金魚__2_

小説『オスカルな女たち』7

第 2 章 『 核 心 』・・・3


   《  今さら  》

「なれそめ?」
「そう。聞いたことなかったなと思って」
タクシーが来た…といって帰っていく織瀬(おりせ)と真実(まこと)を見送った後、なんとなく流れでその場に残ったつかさだったが、考えてみれば玲(あきら)とふたりきりになるのは初めてではなかっただろうか。
多少の居心地の悪さを感じながらも、妙な覚悟があることも確信していた。
「恋愛結婚だったわけでしょ? 一応…」
玲にとっては何気ない世間話のつもりだったのだろう。だが。
つかさは食器の後片付けを手伝いながら、不意に投げかけられた質問に戸惑いを隠せずにいた。磨き上げられた黒光りするテーブルに映る自分の顔をみつめながら、適当な言葉を探している。
「…まあ。一応…? ね…」
一応…と答えながら、つかさ自身は納得してはいない。それはもう何年も前から自問自答してきた解けない問題。これが数学だったなら夜を明かしてでも夢中になって答えを求めただろうに、こればかりはそうは行かなかった。あの頃も、今も、未だ納得する結論を得られてはいない気がするのだ。
「年上だったわよね? うちほどじゃなくても…」
玲とその夫〈泰英(やすひで)〉とは11歳の年の差だった。
「うん。むっつ、かな…」
あらためて夫〈吾郎〉のことを口にするのは、遠い昔を思い出すような、そんな錯覚さえ覚える。
歯切れの悪い返事に、違和感のないよう微笑んで見せるつかさ。いつの頃からか、唇の端だけで応える愛想笑いが得意になっていた。そんな自分に気づくとき、つかさは無性に虚無感に囚われる。いやな癖がついたものだ、と。
「それにしても、マコは紳士ね。すっかり織瀬のナイトじゃない」
ふたりの使った食器を片付けながら、玲はつい先ほど出て行ったふたりのやり取りを思い出して笑って見せた。
「言えてる」
まるで恋人のようだ。
「送りオオカミにならなきゃいいけど…」
そう小さくつぶやく玲に「え? なんて?」と顔を向けるつかさ。
「最近のふたり、よく一緒にいるなとは思っていたのよね…それなりに理由があったわけなのね」
(織瀬とマコちゃん…?)
「織瀬も、あなたもね」
(…じゃなく、て、あたしと織瀬か)
「あぁ…そうね…」
少し喉の奥に引っかかるものを感じていたが、そんな疑問は次の玲の言葉にかき消された。
「見合い、じゃないわよね? それなりの出会いがあったわけでしょう?」
食器を受け取りながら、流し台で忙しく手を動かす玲。ひとつひとつ遠慮がちではあるがストレートな物言いに悪意は感じられない。が、答えに詰まることに変わりはなかった。
「それは…」
(そうだけど…)
玲から固く絞った布巾を受け取り、気もそぞろなつかさは逃れるようにテーブルに戻る。
「正直、よく解らないのよ」
つぶやくように発する「よく解らない」…それが本音だ。
つかさは普段から自分の話をしたがらない。それは必要に迫られていたからとはいえ、夜の仕事に長く関わっていたことが自分の人生の暗部として他人に認識されるのを懸念してのことでもあった。だが、ここではもう取り繕わなくてもいいのだ。
(話してみようか…)
誰にも話したことのない本音を・・・・。
ただの通りすがりのような出会いが、なぜこんなにも自分を苦しめているのか。自業自得だと言われればそれまでだが、やり過ごせなかった自分を今さら悔やんでみても、状況が好転するわけでもない。
それにしてもこうも違和感しか湧いてこないのはなぜだろう。
(自分で決めたはずなのに…)
恥、と感じているのだろうか。自分の結婚生活を…?
