけい惨めになる」
「ごめ…ぁ…」
「バ~カ…」
言われて「へへへ」と誤魔化す織瀬。そして沈黙。
「聞きたかったんだけどさ…」
天井を見つめながら真実が口を開いた。
「なに?」
「いや、」
「な、に、?」
今はお互い聴きにくいことも言いにくいこともあるふたり。
「あの時…。最初に一緒に寝た時、」
そう言ってしまって妙な言葉だと口を閉ざす真実。すると、
「あの時はごめん。あたし、自棄になってた」
気を使ったのか、織瀬の方が先に口を開いた。
「幸(ゆき)に相手にされない夜に、だれかと肌を重ねたかったんだ…」
「誰でもよかったのか…?」
首だけを織瀬に向ける真実。
「そんなことない。真実だから…真実なら、解ってくれると思ったの」
「それは…。っつっても、なにもできないぜ…?」
「わかってるよ。…けど、真実ならって思った。だからと言ってあたしも、なにをどうするつもりだったってわけじゃないけど、なんとなく出た言葉だったの…ごめんなさい。こんなの、自分勝手よね」
結果、あの夜は真実を泣かせてしまったのだ。織瀬なりに真実を「傷つけてしまった」と後悔していたが、なかなか言い出せなかったのだと付け加えた。
「いや。嬉しいよ、あたしを選んでくれたなら…」
「真実じゃなきゃ…ダメだったと思う。たぶん…」
「…嬉しいけど、どうにもできないよ」
「わかってるよ…」
やわらかな織瀬の言葉に、真実は顔を天井に向け、
「はぁ~…。ずっと気になってたんだ。ひょっとしたら織瀬は、あたしを気味悪がってるんじゃないかって…」
安堵して顔を両手で覆った。
「なんで? たよりにしてるよ、すご~く。じゃなきゃ…あんなの、持って行かないし」
「あんなの?…あぁ、バイブか?」
「そう。あれ、どうした?」
「需要のある所に寄付した」
「寄付? やっぱり、使う人いるんだね」
問題の品物を送りつけて来た親友『第九のオスカル』こと〈立花萌絵〉も「自分のはある」と答えていたことを思い返す織瀬。
「意外といるんだよ…知らないだけで…」
真実は真実で、自分の周りにもそういう人間がいるとは言えずに考えていた。
「そう言えば、立花さんに会ったんだ…偶然」
「もえもえに? どこで?」
どこで?…と問われ、真実はどうしたものかと考えあぐねていたが、
「なんであんなもの送ったのか聞いてやるつもりでいたんだけど…こっちもそんな余裕がなくて…」
そう言って真実は「アンドレ会」の話をぼつぼつと語り始めた。
「そんな会があるのね…玲は知ってるの? その、如月さんのこと」
「あたしもびっくりだよ。玲は…玲も多分知らないんじゃないか?」
快進(回診)のオスカル』こと〈如月遥〉は、かつては玲の取り巻きだったとはいえ、一番関りが少ない相手だった。
「だよね…知ってたら、言うよね? あたしたちには言わなくても、真実には…」
「織瀬。正直に言うから、気持ち悪いと思わないで、聞いてほしい」
「うん…?」
「たぶん、あたしは、織瀬が好きだ。だからと言ってどうにかしたいってわけじゃない。自分のそういうの…ずっとおかしいとは思ってたけど、そういう気持ちに気づいたのが最近で…どう表現したらいいのか、とにかく今の自分を表現できる言葉を知らない」
「うん」
「だから、これまで通りでいてほしい」
「うん」
「ありがとう」
「こちらこそ。ありがとう」


まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します