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小説『オスカルな女たち』33

第 9 章 『 結 論 』・・・1


     《  母か、女か、 》


年齢は…38歳   
お子さんは、まだいらっしゃらない…
結婚はされてますよね?

ゴポゴポ…っ…
(なんだか…水の中で会話してるみたい…)
レントゲン写真を眺めながら、織瀬(おりせ)はそんな風に感じていた。

今後の妊娠は希望されますか…?
しかしこの、月経時の出血量が気になりますねぇ…貧血もだいぶ…
ちょっと妊娠は…

(水の中ってこんな…かな…)
よく聞こえない…織瀬は夢の中スローモーションで全力疾走してるみたいな気分だと、ぼんやり考えていた。

オボレソウ…

どうされますか・・・・?

「…ひわたりさん? 樋渡さん…!」
看護師が織瀬の肩に軽く触れる。
「え? あ、はい」
「大丈夫ですか?」
「えぇ聞いてます」
「ちょっと難しいことだとは思いますが、ご家族と相談されたうえで早急の決断をお勧めします…」
「…は、ぃ…。ありがとうございました」

悪い夢を見ているのだと思った。
あたしが、なにをしたというのだろう。
なにがいけなかったの。
(罰が当たったの?)

カラー(大)

「まこと…」
顔面蒼白、きっとそんな顔をしていたのだろう。
「どうした…? 織瀬」
「あたし…あたしっ…」
(もう、子どもが産めない・・・・)
身体から一気に力が抜けたかのように膝が折れ、バランスを崩した。
「おりせ…っ」
とっさに腕を掴む真実(まこと)。
「つかれた、よぉ…」
力なく答え、力尽きたように体がいうことを利かない。
望むことすら、夢見ることすら、許されなかった。
本当に、つかれた。
「おりせ!…ちょ…、誰か!」
真実は迷わず織瀬を抱き上げた。