自慢できないまでも、たとえ今うまくいっていなかったとしても、別に問われて困るような話題ではないではないか。そう思いながらも言葉にならない。
つかさはしゃがみこんでテーブルを拭きながら、逃れようにもこの空間じゃどうあっても話さずには帰れないだろうと悟った。
「玲は?」
質問に質問で返すのもどうかと思ったが、答えに詰まったときにはどうにか相手の意見に答えを見出すしかない。この切り返しは人づきあいの少ないつかさの体験からなる苦肉の策だった。
「私?」
玲は顔を上げ、
「私は、キャバクラ通いの主人に拾われたのよ」
あっけらかん、だが突っ込みにくいことをさもあらんと言い放ち、玲は再び手元に視線を落とした。
「拾われた…って」
思わずテーブルを拭く手が止まる。当の玲にとって「過去は過去」と、それほど気にも留めていない様子が伺えるが、次の言葉を躊躇させられる内容に二の句が出ない。
玲はやかんに水を入れ、火にかけながら続けた。
「羽子が生まれて、里子に出せって迫られて。それで家出したじゃない? 家出したところで行くところがあるわけでもなかったし、友達もいない。仮にいたとして、私の浅いつき合いじゃすぐに見つかってしまっただろうし…」
と、少し考えるようなしぐさをし、
「マコのところでもよかったんだろうけど…頼るつもりもなかったし、当時はマコも学生だったしね。それに、意地もあったから。だからと言って羽子の父親は当てにならなかったし…? それよりもなにより、あのときは子どもを取られるんじゃないかって、そっちの方が心配だったのよ」
確かに、父親は頼れなかっただろう。
玲の長女の父親は地方の代議士の息子でそれなりの身分ではあったが、いろいろと悪い噂の絶えない身の上で当時は警察に追われる立場にあった。そんなところでは頼るどころか、子どもを奪われかねないと心配するのは当然のことだ。
「いろいろ大変、だったのね…」
それはすべて再会する前のこと。なんとなく聞かされてはいたが、玲の口から直接聞くのは初めてだ。
「もう、昔のことよ」
高校在学当時、いつも取り巻きに囲まれていた華やかな姿からは到底結びつかない暮らし向きだ。しかし出会いはどうあれ、見た目も温厚で優しそうなご主人と、5人の子どもたちに囲まれ、穏やかな顔をしてキッチンに立っている目の前の主婦からは、そんな後ろ暗い過去など微塵も感じられない。ましてや高級マンションの最上階で裕福に暮らしていれば尚のことだ。
「でももう、そんな心配はないのよね?」
「まぁね。あの後すぐ、御門(みかど)の父が手を回していろいろやってくれたみたいだから…。誰のための画策なのかは知らないけれど…」
実家のこととなると憎まれ口は容赦ない。
「そんなこと…」
我が子の為か、体裁を気にしてなのか、それは聞くまでもなくこれまでの玲の様子で想像に難しくない。が、それでも放っておかなかったのには、少なからず愛情があったからだろうと信じたい。それが親というものだろう。
「一時は勘当されたしね」
そんなつかさの心情を読んでか、玲は小さくふふ…っと他人事のように微笑んで続けた。
「だから、あの頃はその日暮らしで転々と。…行くところもなくて住込みのバイトを探していてね。あやしい黒服に勧誘されているところを、運よく今の主人に助けてもらった…ってわ、け。当時の主人は、その界隈じゃ『不動産王のぼんぼん』ってことで有名だったし、相当遊び慣れてたみたいだし? 顔が利いたのね…私が誰か、知っていたみたいだったしね」
今日の玲は流暢だ。いつもなら自分からこんな話はしなかっただろう。つかさとふたりきりというこの偶然に、慣れないのはお互いさまということだろうか。
「脛に疵持つ…ってこういうことをいうのかしら?」
今の玲を知るつかさはともかく、なんの接点もなかったままであったなら、これも「今の生活あっての余裕」の言葉としか受け取れなかったかもしれない。それほど当時の玲とつかさは対照的だった。とはいえ、年齢を重ねたからといって同じ土俵に立てているとも思えないが、育ちのよさにはそんな過去さえも消し去るほどの効用があるのだろうかと、少し羨ましいと感じるつかさだった。
「そっか…。でも、」
立ち上がり、キッチンに戻る。
「出会いはどうあれ、愛されてるじゃない?」
言ってしまってつかさは、なんだか拗ねた態度に感じたが、今日の流暢な玲の前では許されるような気がした。
「どうかしらね?」
「え?」
「出会った頃は既に30歳(さんじゅう)を過ぎてたから、私みたいな女が他にいなかったとも限らないわよ?」
いたずらっぽく上目遣いで微笑む玲。
「まさか…」
(まさか、爆弾発言?)
