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母は強し!

日常を知る

 2016年4月14日、16日の熊本地震で実家は全壊。母親が生き残ったことに感謝して、わたしは自分の母校で避難者のための医療支援活動を行いました。(その時の支援活動についてはこちらをご覧ください。)私の実家は、母校の小学校の目の前にあります。つまりいつも全壊した自宅を横目に活動を続けていました。

全壊した自宅の中

 この写真は、1回目の震度7の直後の写真です。家の中はもう靴なしでは入れない状況でした。この写真を撮った時にはまだ、2回目の震度7がくるとは思ってもいませんでした。2回目の震度7の後、2階への階段は落ちて、いつ屋根が落ちてきてもおかしくない状況でした。余震が続く日々、とても家の中に入るなんて考えられない状況。玄関も崩れていたので、簡単には入れませんでした。

玄関の屋根は今にも落ちそう


 ある日、家の近くを通ったら、中からテレビの音が聞こえてきました。もちろん家に入れる状況ではありません。私は、きっと余震のはずみでテレビの電源が入ったのだろうと思って疑いませんでした。しかし、それは、思いもよらないことが原因でした。母でした。小学校の避難所にいた母が家に帰って、テレビを観ていたのです。当時82歳の母がどこから、どうやって入ったのか全く分かりませんでした。そして、何よりわからなかったのは、当時頻発していた余震にだれもが3回目の震度7があるのではないかと怯えている中、余震でいつ壊れるかわからない家の中に入ることは、「死」に直面するリスクを孕んでいるのに、なぜそこまでして入るのか・・・。
 私は、ひどく母を叱りました。生き残った人たちを助けるために、私たちは今、必死になって支援活動をしているのがわからないのか!と。もう、本当に怒り心頭でした。それに反して母は、私に叱られてもどこか遠い目をしていました。なんで・・・・?私は、母の気持ちを落ち着いて考えてみました。死ぬかもしれないのに、家の中に入る理由がわかりませんでした。
 ある日、私は、実家の前に戻ったとき、ふと「ただいま」と言いたくなりました。その時、そうか、母はただ単に、約40年住んだ家に帰りたかっただけなんだ!普通の日常に戻りたかっただけなんだ!と、年老いた母の気持ちが痛いほどわかりました。そして、怒りに任せて母を責めたてたことを後悔しました。日々、何気ない日常の積み重ね、それがいかに貴重であるか、そして脆いものか、私はこの時、崩れかけた実家の前で悟りました。

母は今・・

益城町の復興住宅

 あれから6年、母は88歳になりました。2年前の4月に、益城町の復興住宅に仮設住宅から引っ越して一人で穏やかに暮らしています。孤独感と閉塞感が半端ない仮設住宅での4年間、この間に父を見送りました。ほんとうによく頑張ったと思います。コロナ禍でもあったので、孤食でも大丈夫なように、おいしいスープやレトルト食品を送りました。食品が届いたかどうか電話をしたら、なんと近所の人をあつめて、それをふるまって食事会をしてました。あきれている私に、「○○さんも欲しいって!」とご近所さんの追加注文が入る始末。昨年秋には子どもや孫を強制的に招集して、自ら米寿の祝いを強行しました。祝いの席には、自分の着物を作り直したワンピースを着ていました。バックはワンピースとおそろいの生地。若い頃、呉服屋を経営していた気概さえ感じましたが、頭はボサボサでした。

「自分の軸はまだ持ってるつもり!」

 
 今年、6月、母から「寂しい」と電話がありました。寂しいので、介護保険のサービスを受けたいとのこと。しかし、「年寄りのデイサービスみたいなものには行きたくない!」と。「もう十分年寄りじゃないの?」と言いたくなる気持ちを抑えて、「シニアの体操教室とか色々あるから相談してみたら?」と、ただ、「年寄り」を「シニア」に「デイサービス」を「体操教室」と言い換えて、今まで頑なに介護保険サービスを拒否していた母に勧めました。
 6月末、寂しいと言っていた母に会いに行こうと思いあぁ、るよ!」と電話しました。そうしたら、
「帰って来んでもよかよ。あんたも忙しいだろうけん。」
「私は、まだ、自分の軸というものは持っとるつもりだけん!」と。

「はぁぁ?」

 介護保険サービス拒否の次は、なんと私の帰省拒否でした・・・。
母の気持ちを尊重して帰省は見送り・・・。
コロナの感染者数が拡大するなか、やっぱり帰っておいたほうがよかったかな…と思う毎日です。次はいつ帰れるかな・・・・。

それにしても、
母は強し!


 



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