バラ一凛

小説『オスカルな女たち』36

第 9 章 『 結 論 』・・・4


     《 ブレインストーム 》


ぴんぽ~ん…♪   
「いらっしゃい…」
「…早かったかな」
「そんなことないわ。ごめんなさいね、定休日なのに急に呼び出したりして…」
「ぅぅん、全然いいんだけど…珍しいね、玲があたしに用なんて」
「えぇ実は…私じゃないのよ」
「え?」
「まぁ。入ればわかるわよ…」

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30分前・・・・。
「明日香さん。そろそろ、いいんじゃないかしら」
高層マンションの最上階、広いリビングのソファに対峙する玲(あきら)と『巻き毛のオスカル』こと義姉の〈御門明日香(みかどあすか)〉。
「なにがですの?」
優雅にお紅茶をいただきながら、ピリピリと張りつめる空気が漂う。
今日は第3水曜日、明日香の自宅ともいえる料亭『みかど』の月に1度の定休日であった。明日香はいつも通りに早朝に出掛けて行き、子どもたちを学校に送り出したあと再びここへ戻ってきたのだ。
「いい加減、子どもたちも不満を漏らしているんじゃないのかしら…?」
ティーカップをテープルに乗せ、ゆっくりと瞬きしながら明日香の様子を窺う。
「子どもが起きている時間には家にいるようにしていますし、特に問題はありませんわ」
(そういう問題ではないと思うんだけれど、ね…)
姑がいたのなら即離縁されそうなこの奇異な生活だが、幸い明日香の夫は三男坊で、うるさく騒ぎ立てる者の存在もない。だからといってこの所業が許されるものでもないだろう。
「お出かけの予定などは、ないのかしら?」
「あら、玲さんと今こうしているじゃないですか」
(それは予定とは言わないわね…)
空気が読めないわけでもないのにしらを切る明日香は、玲の顔も見ずに続ける。
「平日ですし、子どもたちも学校…」
「もう、そんな理屈は通じなくてよ」
少し語気を荒げる玲。
「理屈?…そんなつもりありませんのに」
静かに受け答えする明日香だが、かすかに口元がひくついているのを見逃さない玲は、
(いつまでその冷静さを保っていられるかしらね…)
小さく溜息をつき、話を続けた。
「そこに私の予定は加味されていないのかしら…」
「あら、ご予定がおありでしたらどうぞ遠慮なさらずに…わたくしは」
言いながらティーカップをテーブルに置く明日香。
「…誤魔化さないでよ」
半月以上になる明日香の滞在に、ほとほとうんざりしている玲は「今日は遠慮しない」と目を細めて見据える。
「誤魔化す? 私そんなつもりは…」
「明日香さん。お兄様、呼んだわよ」
「え…。え? なんてことなさるの玲さん、まだ心の準備が…!」
たちまち明日香の表情がこわばる。
(ほらね…)
なにも考えてやしないじゃない…とそう嗜めて、
「あなたの心の準備が整うまで待っていたら、いつまで経ってもお帰りにならないでしょう? いったいいつまでそうしているおつもりかしら? まさか、ここに住んでいるつもりじゃないでしょうね」
あくまでも冷静に、だが声の調子は変えずに明日香を見据える。
「わ、私だって、考えてないわけじゃ…」
「そう。なら、今後どうするつもりかおっしゃって」
当然、言葉が出るはずもなく、
「玲さんのいじわる…」
「拗ねないでよ」
「す…拗ねてなんかっ」
ぴんぽ~ん♪
チラリと時計に目をやり、
「来たみたいね。…時間ぴったり」
意地の悪い目で明日香を見ながら立ち上がり、玄関に向かう。
「お兄様、まさか手ぶらじゃないでしょうね…」
ぁ、玲さん…!
すがるように呼び止める声も空しく、明日香はその場に小さくなっておとなしくしているしかなかった。
隠れようにも他人の家でうろうろするわけにもいかない。自分が使っているゲストルームに逃げ込みたくても、たった今玲が出て行ったドアを出て正面に位置する玄関前を横切らねばならないのだ。敵(夫)に姿をさらしてまで逃げるような、そんなみっともない真似はさすがにプライドが許さなかった。
気を落ち着かせようと紅茶の香りを吸い込み、一気に喉に流し込む明日香。
「ふぅ…」
一方の玲は、電話連絡の際、短いやり取りの中いまいち乗り気ではなかった兄を思うと、ドアの前でどんな顔をして立っているのか、明日香以上に緊張を感じずにはいられなかった。
「頼んでおいた〈蒸し物〉持ってきてくれた?」
気を紛らわすようにそう言いながら玄関ドアを開けると、見たことのない兄の姿に玲は目をむいた。
「まぁ…」
「あぁ…」
照れくさそうにする兄の姿を前にどんな表情で出迎えたのか、自分でも想像がつかない玲だったが「いらっしゃい」と述べた口元は多少引きつっていたに違いなかった。