ここで? 今?
ちょっとドキリとする。
「まさかであってほしいけど。…でも、ばれなければ今の生活は壊れない。でしょ? だから私は、彼が『仕事』だといって遅かったり、帰らない日があったりしても詮索しないし疑わない。所詮夫婦は他人…ホンの小さなことでも、なにかが違えばすぐにでも壊れてしまう関係よ。今の生活を維持して、子どもたちにとっていい父親であれば問題はないと思ってる。そして夫としての役割を果たしてくれていたら、充分なんじゃないかしら?」
「そういうもの?」
なんだかとても「理解ある言葉」を、自分は「当たり前」にこなしているだけ「簡単なこと」と言うかのように、そんな風にさらりと言ってくれる。淡々と答える玲に、動揺を隠せないつかさ。離婚を考えている自分を真っ向から否定されたような気分になった。
もっと臨機応変に、割り切らなければいけなかったの…?
「理解あるのね。大人な考え方…」
皮肉に取られないよう、静かに、且つ思ったままに答える。
(あたしが複雑に考えすぎてる…?)
「そんなんじゃないのよ、ただ。…なによりもね、子どもの前で笑顔でいられない母親にはなりたくなかったの。子どもは敏感ですものね、なにかあったらすぐに気づくわ。だから、気が滅入ってどうしようもなくなったら、いつでも今の生活を捨てられる。…って、そう覚悟を決めたらいろいろとね、言いにくいことも言えるようになって、今に至るってわけ」
思った以上に、玲の母性は確固たる信念のもとに為されているらしい。
「…母は強しってこと?」
「というより、考え方の違いってことかしら。面倒を押し付けて逃げることもできるけれど、今自分にとって一番はなにかって考えたら、私は主人より子どもを優先するってだけ」
そう言い切れる玲は、やはり「余裕」なのか。いいや、それだけではないだろうことは普段の玲の子育てを見る限り聞くまでもないことだった。そうまで子どもを優先すると言い切る玲が、つかさには神々しくさえ見える。しっかりと自分の考えを持っている玲は、昔からただのお嬢様じゃない知性を放っていたことを改めて思い出した。
「自分にとっての一番、ねぇ…そんなこと考えたこともなかった」
考える「余裕」が、自分にはなかったのか、見落としていたのか。
「そんな必要なかったからじゃない?」
そう言われて考える。
「そう、なのかな…?」
必要がなかった…そうだろうか。むしろ、考えないようにしていたのかもしれない…なんとなく、つかさはそう思った。
「まぁ、私の言ってることは所詮きれいごとかもしれないわね。でもそうなるまでには時間がかかったわよ、やっぱり。…最初は我慢こそするけど、そのうち憤り、あきらめ…どうにもならないとわかったら、爆発。そうして繰り返すうちに、次のステージのことも考える。…子どもと生きていくためには『このままでいいのか』『改善策はあるのか』『見切りをつけて次へ行くべきか』…我慢、はないわね。今の時代、そんな奇特な人いないでしょう? じゃなきゃ離婚なんて考え、そんなに簡単に思いつかないわ。誰だって離婚しようと思って結婚するわけじゃない。できれば最後まで添い遂げたいって思うのが本音でしょう?」
「確かに…」
結婚を決めたときは、自動的に離婚がセットだなんて考えている人はいないだろう。
そもそも、離婚というゴールのために結婚するのなら、本来の結婚の意義はどうなるのだ? わざわざ誓いを立てる儀式の意図は? 結婚をよく「ゴール」にたとえその先がないかのように、物語の「おしまい」を匂わせる言い方をするが、結婚はふたりにとっては「ゴール」ではなく「スタート」ではないのか。結婚とは、男女が一緒に暮らすということは、子どもを作るための手段というだけではないはずだ。
「例えばでき婚だったり、勢いだったり、成り行きだったとしても、離婚を前提に結婚するなんて…? あなただって、はじめから今を想定していたわけではないでしょう?」
そうかもしれない…と、つかさは思った。
それなりに自分の中になにかの期待があったはずだった。でも、
