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『鎌倉殿の13人』という創造

小林秀雄の「モーツァルト・無常という事」の中に描かれている、「実朝」の項を読んだ。

以下 抜粋する。
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芭蕉は、弟子の木節に、「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣 ならん」と答えたそうである。
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「鎌倉殿の13人」をご覧になった方 なら、「鎌倉右大臣」というのは、他ならぬ「実朝」のことであることは承知だろう。

芭蕉は、正保元年から元禄七年まで生きた、江戸時代の俳諧師である。
芭蕉を知らない人はおそらくいないであろう。
特にも俳句をたしなむ人にとって、芭蕉の目は、殊の外至高のものである。

その芭蕉が、若干27歳の若さで散った「実朝」と老練するまで生きた「西行」とを並べて、当時の歌人として挙げている。

抜粋されていた「吾妻鏡」の文章は、「鎌倉殿の13人」がとても好きな私にとっては残酷なものであった。

実朝が、自分の髪の毛を一本抜いて、「禁忌の」和歌を詠む。
この歌が実朝の最後のものになった。
番組でも流れた歌である。

「出ていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」

「吾妻鏡」には、編纂者等の勝手な創作が多く混入していることは定説 だそうだ。
小林秀雄 はこう言う。
「しかし、文学には文学の真相というものが、自ずから現れるもので、それが、史家の詮索とは関係なく、事実の忠実な記録が誇示するいわゆる 真相なるものを貫き、もっと深いところに行こうとする傾向があることはどうも 致し方ないことなのである。
深く行って、何にいたろうとするのであろうか。
とまれ、文学の現す美の深浅は、この不思議な力の強弱に関わるようである。
「吾妻鏡」の文学は無論 上等な文学ではない。だが、史 家の所謂一等史料「吾妻鏡」の劣等な部分が、かえって歴史の大事を語っていないとも限るまい。」

私が大河ドラマを見るとき、全く同じことを考える。
歴史というものを 文学に追求していこうという、止まない 欲求。
視聴者の感情移入、それぞれのキャラクターへの愛着、そしてカタルシス。

私は今回観た「鎌倉殿の13人」が、とても素晴らしい文学(ドラマ)だと思った。
みんな、いろんなふうに 歯車が噛み合わなくなって行って、離反したり死んでしまったり。
誰も憎めない。
嫌な奴はいるけど。
それでもそこには、その時々を懸命に生きる人間の姿ばかりが描かれていた。

私が読んだ「吾妻鏡」は、「実朝」の部分についてのみである。
小林秀雄の言葉を引用する。
「広元は知っていたという。義時も知っていたという。では、何故「吾妻鏡」の編者は実朝自身さえ自分の死をはっきりと知っていたと書かねばならなかったか。」
「吾妻鏡」の編者たちに、実朝が亡くなるまでの一連の場面、あそこでどうしても歌を詠ませたかった、幕府問注所の役人たちの心根と想いがあったのではないかと、小林秀雄は続ける。

というのは、そもそも実朝が、そこまでするような役者じゃなかったということだからだ。

それは、実朝の歌を読んで行くとわかる。

「萩の花くれぐれ迄もありつるが月出でて見るになきがはかなさ」

建保元年8月、和田合戦の頃に実朝が詠んだ歌である。
実朝の、大好きな大好きな、和田義盛が亡くなった後だ。

実朝の歌を挙げていこう。

「世の中は鏡にうつるかげにあれやあるにもあらずなきにもあらず」

これは私はかなり好きな歌である。
この概念の歌に対し、香川景樹は「鎌倉の右府の歌は志気ある人決(た)えて見るべきものにあらず」と評し、子規をカンカンに怒らせたそうだと、「歌 話」に書いてあると小林秀雄 が記している。