「こっちよ…」
明日香のいるリビングに促し、兄〈聖(ひじり)〉を引き入れた。
「聖さま…」
急に立ち上がり委縮する明日香は、軽い立ちくらみにバランスを崩す。
「明日香…」
すぐさま手を差し伸べる聖だが、パシリ…と、手のひらを返されてしまう。
「あ…ごめんなさい。平気ですわ」
触れた手を押さえて顔を背ける。
毎日同じ職場にいるとはいえ、今の明日香の心境からして厨房と店の中では顔を合わせることはあっても意識して会話をする機会もなかったのだろう。ふたりのぎこちない態度が妙に初々しい。
と、聖が手を伸ばした際、床に落ちた花束が目につき、
「それ…」
板前である自分の夫の、自宅でも滅多にお目にかかれない私服に、心ならずもときめきながら、さらに自分の為であろうか大きな薔薇の花束に自然と口角が上がってしまう明日香。
すぐさま顔を伏せて誤魔化すも「お兄様にもそんな甲斐性があったのね」という玲の言葉に、ますます顔を紅潮させる明日香。
「玲さん…」
それ以前に、緊張からなのか、明日香は体に妙な火照りを感じていた。
「からかうなよ、玲」
そう言いながら自身も、その薔薇を拾い上げては持て余している様子の聖。
「あら失礼。とにかく、ふたりで話し合って」
玲はとにかくおかしくて仕方がない。
え…
まさかふたりきりにされるとは思ってもみなかったのだろう。重なる言葉と同時に玲の顔を凝視する。
「なによ、当然でしょう? 子どもじゃないんだから」
世話の焼ける人たちね…と、キッチンに向かう玲。だが、
「玲さん一緒にいてくださるんじゃないの?」
すぐさま明日香が、玲の足を止めた。
「お兄様だって…それなりの覚悟をして来られたのでしょう…? 明日香さんがただ黙ってついてくるなんて、思っていないわよねぇ?」
ドアの前で一歩も動けずにいる聖は、ここへ来ることさえやっとだったのだろう。当然のことながらなにも反論してはこなかった。
「私がいたらお兄様が気まずいでしょう…?」
確かに、妹の前で家出した妻を口説くなど、これ以上の恥辱はない。まして普段から寡黙な聖は、玲どころか明日香にだって話を切り出せるのかすら怪しいものだった。
そんなのっ、関係ありませんわ。せいぜい気まずくなさっていればよろしいのよ」
そう言って語気を荒げてそっぽを向く明日香は、明らかにいつもと様子が違っていた。
「私だって居心地悪いわよ」
「私に味方してくださらないの…?」
すがる明日香の言葉に、玲は振り返り、
「味方もなにも…。正直、私はどうでもいいわ」
すっぱりと言い放ち、ちらと兄を見るも目を背け、
「明日香さん。何年お兄様の妻をなさっているの…! ここにこうしてあなたがいることさえ違和感があるのに、更にお兄様がいるこの事態、私には気持ちの悪い状況でしかないのよ。御門の家で、これまであなたにだってほんの数回しか会えていないことを思えば、いい加減私の立場も理解できるでしょう?」
とうとう本音を吐いた。
料亭を営む聖は、生真面目だけが取り柄でほとんど家を空けたことがない。まして兄妹愛の希薄な妹のマンションを訪ねるなど思いもよらないことだろう。それを踏まえれば玲とて、年に数回しか顔を合わせない兄を、自分の家に呼びつけるだけでも大変勇気のいる行動だったのだ。
「そんな…」
「だから拗ねないでよ」
「拗ねてませんわっ!」
普段はおっとり構えている明日香も、気を許している玲には遠慮がない。
「とにかく、私の仕事はここまでよ。いつまでも立っていないで座って、お兄様。その薔薇も私のためのものじゃないのならさっさと明日香さんに渡すなりしなさいな…」
「あ、あぁそうだね…」
こうなってしまえば聖も黙って従うしかない。
「明日香さん、薔薇に罪はなくてよ」
そう言われてしまうと明日香も、黙って花束を受け取るしかない。
「じゃ、座って待ってて。お兄様も紅茶でよろしいかしら」
「あ、あぁ」
「玲さん。私にもお願いします」
気まずいままふたりは、ソファに隣り合わせて腰掛けた。
聖の手土産をダイニングテーブルに乗せ「大丈夫よ、助っ人呼んだから…」と、玲は不敵な笑みを浮かべた。
「助っ人?」
「だってあなただけじゃ話もできないでしょう…? お兄様も」
そう言ってティーセットを持ってソファに戻る玲。
「真実(まこと)さん、ですの?」
向かい合わせに腰掛けるのを待って、不安気に明日香が口を開いた。
「なにが?」
「助っ人って、真実さん…?」
「いいえ、違うわ。マコがそんな繊細な話について行けると思うの?」
「ですけど…」
「大丈夫よ。たぶん、一番の適任者だと思うわ」