大学病院からまっすぐ、どこをどう歩いたのか、気が付けばタクシーに乗っていて、やっとの思いでやってきた。そうして織瀬は真実の顔を見るなり気絶したのだ。

これは、天罰なのだろうか・・・・。

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「胃潰瘍だったんじゃないの?」
「そう、なりかけだって診断されたけど…。手術しないといけないのかな?」
「あぁ。でもなりかけだったんだろ?」
「貧血が気になるから後日婦人科の検査を受けろって言われてたの」
「婦人科? 内科でなく?」
「うん。ほら、救急で見てくれた先生が女医さんだったから…」
「あぁ…」
「血液検査の結果、やっぱり貧血だって言われて。『生理痛がひどい』って話をしたら、早めに大きな病院で診てもらえって言われてたから…」
「大きな?」
「…あ、おりちゃん。起きた?」
目が覚めると、視界の先に真実とつかさの姿がぼんやりと浮かんでいた。
どうやらベッドに寝かされているらしいことを知る。
「あ…あたし…」
「どした? どっか痛い?」
真実が顔を覗き込む。
「ここ、は…」
「うちの病院だよ。玄関先で気絶したから、空いてる病室に運んだ」
言われて見慣れない天井に納得する織瀬。
「そう…」
(そうだ…真実に話を聞いてもらおうと…)
「つかさにも来てもらったんだ…」
織瀬の視線を追うように真実はつかさを見た。
「平気? びっくりしたよ~電話貰って」
つかさが顔を覗き込む。
「はぁ…」
安心したのか、脱力とも取れる息を漏らす織瀬。
(夢じゃなかった…)
ほっとしたら涙が出てきた。
織瀬は両手で目を覆い、その頭でここまでの道のりを反復していた。
(これは、現実なんだ…)
「ごめん…」
だれに言うでもなく思わず漏れた言葉。
「謝るな…ここに来ただけでもう充分だから」
真実の言葉はいつも沈んだ心をすくい上げてくれる。
織瀬はベッドの上でしたたか涙を流したのち、鼻のつまりと共に体を起こした。ティッシュを受け取りながら、大きく溜息をつきゆっくりと口を開いた。
「あたし、子宮筋腫らしくて…」
言葉にするとよりリアルさが増してくる。
「え? 筋腫…?」
想定していたのか、どことなく落胆した様子が窺える真実の言葉。
「しかも、とった方がいいって。子宮…」
それは同時に、織瀬に「子どもはあきらめろ」という宣告と同じだった。
「そんな…」
思わず口を押えるつかさ。
「病院で言われてきたのか?」
「生理の時の、大量出血は筋腫のせいだって言われて…ピルで閉経を待つか、子宮全摘手術をするか。…どっちにしても、子どもは望めないって」
「そう、言われたのか…」
真実の言葉に、織瀬は黙ってうなづいた。
聞けば織瀬の筋腫は既に6センチ以上にも育っていて、子宮が圧迫されているどころか変形している状態にあるという。どのみち妊娠を望んだとしても着床しにくい状態であったと言える。そんな状態ではもうずいぶんと前から「体になんらかの症状や不自由が出ていたのではないか」という医師の指摘であったが、織瀬は普段から夫婦の営みがなかったためか「痛みを感じる」という自覚症状もないままやり過ごしてしまったということだろう。
「それって、もし夜の生活があったらもう少し早く解ったってこと?」
つかさが静かに問う。
「そんなこと、今さらだろ」
悔しそうに真実が遮る。
「どうなんだろ…」
(でも…)
織瀬は少し考え込むようなしぐさを見せた。なにか言いたげな様子ではあったが、それ以上言及することはなかった。
こんな皮肉なことはない…と、真実は拳を打ち付け「もっと早くに自分が気づいてやれたら」と激しく自分を責めた。
「ごめん。そばにいながら…」
そう、疑っていたのは事実だった。
「そんな、真実のせいじゃないよ。あたしが悪いの…」
「でも…」
40歳を過ぎていたなら、あるいはもう少し気持ちも違ったのかもしれない。いや妊娠を切望する女にとっての「不妊宣告」は、いくつだろうとその衝撃は他人が想像できる範疇ではないだろう。せめて「不妊治療」でもしていれば、あるいはもう少し早く病状が解ったのかもしれない。だが、今となってはすべてがあとの祭りだ。
ひとしきり涙を流し、ようやっと落ち着くと、
「ありがと、ふたりとも。今日は、帰るね…」
と、静かに布団をめくる織瀬。
「このまま泊まってってもいいぞ」
体調を考えれば本音は「帰したくない」と思う真実だった。しかし、赤ん坊の泣き声の聞こえてくる産婦人科内の病室では、それは余計に織瀬を落ち込ませるだけかと、無理に引き留めることはできなかった。
「じゃ、あたし送るわ」
真実の電話で、とるものもとりあえずとやってきたつかさは、はなからサロンに戻るつもりはなかったらしく自家用車で駆けつけていた。
「すぐだからいいのに…」
「あたしも帰り道だし…ついででしょ」
そう言ってつかさは、自分のバッグと織瀬の荷物を抱え立ち上がった。
「ごめん。大変な時に…」
自分もついて行きたい様子の真実が心配そうに見送る。
「そんな…ごめんね、仕事中なのに邪魔して」
「だからつかさに来てもらった。大丈夫、ちゃんと仕事はしてるよ」
とはいうものの、気が気じゃない真実はまったく仕事が手につかずに操(みさお)先生を呼んでいた。
「こっちが落ち着いたら、マンションに寄ってみるよ」
帰りがけ、真実はそうつかさに声を掛け別れた。