「あたしは…周りにのせられて、勢いで結婚しちゃった。…感じかな」
玲に布巾を手渡しながら「よくある話」と他人事のような言葉で片付けた。さらりと流したつもりだったが、果たしてそうなのだろうか。
「お茶でいい?」
言いながら玲は湧いたやかんの火を止め、「座ってて」とつかさをソファに促した。

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「つきあってたのよね?」
やかんを手に、おむつケーキがのったままのダイニングテーブルに向かう。
「そう、だけど…。少なくともあたしは『結婚を考えて』ってわけじゃなかった。弟たちもまだ小学生だったし、自分のことなんか考える余裕もなかったし…むしろ考えてなかったと思う。ただ自由になりたいとは思ってたかも。…吾郎は自由に見えたのね、きっと」
つかさは考え込みながらソファに腰掛け、バッグを自分の脇に引き寄せた。今一度あの当時のことを思い起こしてみるが、どういう気持ちで結婚を受け入れたのかが不透明でさっぱり思い出せない。
「そもそもきっかけはなんだったの?」
お茶を淹れソファに向かう玲。
「きっかけ…?」
(結婚の? 離婚の?)
「離婚を考えるだけの要因があったわけでしょう…?」
(そっちか…)
湯飲みを受け取りながらつかさは、
「たぶんそれは…ふたりっていうところが、だめなんだと思う」
と、曖昧だが正直に答える。
「なんなの、それ…」
わけがわからないわ…と目を細めて見せる玲。
「だよね…あたしもなんて言ったらいいのか…」
初めて離婚届を突きつけたのは、2番目の弟が家を出て行ってまもなくだったと記憶している。ふたりきりになって初めて、ふたりきりでいられないことに気づいたのだ。
そのときは「冗談だろ」と軽くあしらわれただけだったが、実際「離婚」を本気で考えていたのかと問われればどうだったのかも思い出せない。勢いに任せたポーズだったのかもしれないが、それによってなにか違うアクションを吾郎に期待していたのは事実だ。
湯飲みを両手で掴んだまま、
「自分でもなにを求めていたのか、具体的な答えなんかなかったけど。ただ、ふたりになってみて、この先も一緒にいられるっていう保証みたいなものが欲しかったんだと思う。『この人を選んでよかった』『この結婚は間違いではなかった』って誰も言わないその言葉を現実として確信したかった…」
でもその試みは、ますます吾郎の気持ちの薄さを浮き彫りにしただけで、残念な結果に終わったというわけだ。
「浮気でもされた?」
玲は言いにくい言葉を当然のように切り出した。
「浮気してくれたらどんなに楽かと思う」
それをそれと受け流す、つかさの頭の中では多数の離婚のシミュレーションがなされていたのだろう。
「そうくるか…まぁ、それが一番楽よね」
「男の人って、当たり前にみんな浮気するものと思ってた」
つかさはお茶をすすり一息つくと、覚悟を決めたように話し始めた。
「…時々、死んでくれたらいい、とさえ思ってしまう。いなくなってくれたら考えなくて済むし。…でもそんなこと思ってる自分にさえ、いい訳を考える。そんなブラックなこと考えてるから日常が暗くなるんだ。吾郎だけが悪いわけじゃない、むしろ自分が陰湿で陰気だから、闇を引き寄せてる…」
「そんなこと…」
「わかってる。全部いい訳。全部偽善。…さっき、自由になりたかったって言ったけど、結婚したからって自由が得られるわけじゃないのは解ってた。家庭の中の女なんて憧れもなかったし、そもそも想像もしてなかったし。弟たちの面倒が吾郎に変わるだけ。だけど他人だからむしろそれ以上に厄介になった。それでも『俺が楽にしてやる』って言った吾郎の言葉を信じたかった。吾郎、…」
一旦考えるような仕草をし、かぶりを振る。
「…結婚とか旦那さまがいる生活、他人に依存…? 頼る、ことでなにか変わるかもって期待してたのね。でも吾郎の『俺が…』はいつも、本当に『俺』=『吾郎』のためでしかなかったの」