オレンジのバラ

ほどなくして、再びインターフォンが鳴り「時間通りね」と玄関に向かった玲は〈助っ人〉を連れてリビングに戻って来た。
「あ…西園寺さん、じゃなくて…。ぇと…?」
なんて呼べば…と確認する前に、もうひとり気になる人物が目に入る。
「兄よ」
「え…? お兄さん…? えぇ!?
「えぇ、明日香さんのご主人、聖お兄様よ。…お兄様、こちら〈樋渡織瀬(ひわたりおりせ)〉さん。私が今いちばん親しくさせていただいているお友達のひとりよ」
玲さん…!
普段から『親友』だと豪語する明日香にとって、その言葉は聞き捨てならないといった様子だ。
「妬かないの」
さらりとかわす玲は、思いついたように、
御門さんっていうのもおかしいわねぇ…ふふふ」
と、ひとり楽しそうに笑った。
「初めまして…」
そう聖に挨拶する織瀬に、
「え…と…。七浦…さん?」
自分の記憶を確認するように、明日香の脳裏は必死に高校時代の織瀬を想い出そうとしていた。
「そうよね、そうなるわよね、ふたりとも!」
そんな様子から織瀬と明日香を交互に見て、胸の前で軽く手を合わせる玲。
「まぁ…」
苦笑いの織瀬。
「明日香と織瀬でいいんじゃないかしら? 座って…」
「明日香さん」
「織瀬、さん」
「ふたりとも、初めましてじゃないんだから…」
言いながら向かい合わせのソファに座るよう促す。
「いや、ほぼ『初めまして』でしょう? 話したことないんだから…!」
助けを求めるべくキッチンに向かう玲を負う織瀬。
「そ? でも、同級生なのだし。この際、その辺の自己紹介めいたところははしょって。織瀬はハーブティでいいかしら…?」
そう言い捨ててキッチンに入る玲に、
「えと…。今日呼ばれたのは?」
状況が理解できない織瀬は玲の背中に訴えるが「助っ人って織瀬さんですの?」という明日香の言葉に振り返る。
「助っ人?」
「そうよ、織瀬。…織瀬が、明日香さんの助っ人よ」
そう振り返り、厳しい目つきで明日香を見た。