キー


気が重い。本音はマンションに、幸(ゆき)のもとに帰りたくない織瀬だった。もう、しばらく幸とまともに会話をしていない。顔を見たら、いや顔を見なくても、今日病院で言われたことをきちんと話せるのか不安でたまらなかった。
「このまま帰って大丈夫? やっぱりまこちゃんのところに…」
それが容易に想像できるつかさは、そう言ってはみたものの「やはりあの病室では酷だろうか」と口をつぐんだ。
「大丈夫だよ。黙ってるわけにもいかないし…」
「そうだろうけど…あたしも一緒に行こうか?」
「ぅぅん、平気。心配性なんだから…でも、ありがとね」
「そうじゃなくて…」
そう言いながらなんと声を掛けたらよいのか、つかさも内心考えがまとまらずにいた。
「解ってる。…でも、自分で言わなきゃ」
「うん。でも、無理はしないで。なにかあったら電話してね」
「うん。ありがとう」
そうは言っても本音はやはり、
(帰りたくない)
会いたくない。少なくとも今は・・・・。
真実の病院から織瀬のマンションまでは信号機ふたつと短い距離で、車では10分とかからない。思いのほか近かったことを今日は恨めしく思う。
「ただいま…」
玄関を開けると、ほのかに夕食のいい香りが漂っていた。
(珍しい…)
以前はよく、仕事がひと段落した時など、幸がこんな風に夕食を作って待ってくれていたものだった。だが、ここ最近はそんなことがあったことすら忘れるほどに過去のことになっている。
一瞬また、義母の頼子がやって来たのではないかと疑った。が、玄関に草履は見当たらなかった。
珍しい…なんでもない日なら嬉しいサプライズだったのかもしれない。だが、
(よりによって、なんで今日…)
織瀬の足取りはますます重くなるばかりだった。
リビングのドアを必死にひっかく黒い毛玉が視界に入っても、もたもたとヒールを外す手が重くうまくいかない。かわいい愛犬〈ちょきん〉にさえ、今日は駆け寄る気にさえなれなかった。
ちょきんの様子で、妻の帰りを察した幸がリビングのドアを開ける。
「おかえり」
いつものやさしい笑顔が出迎えてくれた。
「ただいま…」
顔が引きつるのが解る。でも、どうしようもない。
一目散に駆け寄ってくる愛犬に声を掛けてやることもできなかった。代わりに、
「どうしたの?」
こちらの様子を悟られないよう自分から話を振る織瀬だが、うまく声が出せない。
「なにが?」
そんな様子に頓着しない幸に、いつもなら「もう…」っと憤慨するところだが、その鈍感さが今日はかえって都合がいい。
「珍しいじゃない。料理…」
静かに返す。
「最近忙しかったからね、たまには奥様を労わないと」
ここ最近では珍しい幸の笑顔。
(なにかあった…?)
しかし、それ以上話を膨らませる余力はなかった。
「そう…」
会話を続けられない。いつものやさしさが苛立ちを誘う。
(やっぱり、今日は話せない…)
「ごめん、ちょっと疲れてて…。今日はもう休むね」
ちょきんを抱き上げようと体を折ると、軽いめまいに襲われた。だが、幸に悟られないようしゃがみこんで誤魔化す織瀬。
「少しくらい、食べない? 織瀬の好きなビーフシチューだよ…」
時間をかけて作ってくれたのだろうことがメニューから解る。だが、
「ごめんね」
それしか返せなかった。
「今日はちゃんと寝室で寝なよ…」
「え…」
いくら鈍い幸でも、さすがに毎日着替えるだけに寝室に出入りしていることには気づいているようだった。
「うん…でも…」
しゃがんだまま、ちょきんを撫で、幸があきらめるのを待つ。
「織瀬」
「なに? わかったから…」
もう話したくない。そんな顔で立ち上がり、寝室に向かおうときびすを返す。
「おれたち、子ども作らないか」
それは、なにかの罰なのだろうかと思わざるを得ない言葉。
「は…?」
ナンテ…イッタ?
(なんで今日…)
「なんで、今頃…?」
