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家族2〜祖父〜

祖父の家族構成

祖父は確か4、5人兄弟がいたと思います。
私がお会いしたことがあるのが
長男で本家に住んでいる兄と、
少し離れたところに住んでいる姉でした。
本家のすぐ近くに祖父が家を買ったため
本家のお兄さんとそのお嫁さんは
私の実家のすぐ近くに住んでいました。
私もよく本家へ遊びに行っていたので
おっちゃんとおばちゃんには
よく可愛がってもらっていました。
田舎が故なのかもしれませんが、
祖父母も母もそして私も
親戚付き合いはきちんとしていた方だと思います。
祖父と祖父の兄弟の関係は
良好だったと思います。
どちらかと言えば口うるさいタイプでしたが、
しっかりされていた兄姉だった印象です。

祖父の生い立ち、性格

祖父の幼少期の頃の話は
あまり聞いたことはありません。
祖父が亡くなった時に
お葬式で使う写真を
本家の方から拝借した時に
初めて30代の時の祖父を見たのですが、
もうすでに私の知っている
おじいちゃんのままでしたね。
30代の頃からしっかりとした
波平さんヘアーでした。わら。
性格はいかにも昭和な人という感じでした。
どちらかというと寡黙なほうで
威厳なお父さんだったようです。
性格的には亭主関白タイプなはずなのですが、
祖母が圧倒的に家事が苦手な人だったが故に
家事全般から日曜大工まで
全てをこなす超人のような人でした。
料理も得意で、THE男の料理でしたが
おせち料理からカスタードの大判焼きまで
作れないものはないんじゃない?という程
色々なものを作っていましたね。
祖父の男めし大好きでした。
基本的には寡黙な人でしたが
根はわりとひょうきんなところも多く、
よく孫の私には冗談を言って
笑いかけてくれたイメージが強いです。
歳をとると丸くなるというやつなのか、
私が溺愛されていたのか…。
どちらにしろ
祖父が私にたくさん話かけてくれて、
無邪気な笑顔で笑いかけてくれていたことは
私の大切な宝物です。

祖父との思い出

私の実家は昔ながらの畳の家でした。
私が幼少期の頃、畳にお漏らしをしたそうです。
娘の母達なら怒られていたようですが
孫の私には“またおじいちゃんが畳作るからええよ“と
すぐに許してもらえたそうです。
(当時、祖父は畳を作るお仕事をしていました。)
内孫の初孫にはやはり甘々ですね。
私の実家は五右衛門風呂が故に
沸かすのに手間がかかるため、お風呂は2日に1回でした。
私が中学生になるタイミングで
“妙香も毎日お風呂に入りたいやろう…“と
祖父がお風呂を改装してくれました。
ほぼ自分1人で作業していたと思います。
ほんとうに何でもできる器用な人でした。
20代の頃、地元では自分の車を所有していたのですが、
大阪に出てくる1年ほど前に事故で廃車にしてしまい、
1年ほど車なしの生活をしていました。
仕事の通勤や、遊びに行く時は
母にも送り迎えはしてもらっていたものの、
7割ほどは祖父に送り迎えをしてもらっていました。
私のお願い事は何でも聞いてくれる優しい祖父でした。

祖父とのお別れ

祖父が70代前半の頃、
心臓の病気が発症しました。
心臓の癌のような珍しい病気でした。
元から血圧が高かったのもあって、
血圧が高くなるとしんどそうにしていました。
祖父が病気を患っている最中に、
叔母が闘病生活を送っていました。
自分も体が充分に動かないのに、
よく病院へ付き添いに行っていました。
やはり家族思いな祖父です。
病気も進行していき、自宅と入院を繰り返していました。
私は月1〜2回ほど地元に戻り、
祖父に会いに行っていました。
祖父と最後に交わした会話が
ずっと私の心に残っています。
私が帰り際に
“ほな、また地元帰ってくるわな。“と言うと、
祖父は
“いつも、すまんなぁ…。“と返してきました。
私の負担への労いの言葉でした。
申し訳なさそうにこう言った祖父が
頭から離れません。
本当はもっと明るい会話でお別れしたかったのですが、
うまくいかないものですね。
こうして祖父とお別れしました。

私をいつも甘やかしてくれる祖父。
たまに口うるさく、耳を塞いだこともありました。
それも私を思ってのこと。
いつも私のわがままを受け入れてくれました。
たくさんの愛情をありがとう。
私はあなたの孫で幸せでした。
おじいちゃん、大好き。


家族3〜祖母〜へ続く…

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