・・・・・・🐥

そんなふたりを交互に見遣る織瀬には、
「え? よく解らないんだけど…」
当然のことながら意味が解らない。
玲以外の3人は、借りてきた猫のようにおとなしくソファに並べられ、自分の置かれた立場を模索する。3人分のお茶を用意し、
「さ。本題にはいるといいわ」
そう言い残して玲は忙しく動く。
「私は失礼するわね、ちょっと介人(かいと)が気になるから。昨夜から微熱が出てるのよ…」
ダイニングテーブルに載せられた聖の手土産をふたつに分け、小さな紙袋を手に、ソファには座らずに3人を見下ろす玲。
「本題って…?」
自分の顔を窺う織瀬に「明日香さんの家出の事情は話したわよね?」と前置きし、
「いい加減この辺ではっきりさせて、元のさやに納まって欲しいのよ、私は」
と、続けた。
「それは解るけど…?」
どうしてあたし?…と不思議顔の織瀬。
「でも、明日香さんは自分じゃ動こうとしないし、寡黙なお兄様はいつまでも受け身の体制を崩さないし、手助けしてさしあげようと思って…」
「それで織瀬さんが、一番の適任者ですの?」
少々鼻息も荒く、珍しく玲にきつい視線を投げる明日香。
「えぇ。さ、ぶちまけてしまいなさいな、明日香さん。そろそろ頭も体も熱くなってきた頃じゃなくて?」
「え?」
熱くなってきた…という玲の言葉を受け、聖は慌てて目の前の紅茶に手を伸ばし鼻をひくつかせた。
玲…!
「なによ? ただのアップルティーでしょ」
そう答える玲の言葉を待たずに聖は「明日香…大丈夫か?」と、恐る恐る明日香の顔を覗き込む。
「なにがですの?」
2杯目のアップルティーを半分飲みきったばかりの明日香は、すっかり目が座っていた。
「なにを考えて…」
そう自分を見上げる聖の厳しい目に玲は、
「えぇ、カルバドスを数滴。そうでもしないと進まないでしょう」
「だからって…」
明日香はまるっきりの下戸だった。アルコールならどんなものでも少量で酔える。
「細工は流々…。織瀬、恩に着るわね」
そう言い残し、玲は無情にもリビングを後にした。
「え、ちょっと、玲…?」
腰を浮かせたところで玲が戻ってくるはずもなかった。
「あぁ…」
ついため息が漏れてしまう織瀬。
それを受け「すみません。玲のやつ、なにを考えてるのか…」と、すまなそうに聖が口元を歪めた。
「あ、いえ…」
かといってこの状況で「じゃぁ、あとはおふたりで…」というわけにもいかなそうな雰囲気だ。しかし、
「ご迷惑でしょう…もう私共は失礼いたしますので…」
そういって立ち上がり、明日香の腕を掴む聖。だが、当然のようにその手は振り払われ、
「帰りませんわよ、私」
と、憮然とした態度の明日香は既に立ち上がれない状況にあった。
「聖さま、迎えにいらっしゃっただけで解決できるとでもお思いですか」
そういい放って背を向ける、そんな姿さえ頼りない。
「明日香…。ここじゃなくても話はできるだろう」
どうやら体裁を気にしている様子の聖に、
「話ができていたなら、最初から家出なんてしませんわ」
と、拗ねた様子で頑として譲らない明日香。
「あの…。玲がわたしを呼んだのにはそれなりの理由があるのだと思います。ここで放置されるとは思いませんでしたが…でも、」
ほぼ初対面の明日香と、まったく初対面である聖とを目の前に、玲は織瀬になにを期待しているのか、なんとも無謀でいきなりな顔合わせだった。