今日はこのまま「話をすまい」と思っていただけに、その不用意な言葉に苛立たしさが増し、さらに怒りがこみ上げてきた。これまでの沈黙への憤りか織瀬は無意識に床にバッグを叩きつけていた。
きゃぃ…
驚き小さな悲鳴を上げて部屋の隅に走り去る愛犬を気遣う余裕もなく、
「なんで、今頃いうかなぁ…!」
とうとう織瀬は攻撃的な言葉を発した。
「な、なんだよ。どうした?」
「なんで…?」
織瀬の眼からとめどなくあふれる涙、それを拭いもせず、むしろその行為を忘れたかのように幸に詰め寄る。
「よくも! よくも、よくも、よくもそんなこと言えるよね!」
織瀬は涙顔を気にもせず、幸を睨みつける。
「どうしたんだよ…」
おそらく「喜んでくれるだろう」言葉をかけたつもりの幸は、なにかおかしなことを言ったか…とでも言いたげな様子で、一歩引きさがる。
「お、織瀬…?」
「もう、ここ何年もっ! 一緒に寝たこともない、あたしの身体に触れもしないあなたが! よくも『子ども作ろう』だなんて! 子どもが出来るようなこと、しやしないくせに!」
声が裏返ろうが、かすれて言葉にならなかろうが、怒りに任せて幸の胸板を叩き続けた。叩きながら、力なく崩れた。
「泣くことないだろ。どうしたんだよ」
織瀬の豹変ぶりが幸には大げさとも取れるその行為に「冗談だろ」と織瀬を抱き上げるが、見たこともないような悲痛な顔で泣きじゃくる自分の妻に少々引き気味で覗き込む。
「おりせ?」
落ち着けよ…と肩をつかむ幸の手を振り払い、半ばやけくそで、
あたし! 子宮筋腫なんだってさ
上ずった声で、一番避けたい方法で伝えるはめになった。
「え…。なに…」
「聞こえた? 子宮筋腫」
今度は静かに答えた。
「しきゅう、きんしゅ?」
「へたすりゃ全適しなきゃならないかもって言われてきたのよ、今日。ついさっき!」
「そ。それって…とれば、な」
とれば、治る…そう言おうとしているのか。
「とればなんとかじゃない! 子宮を取るの! もう、妊娠できない体になるのよ!」
そう言いながら床を叩きつける。
「織瀬、ちょっと待って」
しゃがみこむ幸。
待ってたよ! あたしは。ずっ、と待って、ずっと我慢して、やっと落ち着いて、…それでもあきらめきれなくて! そいでもって、こないだの夜に玉砕したよ!
ついと顔を上げ、再び幸を睨みつける。
「え…?」
「…そんなあたしになんで!! なんで今頃…『子ども作ろう』だなんて言えるのよ! そんな言葉でここ最近の空気の悪さをどうにかできるとでも思ってんの!」
幸に対してこんな口を利いたのは初めてだった。それどころか、声を荒げることすらなかった。しかし、もうどうでもよかった。それよりも今は、これまでの憤りを吐き出したい衝動しかなかった。
「織瀬…? なに? 子宮? 落ち着いてちゃんと話して…」
「落ち着いてるよ! のんびり構えてるあなたよりずっと!」
(こんな酷いこと!)
よくも、よくも、よくも、よくも…!
「ひどすぎるよ…」
ゆっくりと立ち上がり、寝室に向かおうとする織瀬。その時、ゴトリ…と、リビングのドアの外でなにかが落ちる音がした。
その途端部屋の隅にいたはずのちょきんが唸りだし、激しく吠えた。それは、ちょきんが苦手な相手に対する行為そのものだった。
(え?)
「今のなんて? 今、なんて…」
子どもができない?
一緒に寝てない?
子宮筋腫…?
ひとつひとつ、うわ言のように呟きながら、留め金の外れた戸板のようにゆるやかに開かれた扉から義母の〈頼子(よりこ)〉の姿が現れた。
「おふくろ…」
「なんでまた、お義母さんは…」
(今の話聞かれた…そんなことより、鍵。鍵、取り上げたんじゃなかったの?)
もうなにがなんだか解らない。勢い任せに義母にまで食い下がろうとしたその時…つかつかとまっすぐにこちらに向かってきた頼子は、織瀬を素通りし、