雄々しい歌でもない。おおらかな歌でもない。 
実朝が詠む歌は、「悲しい歌」である。

「時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめ給え」

実朝、二十歳の時の歌である。
建暦元年7月の大洪水の時に詠んだ歌だ。
ただただ、実朝の「祈り」である。

「うば玉ややみのくらきにあま雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる」

「黒」という題詠である。

「鎌倉殿の13人」の、実朝と重ねてみて、どう思われるだろうか。
実朝、その早熟 で純粋な魂。
ただただ悲しく、しかし 真っ直ぐな魂。

小林秀雄の言葉を引用する。
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「努めて古人を 僕らに引き寄せようと考えようとする、そういう 類いの試みが、果たして僕らが古人と本当に親しむに至る道だろうか。
必要なのはおそらく 逆な手順 だ。
実朝 という人が、まさしく 700年前に生きていたことを確かめる為に、僕らはどんなに沢山 なものを捨ててかからねばならぬかを知る道を行くべきではないのだろうか。」
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「鎌倉殿の13人」の脚本を書いた、三谷幸喜さんは、まさに、多くのものを捨てただろう。 
そして 視聴者である私も、多くを捨てさせられた。
誰かの忘れられないツイートがある。
「我々は、きっかり 毎週日曜日を非常に楽しみに 感じ、きっかり毎週日曜日、絶望させられるために これを観る」
まさに まさに、そんな感じで毎週見ていた。
そして最終回で、思いっきり泣きながら、「お疲れ様でした。小四郎」と、尼将軍と同じ言葉を思った。

たくさん、人が死んだ。
小四郎が数えただけでも13人である。
その他大勢を含めれば、山ほど人が死んだ。
頼朝が逃げてきて北条と行動を共にし、やがて 鎌倉に拠点を置き、頼朝から続いて実朝の時代まで3代にわたり、そしてその先北条が鎌倉を継いでいく。
「私の名が汚れれば汚れるほど、北条泰時の名が輝く」
最後 小四郎は、死に際に際しそう言った。
小四郎は自らがすっからかんになるまで山ほどのものを失い、その手から捨て、鎌倉を守ったのだ。

こんなに 失くした人を私は知らない。 
いや 、もう一人いる。
実朝 である。
実朝は早くして自分の死を予感し、そして その心を歌に託し、いや、歌に書き捨てた。
実朝の詠む歌は、ただ悲しくそして 早熟 で、圧巻である。

私が「鎌倉殿の13人」を観て、一番何を捨てたかと言うと、自分の見栄である。
自分の見栄もくそもヘッタクレもなく、私は毎回毎回 泣いた。
全身で泣いた。
かっこつけて見られる番組ではなかった。
顔中 鼻水でぐちゃぐちゃにした。
最終回を経て、あるものは素っ裸になった爽快感と感謝である。

小林秀雄の言葉を引用する。
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「西行が、青春の悩みを、一挙に解決しようと心を定め、実行の一歩を踏み出した年頃には、実朝は既に歌うべきものをすべて歌っていた事を考えるがよい。」
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「金槐和歌集」(実朝の歌集)の一番 ラストの歌を記しておく。

「山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」

「鎌倉殿の13人」の中で、後鳥羽上皇に実朝 が贈った有名な歌である。
小林秀雄の言葉を引用する。
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「「金槐和歌集」は、この有名な歌で終わっている。この歌にも何かしら永らえるのに不適当な無垢な魂の沈痛な調べが聞かれるのだが、彼の天びんが、遂に、それを生んだ、巨大な伝統の美しさに出会い、その上に眠ったことを信じよう。
ここに在るわが国語の美しい持続というものに驚嘆するならば、伝統とは現に目の前に見える形あるものであり、遥かに想い見る何かではない事を信じよう。」
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小林秀雄の時代からまた時が経ち、私たちはテレビで3 Dなどを使った、とてもリアルな「大河ドラマ」を観ることができている。
役者さんの演技は秀逸で、胸を打つ。
「伝統」というものの持つ力。それに感動した人間の持つ、波及させる創造の力。
「吾妻鏡」から始まったこの物語は、三谷幸喜さんの手を経て、錚々たるメンバーの役者 さんたち、そして スタッフの皆さまのお陰で、「鎌倉殿の13人」という一つの世界になったのだった。
そして私たちは、「令和」という 年号に生きているというのに、真剣になって「鎌倉時代の心配」ばかりした。

「「吾妻鏡」の文学は無論 上等な文学ではない。だが、史 家の所謂一等史料「吾妻鏡」の劣等な部分が、かえって歴史の大事を語っていないとも限るまい。」

三谷幸喜さんの描いた「鎌倉殿の13人」は、翻って、まさにこの事を成し遂げたのではないだろうか。
文学(ドラマ)の、美の深浅。
私はこれを、「鎌倉殿の13人」の中に見た。

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