チーズケーキ3

「驚きだな…」
言葉を続けようとした織瀬に、意外にも聖が反応した。
「え?」
「そんな言葉。玲を擁護するような、そんなことを言うような友人がいようとは…」
それは決して皮肉ではないのだろうが、その一言で、これまでの玲の実家家族に対する頑なな姿勢が読み解けたような気がした織瀬だった。
「えと…」
どうしようかな…と織瀬が口を開こうとしたその時、
「織瀬さん! 私の味方なのでしょう?」
すっかり目の座った明日香が細目で見据えてくる。
「エ…」
「助っ人なのだから、味方でしょう…?」
「ぁ…。この場合は中立な立場かと…?」
「あぁ…そんな…」
大げさに落胆して見せるのは、きっと酔っているからなのだろう…と、織瀬は苦笑いで返す。
「おふたりは…まだ話し合いもされてないのですよね…?」
なんとなく、明日香では「話にならなそうだ」と思い、視線を聖に向ける織瀬。
「話し合いもなにも、明日香がなぜ出て行ったのかも把握できていない」
「なんですって! 聖さま、それはあまりに開き直りすぎじゃありませんこと…!」
背を向けていた体を傾け、声を裏返して訴える。
「開き直りって、明日香…」
多少引き気味の聖に、なるほど助っ人は必要だ…と、今度は心の中で溜め息をつく織瀬。
「明日香さん目線でいうと、浮気された…と思ってらっしゃるようですよ。わたしたちの同級生の…」
「若林舞ですわ!」
「そう、その若林さんと…」
この〈若林舞〉もまた、在学当時は『小悪魔オスカル』の異名を持っていた。
「誤解だ。というより、全く身に覚えがない」
「おふざけもいい加減になさって! 証拠は挙がってますのよ」
過去の記憶の中にある『巻き毛のオスカル』らしからぬ言動に、織瀬はたじろぐ。だが、まったく状況を把握できていない聖と、それを受けて「しらを切っている」と決めてかかり捲し立てる明日香の姿に、つい最近の自分と夫の幸(ゆき)との姿が重なり、そんな明日香の態度がかわいらしいと思うのだった。
「まぁ、明日香さん。順を追って話しましょう。…ちなみに証拠って…?」
織瀬は乗り掛かった舟と腹を決め、優しく問いかけた。
「噂は…。噂だけなら、聞こえないふりをすればよかったのですわ…」
そうして明日香は、静かにぽつぽつと語り始めた。
「噂?」
「中庭の…母屋に通じる渡り廊下のところで…抱き合っていましたわ」
「だから、そんな覚えはない…! いつの話だよ?」
苛立ちを隠さない聖の態度に、一瞬怯みながらも、
「まだ言いますの? 先月末の金曜のことですわ!」
それはちょうど、明日香が家出した日のことだった。
「そんな前のこと覚えてないよ…」
「だから、如月総合病院の団体予約のあったあの日よ! 私、あの日初めて遥さんに彼女、若林さんの素性を聞かされて…」
舞を〈小悪魔〉と言わせるだけの、彼女についているよくない噂は未だ健在だったというわけだ。
「あなたが板場を出た後、船盛の桶を取りに行った彼女のあとを追って行ったのですわ」
「如月? 船盛…。あぁ、あれか」
「『あぁ、あれか』ですって!? えぇえぇ、それですわ。ほらごらんなさい、身に覚えがおありじゃないですの!」
「そんな…! あれをそうだというのなら、誤解だ。よろけたところを受け止めただけだろう」
「えぇ、そうでしょうとも。彼女はそういうことが得意だそうです」
「なら…」
「でも! そんなことを言っているわけじゃありませんのよ、聖さま。あの時、私が『なにをしていたのか』と聞いた時、誤魔化したじゃありませんか! それって、他になにかあるということじゃありませんこと…?」
