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『妊娠カレンダー』小川 洋子 著

図書館で時間調整をしたついでに目についた本を借りた。

妊娠した時のことをじっくり思い出してみる。

妊娠によって身体が変わり五感が変わり嗜好が変わり生活が変わり、なにもかも破壊されていくような心持ちになることは確かにあったとおもう。

希望と隣り合わせで常に不安がつきまとっていた。
妊娠していないより身も心も不自由だった。

そこに光を当てるとこんな暗い透き通った狂気のようなのが抽出されるのだろうか。

受診して妊娠が確定すると母子健康手帳が配布される。
特に留意すべき所見がなければひと月に一度検診に通い、体重や腹囲を計測し手帳に記入する。

妊娠は第何週という数え方で、カレンダーの何月何日とは違う暦で運用される。
それはたぶん、妊娠カレンダーだ。
妊娠は非日常なのである。

妊娠するとおかしなものが食べたくなった。

三人目の子どもがお腹にいた時につわりで何も食べたくなくなった。
友だちの家に遊びに行ってお昼ご飯の時刻になった。
友だちは、イトメンのチャンポンメンを規定の半量の湯でクタクタに煮て、顆粒のスープもごく薄い味付けにして卵を落とし、おじやのようにかき混ぜた。

私はそれを美味しい美味しいと平らげた。

ここまで下書きしてあって、今朝たまたま某noteにコメントして、いただいた返信を読んで妊娠出産でようやく思い出したことを。

初めて出産するころに夫の立ち会い分娩が流行り始めた。
私たちは確認しあうまでもなくスルーした。
私は、夫は怖がりだから血を見るのは嫌だろうと思った。
私は私で、独りでやりたかった。
実際には医師や助産師や看護師がいるからたった独りじゃないけれど。

二人の子どもには違いない(たぶん)けれど、出産は私の身体に起こる極めて個人的な体験だから、誰とも共有できないと思った。
励ましてもらいたいと思わなかった。
そんなことで許してもらえると思うなよ、こっちは死ぬかも知れないのだ!

この気持ちはうまく言い表せなかったけれど、ずいぶん後になって飼い猫のお産に立ち会って合点が行った。

猫を自宅で出産させるなんて!
そこは見なかったことにしてください。

お産が始まると、飼い猫のくるみはお尻から胎盤のようなものを垂らして私の足に擦り寄って来た。

その姿があまりに痛々しかったので何かしてやりたくなりお腹を撫でようと手を出した。

するや否や、くるみは私の腕に噛みつき前脚の爪でかき擦り、後ろ脚を高速回転させて連続パンチの猛反撃をしてきた。

怯んだ私から秒速で離れ、私がお産のために用意してあげた段ボールに飛び込み隠れてしまった。

様子を窺おうと近寄るとこの世の全ての恨みを込めた狂ったような声で呪わしく鳴いた。

私は仕事があり家を出て行った。
この状況で?これも見なかったことにしてください…

帰宅するとくるみはたった独りでちゃんと六匹の仔を産んでいた。
身体はきれいに舐め取ってあった。

それはそれは幸福そうに満ち足りた顔で横たわっているのだった。










※以下は下書きの部分を残しました。

長男を出産するころにぼちぼち夫の立ち会い出産が始まった。
私たち夫婦はイメージ的なことより安全であることを重視したので(倹約的でもあった)国立の大学病院を選択した。

当時は地域医療連携は始まっておらず、一般のお産でかかるのに特別な料金は発生しなかった。

それどころか国立病院は町の開業医と比較して出産費用が抑えられたのだ。

特に治療や看護が必要な妊婦でなくても、母乳育児を推進するなど特長を持たせてあってかかりづらいということはなかった。

医療は先進だが夫の立ち会い出産は受け付けていなかった。
私たちは立ち会い出産をするつもりがなかったので問題はなかった。

夫は怖がって(そうとは口にしないが顔に書いてある)、私は一人で好きなように産みたかった。

二人の子どもには違いない(と思う)が、私にとって出産は私の身体だけに起こる個人的な出来事だと思った。

変なタイミングで励まされたり、そんな余裕はないかもしれないが予想外に不安な顔つきをしているのを垣間見たりしたら要らぬ気を使うやらしれぬ…
私は私の身体に起こるこの一大行事に集中したいのだ!

と考えたのだと思う(記録してないので後付けの理由)

それは正解だった。

陣痛室で規則的に襲ってくる正体不明の破壊的な痛みに一人で耐えていたが、時々(適当なタイミングではないのだろうが測ってないからわからない)助産師が様子を見にやってきた。

その気配がしただけで少なからず緊張してお産が始まることを忘れたような気持ちになった。
余裕かましていた。
助産師は励ましたり褒めたりしてたいてい

まだまだですね!

と微笑んで立ち去った。

と、たちまち痛みが再来して壁をどんどん叩いたり、意味不明な呪詛の言葉を呟いた。

痛え。
痛えぞ、くそっ!

とかなんとか。
下品さにお里が知れるというものである。

夫がいたらどうだったろうと思う。
きっと甘えに甘えてより下品に夫を罵倒しただろう。
どうにかしろ!と言っても何もできない夫を逆恨みしたかもしれない。

そんな姿を見せなくて良かったよ、イトシのマイ・ダーリンに。

とここまで記述して、わた赤ちゃんにあったようなスタンダードな妊娠・出産は共有されないことに改めて気づくのであった。

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