話しながら、だんだんと自分の置かれている状況が見えてきたような気がしていた。そう考えると、自分は初めから吾郎に愛されていたのだろうか…という疑問が湧いてくる。
「どういうこと?」
「自己陶酔って言うの? 『俺が楽にしてやる』…って、そう言ってる『俺』が一番重要で、そこにあたしの存在はなかったのよ。『俺は~こうする』『俺が~してやる』…って、つまりそれを言ってる自分に酔ってる。『俺が、』『俺は、』って言われるたびに、楽になるどころか『俺』の数だけストレスが増えたんだわ」
つかさはゆっくりと確かめるように、玲に話しながら自分に確認していた。
「とんだ肩透かしだった…って、こと?」
「そう。夫婦になったからには、もっとこう、…ふたりでってところを、それなりに楽しみたかった。これもないものねだり、よね…?」
「でもそれが結婚っていうものじゃないの? ふたりでいるのに個人の都合を押し付けるのは違うと思うわ」
「でも、求めすぎてたのかもしれない…」
急にそんな思いが頭に浮かんだ。
「でも、求めた結果が結婚じゃないの?」
結婚の理由は夫婦それぞれだろうけど…と、玲は言葉を濁した。
(吾郎も、あたしになにか求めてた…?)
そもそも結婚に対して、お互い自分たちの話をしたことがあっただろうか。少なくとも自分はなにか言っただろうか。吾郎の言葉だけを頼りに、安易に決意したのは自分の方だった…?
「なんていうか…吾郎にとっての結婚は、腕時計をつけるのと同じような行為で結婚によって『なにかを得よう』とか、相手によりそって『なにかを育もう』とか、そんな考えが微塵も感じられなかったように思う」
「なるほどね…」
「ふたりで生きて行くとか、ふたりで築き上げるとかそういうものがまったく感じられなくて、常に『俺』しかなかったのよね。夫婦っていうものがどんなのかも解ってなかったから追求することもなかったけど…自分の違和感に気づいたときには結構な時間も経っていて。そんなときに同窓会であなたたちに会って…自分を取り戻したいって思ったのよ」
そうして本気で離婚を進めようと決意した。
(吾郎のことは解るのに、自分の気持ちが解らなかった…?)
少しずつ気持ちがほぐれていくのが解る。いつの間にか窮屈さもなくなり、つかさの方が流暢になっていた。
「…それで今に至る、ってわけ」
「そう、ね…」
「で? 自分は取り戻せたの?」
少し考えて、
「だいぶ…ね。今はしたいことしてるし、言いたいことも言えてる…と、思うけど?」
上目遣いで自分の姿を玲の瞳に映し、まるで確かめているかのような仕草。まだまだ自分じゃ自分の行動が、はたして「自分らしい」のか確信が持てない。
「つかさはさ、ずっと…自分のことは誰かの次だったのよね。お母様の入院中はお母様のため、家に戻れば家族、弟たちの面倒を見ながらいつでも弟たちを優先して。唯一の自分の存在証明って、勉強だったんじゃないかしら…? だからこそバイトしながら首席を守れた。…いつも凛としていて、颯爽と歩いてるあなたが私にはまぶしかったんだわ」
(え…)
つかさの上目遣いが途端、大きく見開かれた。
「ひとりでいても堂々としていて、何者も寄せ付けない。腫れ物を触るように私の周りにいた友達でもない取り巻きが恥ずかしいとさえ思ったものよ」
それは玲の正直な気持ちだった。いつも心の隅にくすぶり引っかかっていたこと、それは自分にないつかさの「孤高」さが本物であると感じていたゆえの嫉妬だったのだ。
「へえ? 意外…」
取り巻きに囲まれながらも決して守られているわけじゃなく、美貌を誇示することなく自分の意思をしっかり持って、いつも自信満々だった玲の方がよっぽど堂々としていて…
(あたしにはそっちの方がまぶしかったけど…)
「言ったでしょう、みんな、ないものねだりなのよ」
つかさの思考を読み取ったかのような玲の一言。
「他にいなかったの?」
思わぬ言葉にドキリとする。
「当時は、吾郎さんだけだったのかって…」