「そんな無茶苦茶な…」
「だって聖さま…だって、この頃…。この頃の聖さま…は、冷たいじゃありませんの!」
「なにを言ってるのか解らないよ」
「解らないのは私ですのよ! なぜ! なぜですの! なぜ…なぜ…」
どうにもその次の言葉が言い出せないらしく、明日香はとうとう泣き出してしまった。
「…きっと。お兄様は、甘えてらっしゃるんです。明日香さんの気持ちに」
それまで黙って静観していた織瀬が口を開いた。
「甘えてる…とは」
「明日香さんがお兄様を好きだということは、高校時代から有名でした。それほど親しくもないわたしの耳にも届いてくるほどに。…下心で玲に『かしずいてる』とあらぬ噂を立てられていたこともあります。当然明日香さんの耳にも噂は届いていたでしょう。もちろん明日香さんにそんな心持ちがあったとは思いません。でも女子高の中でのそんな噂は、本来の人格を否定しかねない。それでも…明日香さんは誹謗中傷にも負けず、卒業後だって『上の大学にすすめ』というご両親の反対を押し切って、お兄様の修行先にまでついて行ったんでしょう? お兄様だって気づかずにいたわけじゃないと思います。…どういう経緯でご結婚に至ったのかは解りませんが、そんな一途な明日香さんを受け入れたのなら、今どんな気持ちを抱えているのか容易に想像つきませんか?」
初対面の、妹の同級生の言葉がどのように響いているのかは解らない。なにも答えない聖に対し織瀬は「生意気なことを言ってすみません」と頭を下げ、泣きじゃくる明日香に、
「明日香さんは、どうしたいの? どうしてほしいの?」
と、優しく問いかけた。「なぜ?」と、何度も繰り返す明日香の真意が今の織瀬には痛いほどに伝わって来たからだった。そして、
「わたくし…。私は…もっと、愛されたい…」
と、しゃくりあげながら答える明日香に「やっぱり」と、優しい目で答えた。
「やっぱり? なにが君に解るというんだ? 僕たちの結婚生活のなにが君に解るというんだ」
少し不機嫌な口調の聖に、
「もちろん、全部が解るというわけではありません。でも『愛されたい』という気持ちは痛いほど解ります。お兄様は、明日香さんに、ご自分の気持ちを伝えたことはありますか?」
「なにを…そんな」
「女は、いつでも不安なんです。たとえ相手を信頼していても、ほんの少しの言葉ですぐに気持ちがしぼんでしまう。自分が至らないのか、魅力がないのか、なにか気に障ることをしてしまったのか…と、簡単に少女のような気持ちに戻ってしまうんですよ。そんなとき、ひとこと優しい言葉をかけてもらえるだけで、それまでの不安なんてチャラになってしまう。なにか特別なことをしてほしいわけじゃない、ちょっと気にかけてもらえたら…ほんの少しでも寄り添ってもらえたら、それだけでよかったのに…」
言いながら織瀬は、自分こそが『優しい言葉』を欲していたのではないか…と気づいて、語尾の言葉に詰まってしまった。織瀬さん…という明日香のすがるようなまなざしに、
「ぶしつけなようですが…。ひょっとして…その、夜…。ぇえーと、夜のスキンシップが足りないということはありませんか? 違っていたらごめんなさい」
言い殴り、織瀬はすぐに頭を下げた。
「なにを…!」
語気を強める聖に、怒りを買うのを承知で放ったひとことだった。だが、意外にも、反応はすぐに出た。
お、織瀬さん…!
酔いのせいとは明らかに違う、明日香の顔面が紅潮していく様子が見て取れたからだ。うすうすは気づいていたのだが、玲が自分を呼んだ本当の理由はそういう事情があるのではないか…と織瀬は察したのだった。
織瀬は申し訳なさそうに上目遣いで、聖と明日香を交互に見た。
