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【散文・考察】詩や短歌の経過観察(2022/11末)

短歌を始めて約7か月がたった。
6か月経過は以下の通り。

前回、飽きた、と書いた。
そこでいろいろと変えてみた。
まず、毎日更新でやってきたけれど、やめた。

回数はこなすことで得られるものはあったけれど、本来の目的から離れていることに気が付きつつも、毎日更新の罠にはまったのだった。こころが止まってしまった。枯渇した。楽しくなくなった。
やめたことで、余裕が生まれ、こころにも余裕がうまれた。向き合える時間が増えた。深く潜れるようになった。縛りがなくなったことで、更新優先から作品優先となった。

短歌の作りかた、視点、描こうとする世界のポジションを変えた。
感覚的に変わったと思う。それが短歌に反映されているかはわからない。
世界を響かせる、という感覚を、もっと深く潜って、誰もいないような世界を鳴らすように、世界に振動を与えて、静かに広がるように。

詩のほうも変わった。
世界を瞬間的に召喚するために、ということだったけれど、いままでは脳の中で視覚的に現すことをやってきたけれど、視覚的ではなく、感覚世界の中に現すにはどうしたらいいのだろう、と変えてみた。
新しい取り組みは楽しい。そのうちまた壁らしきものにぶつかるだろうけれど、そこまでこの方法でやっていきたい。

短い文や言葉をずっと書いていると、長文の世界はどんなだったろうかと思い返すことがある。ときどき、読んで見ようと試みてみることもある。

いつもながら文章の好き嫌いが激しいので、数ページ分を読んでその文章を読むか読まないか判断しているけれど、詩や短歌をずっとやっていると感覚が少し変わったようだ。

その小説にもよるけれど、文章を飾っている表現が過剰というか、余計に感じてしまう。もちろん、そういったものがその書き手の色であり、世界であり、リズムであるけれど、ちょっと邪魔だな、となってしまうことがある。

短い文の世界では、それらをできるだけ外した世界なので、そう感じてしまったのかもしれない。そっちの世界に浸ればまた感覚のは戻るのかも。

あるいはネットや効率の世界に感覚が浸った結果、長文耐性が衰えたのだろうか。小説をよく読んでいたころは、好きな作家を見つけて、その人の作品をひたすら読んでいた。作品によっては合わない作品もあってつまらないと感じるものもあるけれど、最後まで読むということはしていた。

いまはしない。


最近、頭の片隅に思っていること。

言葉で表現するとき、言葉は主役なのか。

当たり前じゃないか、と思うかもれないけれど。いまの感覚としては、表現しようとしている先頭を言葉が歩いている。その後ろの世界を感じている。という仮定。

もともとが言葉そのものにこだわりがあるわけではないので、そのような感覚になるのかもしれない。


とにかく、静かな環境で静かな精神環境で没頭できたら、と思う師走。


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