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援助を受ける側にもプライドがある

熊本地震 故郷で学んだこと

美しい故郷 益城町


 2016年、8月、熊本地震から4か月後、初めて九州に来たというAMDAのスタッフに熊本の美しさを見せたくて、阿蘇五岳を一望できる大観峰を訪れました。お釈迦様の寝姿にもたとえられています。熊本は「森と水の都」と言われています。近くにある白川水源では、毎分60tもの水が湧き出ています。私の故郷、益城町は阿蘇から車で40分ぐらいかな・・・。私が益城町に引っ越してきたのは小学校1年生の時。最初に飲んだその湧き水の味が、今までの水とはなんか違う、と感じたことを今も忘れていません。中学校のグランドには直径2mほど、高さ2mほどの大きなタンクの周りに穴が開いていて、そこから水が24時間、吹き出しっぱなし。部活の後には、みんなそこで頭も足もバシャバシャ洗ってました。民家の庭には湧き水を受ける水槽があって、上段ではスイカや野菜がいつも浮いていました。だから私は岡山に来るまで、「水道代」なるものがあることを全く知りませんでした。つまり水はタダだと思っていました。

全壊した実家

 2016年4月14日、そんな美しい益城町を震度7の地震が2回も襲いました。地震で水は断水。美しい益城町は、地震で大きく破壊され、もはや私の知っている益城町ではありませんでした。前震の後、岡山からやっとの思い出たどり着いた実家。一目で「ダメだな・・。」と思いました。いつ倒れてくるかわからない家の中で、何を持って出たらいいのかさえ、検討もつきませんでした。
 両親が命拾いしたことを感謝して、私は母校の広安小学校の保健室を医療救護所として、AMDAの支援活動を行う許可を教頭先生からいただきました。

 前震の後、広安小学校の保健室ですぐに医療支援ができるように、レイアウトを整えて、AMDAの後続のチームを待ちました。夜10時過ぎ、渋滞の中、やっとAMDAの医師、看護師、調整員が到着しました。その時の大きな安心感を私はこれからも忘れることはないでしょう。広安小学校の教室を巡回して、避難者の健康状態の確認をしました。そして、ホテルに戻って寝ようとしたとき、2度目の震度7(本震)に襲われました。

震度7より怖かった突き上げる恐怖


 4月16日、1時25分、あぁ、もうここで人生終わった!と思いました。テーブルの下に隠れて、なんてとてもできないくらいの揺れ。四つん這いになって、ただ揺れが収まるのを待つしかなかった・・・・。でも本当に怖かったのは、その後。後続できてくれたAMDAのチームのだれかが犠牲になったかもしれないという恐怖。誰かを巻き込んだかもしれない・・・。全員の無事を確認するまでの時間が何より怖かった。ホテルの外で避難している間に、震度6弱の前に空が一瞬青く鋭く光ったのを今でも覚えています。

 夜が明けて、広安小学校の教室と校庭には、車中泊も含め多くの避難者で溢れました。小さいころから可愛がってもらっていた近所のおじちゃん、おばちゃんが、高齢になって過酷な避難生活を強いられている姿をみるのは、本当に忍びない思いでした。母も言ってました、「この歳になって、こんな思いをするとは・・。」と。
 AMDAはその後、6月末まで、広安小学校で緊急医療支援活動を続けました。その間、延べ127人の医療者並びに調整員が全国各地から集まり、延べ2506名の避難者の方々の健康を支えました。私にとっては故郷ですが、ほとんどのボランティアの方々にとっては初めての地。それもとてつもない余震が頻発し、誰もが3回目の震度7に怯えていた頃です。ご本人もそうですが、そのご家族もよく理解して送り出してくださったことと、感謝に堪えません。

援助を受ける側にもプライドがある


AMDAには人道支援の3原則があります。
1.誰でも人の役に立ちたい気持ちがある。
2.この気持ちの前には国境、民族、宗教、文化などの壁はない。
3.援助を受ける側にもプライドがある。

この3番目の大切さを私は、広安小学校の校長先生に教えてもらいました。

世界に一つのランドセル

震災直後、学校は閉鎖していましたが、学校再開の話が出てきたころ、子どもたちのランドセルのことが気になり、私は、多くの方に呼びかけてランドセルの寄付をお願いしたらどうかと思いたちました。私の頭の中で「ランドセルプロジェクト」が始動し始めて、喜んでくれる子どもたちの笑顔も勝手に想像して、色々なアイディアが次々と浮かんできました。
 しかし、そんな時、広安小学校の校長先生が、

「俺は、瓦礫の中にもぐってでも、小学校1年生のランドセルを取り出してやりたか!(やりたい!)」と仰いました。

私は、頭をガンっと殴られたような気がしました。2003年からAMDAに入職して以来、様々な場面でAMDAの人道支援の3原則を語ってきました。
しかし、実は、まったく心でわかっていませんでした。

 前震発生まで、小学校1年生が入学式以来ランドセルを背負って学校に通ったのは、学校行事などもあったため、わずか3日ほどでした。
入学の半年以上も前から多くの新入生は、おじいちゃんやおばあちゃん、ご両親から買ってもらったランドセルを大切にして、時には枕元において入学の日を夢見ていたはず。そんな世界に一つのランドセル、他に代わりがあるはずありません。他の学年の子どもたちのランドセルにも今までの思い出がしっかりと詰まっているはずです。そうです、援助を受ける側にもプライドがある。もらえるものなら何でもいいというものではないはずです。そんなことにも気づかないなんて、慢心していました。私は、ランドセルプロジェクトをやめました。

 その後も、「援助を受ける側にもプライドがある」という三原則を紹介するたびに私はこのことを思い出し、自分自身にも言い聞かせています。

おまけ


学校が「学校」にもどった日

みどりのおじさんは校長先生


 広安小学校の校長先生は、本当にいつも児童のことを深く考えていらっしゃいました。震災後、5月連休明けに学校が再開しました。校長先生はいつものように校門の前でこどもたちを出迎えました。まるで緑のおじさん!。私たちAMDAのスタッフも校門で出迎えました。

特別な「おはよう」


 学校再開の取材にきた報道の人が、校長先生に話しかけるのを私は見てました。「校内の取材許可をとりたいのですが、校長先生はどこにいらっしゃるかわかりますか?」と。そうしたら、校長先生は、「校内に教頭先生がいらっしゃるので聞いてくださ~い!」と。
校長先生の返答に感心した私に、「俺はうそは言うとらんもん!(うそは言ってないよ!)」と、茶目っ気たっぷりに笑い返す校長先生。
 その後の全校生徒への校長先生のお話は、優しさと子どもたちへの愛に溢れていました。AMDAのスタッフもみんなで感動を分かち合いました。学校全体がこれから頑張ろうという気持ちになった瞬間でした。



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