「あ…明日香…?」
「わ、わた…わたくし。私がおかしいんですの? 織瀬さん、私、私は…!」
先ほどまでさめざめとしとやかに泣きそぼっていた姿とは打って変わり、両手で覆っても足りないくらいに大粒の涙を流し、このうえもなく自分を恥じている子どものような明日香がそこにあった。
「あ、…明日香?」
つられて聖も顔を赤らめる。
「いいえ。おかしくありません!」
織瀬は聖に言葉を遮られないよう、少し強い口調で言い放った。
「え…」
「おかしくない、おかしくないのよ、明日香さん。自分を恥じることはないの! 愛しているんですもの、触れ合いたいと思うのは当然のこと。だからといってやたらと女の口から『抱いてほしい』だなんて言えない。…ぁ、そういうひとも中にはいるかもしれないけど、でもやっぱり、そういうことは…。女の口からは、言えないんです。だから、明日香さんは…『愛されたい』とおっしゃったんじゃないですか…?」
「そんな話、こんなところで…」
「じゃぁ、どんな所ならいいんですか? 夜のことばかりじゃないんです、お兄様。ちゃんと、明日香さんが意思表示できるような時間が、おふたりの間にあったんですか? だったらなぜ、明日香さんは家出したんですか! 普通家出って言ったら、家のことなんかほったらかして姿消しますよ。それを明日香さんは、毎日早朝に起きて、世話になってる玲の家で朝食を作り、そして自宅でまた子どもたちやあなたのために働いて、仕事をこなして生活に支障がないようにしてる。そうまでしてあなたに迷惑をかけまいとしているそんな明日香さんに、労いの言葉のひとつもかけてあげたことがおありですか? 当然と思ってるんですか?」
「あ…」
明日香はなにも言えはしなかったが、瞳を潤ませ安堵の表情を見せた。
「そんなことはない…いつも感謝している、だけど。明日香は、なぜ自分から言わない」
「言えませんよ。言えるわけないじゃないですか。あなたのために日々を過ごす明日香さんが、あなたの負担になるようなことできるわけない。いつでもあなたが暮らしやすいよう、働きやすいよう、それしか考えていない明日香さんが、不満を言えるわけがない。そしてあなたはそれに甘えてた。だから余計に言えなくなった、そういうことじゃないんですか」
織瀬は少々熱が入りすぎたようだ。
「ぁの…おりせさん…?」
「女は単純だけれど、そんなに簡単じゃありません!」
「織瀬さん!」
「はっ。・・・・すみません、あたし…」
今度は織瀬が頬を紅潮させた。
「違うんですの…織瀬さん。ありがとうございます…そんな風に、私の言いたいことを言ってくださって、ほんとうにありがとう」
そう言って明日香は、涙を人差し指と中指の腹で静かにぬぐった。
「聖さま…。ほんとう、ですの?」
「え…」
警戒の目を向ける聖。
「感謝してるって、本当ですの?」
明日香は居住まいを正して聖に向き直る。
「ぁ、あぁ、本当だとも。あたりまえじゃないか」
ほっとして顔を歪める。
「私、嬉しいですわ」
未だ恋する乙女のように、明日香はそう言って頬を両手で支えるようにして小さく微笑んだ。
「そんな、そんなことだけでいいの?」
織瀬は拍子抜け…とばかりに、つい口に出してしまった。あたしの力説はいったいなんだったのか…と。
「今は、それだけで充分です」
そう頬を染めて答える明日香に、ばかばかしい…とは言えなかった。〈夫婦喧嘩は犬も食わぬ〉を目の前で見た瞬間だった。
ふと、視線の先の扉が目につき、細い隙間から玲が手招きしているのが見える。
「ぁ…、ちょっと、失礼します」