バチン・・・・っ!

あんたは!!
そう言いながら義母は、もう一度幸の頬を平手打ちにした。
バチンっ! バチンっ!!
「ちょ、おふくろ…」
幸はやみくもに動く頼子の腕を掴もうと空をかく。
おまえまで、おまえまで、女をないがしろにして!
頼子は興奮に任せて腕を振り、声が涙混じりになり、そのまま幸の足元に崩れ落ちて嗚咽を発した。そうして今度はそのまま床を殴り、聞いたこともない低い声で「おまえは、おまえまで」と何度も何度も繰り返し、見たこともない姿で激しく泣きじゃくったのだ。
「な、なに?」
(なんなのこれ…泣きたいのはあたしの方…)
そんな姿に織瀬の涙はあっという間に乾き、わけも解らずすがりつく母親にどうすることも出来ない幸の姿も、だんだんと白く遠のいていった。
なんなの?…なんなの?…もう、わけがわからない・・・・!
「おりせ!」
遠のく意識の中で、そう自分を呼ぶ幸の声とちょきんの泣き声が乾いた空気にかすれて響いた。そんな中どこからかインターフォンがなっているような音を最後に、織瀬はまた、意識を失った。
〈あ、あぁ、救急車ぁ…!〉
うろたえる幸に、
〈かかりつけはどこなの!〉
義母の怒鳴りつける声がする。
〈お友達に、婦人科の先生がいたでしょ。さっさと電話なさい!〉
〈ぴんぽ~ん…、〉
〈ゆき! もたもたしないで〉
〈ぴんぽ~ん…〉
〈…はい。あ、あぁ…織瀬が、織瀬が、〉
〈・・・・・・!〉
結局その夜は、貧血を気にした真実が点滴を持って駆けつけてくれたのが幸いした。
夢の中で幸と真実と義母の話声がしていたようが、そんなことを気にする余裕もなく、織瀬は久しぶりに寝室のベッドで深い眠りについていた。