黒髪ロングストレートというだけでもモテ要素を充分備えているのに対し、外見内面ともに穏やかで、特別気負ってもいないのにいつもどこか毅然として。それでいて目を惹く、黙っていても振り返る男はいくらでもいただろうと玲は常々思っていた。玲ほど派手ではないが、器量よしのつかさに言い寄ってくる男がいなかったとは思えない。
「どう、だったかな…」
思い当たる節がなくもないつかさは、そう小さく答えて言葉を飲み込んだ。
「浮気するなら元彼が適当らしいわよ」
どんな意図があってかそう言って、お茶をすする玲。
「浮気? 適当? すごいこと言うね」
思わず笑みがこぼれる。
「そ。お互い酸いも甘いも解って、かゆいところに手が届くって言うのかしら…? その場しのぎが許されるお相手…別れも面倒がなくていいらしいわよ」
「面倒?」
「仮にどちらかが既婚者だったとしても、ばれたときはいい訳も立つし、お互い気まずい関係だから、あと腐れなくドロドロしなくて済むってことらしいわ。その代わり『あぁ、だからこいつと別れたんだ…』って、再認識するっていうおまけがつくらしいけど」
まるでどこかで見て来たことのように話す。
(…おまけ)
「なるほど、ね…」
言いながらつかさは、小さく笑った。
「そんなこと、どこで…?」
「エステサロンは昼ドラよりリアルよ」
(あぁ…)
「聞こえてこないだけで、いるところにはいるのね」
「そういうことね。…吾郎さん、だけだったとは言わせないわよ。でもつかさに浮気は無理かしら。まじめだものね。…だから協議離婚なんてもので辛抱していられるのね」
「あはは。そうかな…」
「いい弁護士紹介しましょうか?」
いたずらな目でつかさを見つめ、口元に手を当てる。嫌味を言うでなく、いつもこういう気遣いで場を重くさせないのが玲のいいところだ。
「玲の弁護士ならさくさく離婚できそうだね。離婚届が無くなったらお願いするかも?」
だからつかさも身構えず、重くなりがちな〈離婚届〉なんて言葉も冗談のついでのように返せる。
「無くなったら…?って、どれだけ持ってるのよ?」
呆れた、と仰け反る。
「ん~。不満の数だけ…?」
クスリと笑って、そろそろ底をついてきた離婚届の用紙のことを思い浮かべた。
「そんなこと言ってたら私だって山のように溜まるわ。しないけど」
そう言って大袈裟に手を広げる玲を見て、更につかさは笑った。
「そうよね…。あたしもよく我慢してると思う…」
引き出しの中のあれらが無くなったら、次はどうするだろう。また市役所に行くのだろうか、それとも諦めるのだろうか。怒りのままに集めた〈離婚届〉…一番最初に取りに行ったのはいつだったのか。
「でも、それって一緒にいる意味あるの? 彼はなぜ離婚を拒むのかしら?」
「そう思うでしょ? 吾郎だって別れたいはずなのよ。お金とも考えにくいし…子どもでもいたら違ったのかもしれないけど、吾郎の生活に合わせることに必死で、子どもを作るとかそんな思考もどこかに飛んでた。そんなこと考える雰囲気でもなかったし」
「実は愛してる?…とか」
「誰が? 吾郎が? 考えられない」
「ふーん。…夜が不満、とか。合わなかった…とか」
話の流れ的に、やはり夫婦生活には欠かせない部分に玲が言及する。
「それはどうかな…」
ただ、普通の夫婦のように多感な男性像と違ったのは事実だ。
「もともと寝室は別だったし。…吾郎は、自分じゃダメな人…だったの」
「自分じゃダメって?」
「ン~なんていうか、性欲がないわけじゃないんだけど、自分からは求めないっていうのかな? 相手から求められないと欲情しない、タイプ?」
言ってることわかる?…と目配せする。
「キスしなくても、想像するだけで元気になっちゃう人もいるじゃない?」
「うん。そうね…」
言いながら想像する玲は、少しニヤリとする。
「だから、キスして、さらに盛り上げてあげないと、元気になれない人だったわけ…」
話の流れに乗せられて話題に上げたものの、つかさは急に恥ずかしくなり「そこはさ。もう、嫌いになったら触れたくもないよね」と、無理矢理話を終わらせた。
「あぁ…。確かに、それもそうね…織瀬のところとは事情が違ってくるわね…」