そんな言葉などふたりの耳に届いているのかさえ怪しいものだが、つき合ってられない…といった感じで織瀬は、自分のバッグを持って立ち上がった。
「玲。ちょっと悪趣味なんじゃない?」
なんなのこの茶番…と、扉を出るなり織瀬は明日香に抗議した。
そんな織瀬に「まぁ、こんなものかしら」と玲は言い、
「ありがとう。本当にありがとう。これで明日香さんも家に帰ると思うわ。見た? あの花束…ロマンチストでもない、無粋極まりないあの聖兄さまが、薔薇よ」
くすくすと笑って見せる玲に、
「玲…? あたしひとりバカみたいなんだけど…」
と、冷たい視線で返した。
「悪かったわね、織瀬。でも、本当にありがとう。助かったわ。私ひとりでは、あぁはお兄様も感情をあらわにしたかどうか…本音が見えないものほど怖い物はないわ」
「わかるけど」
「…実はいつかの女子会の時に、明日香さんが夜の不満を漏らしていてね。今回の家出はきっかけに過ぎなかったのだろうと思っていたから…」
言いながら数か月前の居心地の悪い『女子会』の様子を思い返す玲。
「まぁ、なんとなく…そんな気はしたけど」
「でしょ? 織瀬なら理解してくれると思っていたわ」
さすが私…と自画自賛の玲。
「それにしたってよ、初対面のお兄様の前であんな話、つい興奮して…絶対嫌われたよね、あたし。もう会うこともないだろうけど」
というよりむしろ、もう2度と顔を合わせたくない…と思う織瀬。
「そんなことないわ、織瀬に感謝するはずよ。お兄様も引っ込みがつかなかったんでしょうよ、すぐに戻ると高を括っていたのでしょうから。あのふたりも、これで少しは砕けた関係が築けると思うわ」
「いまさら? だって、夫婦じゃない」
少し大げさに感じる織瀬だが、
「そう思う? そう言い切れる?」
含んだ言い回しをする玲は、その一言で織瀬に白羽の矢を立てた理由のすべてを語ったも同じだった。
「いつまで経っても『聖さま~』の明日香さんよ? 夫婦だからこそ言えないことがある…そうじゃなくて?」
「玲にはかなわない…」
少し拗ねた言い方をする織瀬に、明日香に言い放ったように「拗ねるな」とは言わず、
「怒った…?」
と、気遣いの言葉をかけた。
「ぅぅん。…あたしも、お礼を言うべきなのかなって、思った」
「そう? この埋め合わせは必ずするわね」
「そんなのいいよ。役に立てたならよかった」
「これ、お兄様の蒸し物…おいしいわよ」
「え~ありがと。なんかお土産貰っちゃって、かえって悪いな」
「そんなことないわ。これはお兄様からのお詫びと受け取ってもらっていいわよ。無骨でなかなか失礼な男だったでしょ」
そう言って笑う玲は、なんだかとてもかわいい妹の顔をしていた。
「そんなこと。ふふ…ありがと、玲」
そう笑顔で答え、織瀬は玲のマンションを出て行った。

カラー(大)

エレベーターの中、織瀬は思いついたようにスマートフォンを取り出して通話履歴をタップする。
上から〈水本玲〉…〈高鷲つかさ〉…〈吉澤真実〉…
更に〈高鷲つかさ〉…〈吉澤真実〉と続いて
〈樋渡頼子〉…〈guest garden〉…
再び〈吉澤真実〉…〈高鷲つかさ〉…〈guest garden〉…
そして無記名の携帯番号と並んでいた。
織瀬はしばらく画面を眺め、エレベーターが1階に着いたところで無記名の電話番号をタップして歩き出す。

Pu. Pu. Pu. Pu…. Pu. Purr… Pu. Purr…
『…はい』
「もしもし、織瀬です・・・・」




まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します