チクチク

「ごめんなさい。知らなかったとはいえ、私はあなたを追い詰めていたのね…」
後日呼び出された喫茶店の片隅で「あなたは聞きたくないだろうけど」…そう前置きをして頼子は織瀬の顔を見ずにぽつりぽつりと語り始めた。
「私が夫に愛されたのは、幸ができた時…。そのたった一度だけだった」
(え…)
衝撃だった。
「え…」
聞き違いではないかと思わず顔をあげるが、頼子の目はさみしげに窓の外を見つめている。その様子は、外の景色ではなく遠い記憶を眺めているようだった。
幸は、ハネムーンベイビーだと聞いたことがある。そのあまりのうれしさから、そのときのしあわせを一生忘れないように…と「幸(ゆき)」と名付けたのだと以前頼子が言っていたことを思い出す。そりゃぁ忘れたくはなかっただろう、この世でたった一度、たった一夜限りの奇跡の瞬間の賜物だったのだから。
「年齢も年齢だったし…」
義父とのことはどういういきさつか詳しくは聞いてはいないが、義母は3人目の妻で、年齢も24歳と結構な歳の差婚であった。22歳で嫁いだ義母だったが、たった一度のハネムーンでの営みが最初で最後の女の夜だったというのだ。
普段の義父母の姿から、織瀬は勝手に「とても愛されて結婚した」夫婦なのだと思い込んでいた。「あ・うん」の呼吸と言うのか、ふたりの間にはとても穏やかな空気が流れていて、だれもその空気を乱すことなどできないのだろうと、夫婦とはこういうものなのだろうと思って見ていたのだ。
織瀬の両親は若くして結婚したためかいつもケンカ三昧だったと聞く。幼い織瀬の記憶に父親の姿はなく、物心ついた時には母親とふたり母親の実家に身を寄せていた思い出しかない。祖父が亡くなると、母親はどういうわけか織瀬一人を残していなくなり、ずっと祖母とふたり暮らしだった。だから織瀬にとっての〈夫婦像〉というのは、わずかな期間見ていた祖父母の姿と、だれかの家のお父さんとお母さんでしかなかった。それゆえ、幸の両親に初めて対面した時〈理想の夫婦像〉というものを見た気がしていたのだ。
「私たちの頃はね、親の言うこと、夫の言うことを聞いていればそれでいい時代だったの…。あなたたちには窮屈かもしれないわね…。でもその窮屈が当たり前、そういうものだと教えられてきた娘時代の私は、抗うってことを忘れていたのね」
抗う? それは自分のことを言っているのだろうかと勘ぐる織瀬。
(責められているのだろうか…?)
「私も、お父さんしか知らないから…それがどういうことなのかはなんとも解らないし、知らないことは追及しなくても、子どもが丈夫に育って、家庭がうまくいっていればなんの問題もないと思っていたのよ。いいえ、思いこんだのね…」
守られて、尽くして、家庭が円満であれば「女のしあわせ」は確保され安泰なのだとすりこまれて育った時代。
「女三界に家無し」とはよく言ったもので、跡継ぎにもならない女(娘)は嫁ぐまでは親に養われ、嫁ぎ先では夫やその家族に従い、老いさばらえては子に世話になる、一生安住の地に落ち着くことなく生きるものと定められた身。それを倣って健気に生きてきたと、頼子は言う。
「でもね、お父さんはとても優しい人だったの。子どもも授かったし、私はそれでもしあわせだったのよ…」
それでも、しあわせだった・・・・。
そう語る頼子は「しあわせだった」と言いながらもどこかさみし気で、いつもの気丈さは見受けられない年老いた母親そのものだった。
「無論、今は時代が違うわ。あなたたちに世話になる気など毛頭ない。けれど、やっぱり女のしあわせは子を産んでこそと思っていたから…。あなたも望んでいたようだったし…」
確かに望んでいた。でも、今は…?
子どもは欲しい。でも果たしてそれは「幸の子どもが欲しい」のか、とにかく「子どもが欲しい」だけなのか、織瀬自身解らなくなっていた。だがそれも叶わなくなった今、そんな答えなどなんの意味も持たない。織瀬は黙って、頼子の言葉に耳を傾けることしかできなかった。
「本当に、ごめんなさいね…」
もっと早くに気づいていれば…と、一筋の涙を流す頼子。
(あやまらないで…あやまられると、余計…)
愛想笑いもできない自分を最低だと思う。だが。
そう、義母も女で、根っからの悪い人ではない。それは織瀬も解っていたつもりだった。普段の心無い言葉も、本音はちゃんと織瀬の気持ちを汲んで、息子の尻を叩いているつもりでいたのだろう。
「織瀬さん、今後のことはきちんと相談しましょう」
「…はぃ?」
織瀬は声にならない返事を返す。
「そうゆっくりもしていられないのでしょう?」
織瀬が倒れた夜、駆け付けた真実がだいたいの話を説明してくれていた。おかげで織瀬は悲しみのすりこみをしなくても済んだわけだが、それでも会話を繋ぐことはできなかった。
「あなたのしたいようにすればいいわ。なにかあれば言ってちょうだい。あの様子じゃ幸は役に立ちそうにないから」
あの夜以来、また沈黙が訪れた。幸は織瀬にどう声を掛けたらいいのか解らないようで、なにか言いかけては口をつぐむ、そんなしぐさを繰り返すばかりであった。
「息子にも責任はあるし。失礼だけど、お金のことはこちらに任せてちょうだいね。いいえ、そうさせて…」
反論しようにも声が出なかったが、頼子ははじめからその件に関して譲る気はないようだった。
「お見舞いも、あなたがいやなら控えるわ」
「そん、な…」
声にならない言葉を発する。
でも、きたからと言ってどうなのだろう。今は考えられない。
「織瀬さん、」
「は…ぃ…」
この期に及んで「返事がない」と叱られるのかと思った織瀬だったが、
「幸と、別れてもいいのよ」
「え…」
それまでコーヒーカップに添えられたスプーンに映った自分の顔を眺めていた織瀬は、その日初めて顔を上げた。
「勘違いしないでね。子どもが望めないからとかじゃないの。それは、もう、あの子に期待できないことは…私たちもどこかで解っていたことだったから。このままあなたたちがしあわせならそれでいいと思っていたわ。本当よ。でも、こんなことがあって、あなたはずっと思い悩んでいたことを知った今は、もう無理なんじゃないかと思うのよ」
頼子は、見たこともない顔でそう言った。

ナンデ   
ナンデアナタガ、ソンナコト、イウノ…?

「気持ちが解るとは言わないわ。でも、…なんて言ったらいいのか解らないけれど、今は我慢しなくてもよい時代だし」
本当はもっと違うことを言いたいのではないかと、その時は思っていた。頼子がなにを言わんとしているのか、当然ながら今の織瀬の思考ではとても追いつかないことだった。
ただ、「拒絶されている」のだと思った。

ナンデ   
ナニヲ、イッテ、イルノ…?


「よく、考えてみてね。そして…自分の心に従いなさい」
そう言い残して、頼子は去って行った。

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自分の心に従いなさい・・・・。
それは頼子の、思いやりとも取れる言葉ではあったが、その時の織瀬にはそうとは取れずに、なぜだか涙があふれて止まらなかった。

マタ、キリステラレタ…




まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します