織瀬の名が出てきたところで、急に現実が戻った。
「そうね…。嫌いなわけじゃないから、切ないよね。織瀬は」
「浮気、じゃないのよね? それこそ…旦那様の一目ぼれじゃなかった?」
「浮気はないと思う。でも織瀬は、自分のせいだと思ってるみたい。自分が『至らないから』とか、自分に『魅力がないから』だって…シャンプー変えたり、ダイエットしたり、それこそ健気にいろいろやって…報われないと自分を責めて」
気持ちがあればこそ余計に、織瀬の立場はつらいものなのだと改めて理解したつかさだった。
「織瀬、意外につくすタイプだったのね…。私ならさっさと見切りをつけて他に行ってるかしら」
実際、他に向かうかどうかはそういう立場になってみないと解らないものだ。
「だからっておりちゃんに『浮気しろ』って奨めてよかった?」
「言ったの?」
「ん…似たようなことを…」
現代人らしく、コレがだめならソレ…と何気ない言葉が、本当は織瀬を傷つけていたんじゃないだろうかと、今さらながらに後悔するつかさだった。
「へぇ」
「やっぱりまずかった? 無責任、よね…」
急に不安になる。
「そうじゃないけど。私やマコならともかく、あなたがそんなこと言うなんて」
ついさっき「真面目」だといった自分の言葉を訂正したくなる玲。
「激しく求められることがない…という点では、うちもおりちゃんのところと変わらないのかも…?」
もともと寝室を別にしていたつかさにとっては、吾郎の部屋のドアをノックするという行為があたりまえだったが、それは自然と訪れる感情を待つ夫婦とはやはり気持ちが違うのだろう。
「もっと情熱的な相手だったら違ったってこと?」
「だってふつうは、女は受け身なわけじゃない?」
「そうね。お互い気持ちが高まって…って場合もあるだろうけれど、女には感情だけじゃない体の波があるものね…。かといって男みたいに外で発散ってわけにもいかないだろうしね…」
「外?」
「男には風俗っていう手段があるけれど、女には表だった手段がないじゃない? さっきの元彼の話も、バカにできないことなのかもしれないわねぇ…」
そういってひとり納得する玲。
風俗に通う経験のある夫を持つ妻ならではの発想だが、割り切れる者とそうでない者がいることを忘れている。玲は育ちの枠を越え、男女の関係にはフランクな考えの持ち主らしい。
「静かな仕事をしてるひとは、性欲も静かなのかしら?」
「どうだろね…うちは一応、肉体労働だったと思うけど」
「大きな盆栽、と考えれば…。それは無理があるかしら」
大きな盆栽…と、想像してふたりは笑った。
「あのコ、枕を買うのよ…」
「枕?」
なにを突然と目を丸くする。
「自分で気づいてるのかどうか解らないけど、さみし紛れなんだと思う。…あたしが知ってる限りでも4つか5つは買ってるはず」
「枕を? クッションでなく? なにに使うの?」
「クッション…なのかなぁ。でも、とにかくベッドに並べてるから、枕なんだと思う」
「枕…。思った以上に深刻ね」
そういう玲の言葉を聞いて、今度は自分が今日の玲のように織瀬の話を聞いてやろうと改めて思うつかさだった。
「今日はありがとう…楽になったわ」
帰り際、すっかりと気持ちの軽くなったつかさは、自分でも意外なほど笑顔を振りまいていた。
「あら、私はあなたのプライベートが知れて得した気分だわ」
そんなことを言いながら玲も同じ気持ちでいたのだろう。お互いいつまでも笑顔を崩すことがなかった。

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〈浮気するなら元彼が適当らしいわよ〉
〈他に誰もいなかったの?〉
〈吾郎さんだけだったのかってこと…〉
帰り道、つかさは、玲の言葉を思い返しながら歩いた。
それと同時に、つかさにとって懐かしい顔が脳裏によみがえっていたことはいうまでもない。


まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します