赤い縁取りのある淡いグレーのブレザーコートの思い出
昨夜洋服のことを書いて、そのあと眠りにつくまで洋服のことを考えていました。
今でも目をつぶれば脳裏に浮かぶ、手に入れられなかったグレーのブレザーコートの思い出…
私より19歳しか年上でない母は洋服が好きで、私が小学生の昭和40年ころにGパンを穿いて、革製のジャケットを着ていました。
当時は独身ならまだしも、子どもがいる母親がGパンを穿いているのは珍しかったと思います。
あまり裕福じゃない家なのに、私が小学校に入学する時には、前見頃に見事な刺繍を施したカーディガンと、いかにも品の良さそうなフラノのプリーツスカート、その頃高価だったタイツを揃えてくれました。
それらは私鉄で二駅の大宮の町で買っていました。
今でこそ新幹線が通る新都心大宮ですが、当時の西口は舗装すらされておらず、駅前から日進方面行きのバスが土埃を舞い上げて発着していました。
東口は発展していて駅前のすずらん通りや、一番街に大小様々な商店が立ち並び、中央デパートや長崎屋もありました。
人も店も格段に増えていますが、東口の風景は現在とあまり変わらないように思います。
小学六年生の年末に、母と連れ立って上野、御徒町界隈に正月を迎えるための食料品の買い物に出かけました。
まだ大宮にスーパーマーケットが出店しておらず、食品や日用品は近所の商店街で買い物をしていましたが、東京下町出身の母は、毎年の暮れ正月用品は上野アメ横で買い求めていました。
食品の買い物が済んでから、私にブレザーコートを買おうと、上野の松坂屋に連れて行ってくれました。
初めて訪れた東京のデパートの規模の大きさと華やかさに驚き、子供心に胸が高鳴りました。
私は身体が大きかったので、子供服ではなくティーンエイジャーの売り場で見繕いました。
売り場にはさまざまなデザインのジャケットが色別サイズ別にズラリと並んでいます。
あまりの品数の多さに目移りしてしまうのでした。
そして見つけた、襟に赤い縁取りのある淡いグレーのフラノのブレザーコート。
とっても素敵で、すっかり魅了された私は試着して、テレビで見た事があるファッションモデルのように、鏡の前でターンして微笑んだりしました。
けれども、そのブレザーコートを買うことはできませんでした。
お正月の買い物でお金を使ってしまい、予算オーバーだったからです。
少し大人になっていた私は、ダダをこねるようなことはしませんでした。
家の経済状態のことも知らないわけではありません。
私よりずっと悲しげな母の表情に説得されて、胸の内で泣く泣く店を後にしました。
夕方のラッシュで混み合う京浜東北線に揺れながら、母は大宮のデパートにも同じようなのがあるよ、と言いました。
電車は赤羽川口間の荒川橋梁を通過していました。
きっとないだろうな…ないに決まってる。
そう思いながら
うん、そうだね。
と言いました。
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