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死ぬかも…と思った時に懇願したこと

9月4日金曜日、23時頃の出来事だった。
乗り換えのために駅のホームで並んでいた時、突然全身の血がサーっと引いていく感覚に襲われた。
『あ、やばい』
そう思ったのと同時に私は気を失って真後ろに倒れてしまった。
今ままでに感じたことのない強い衝撃が後頭部に走った。その衝撃で気が付くと、私の周りには4、5人の人たちがお水をくれたりと介抱してくれていた。意識もぼんやりとしていてまともにお礼も言えなかったが親切な方々のおかげで救われた。
私はもともと貧血を起こしやすい体質だが、気を失って倒れるほどではなかった。もしこれが駅のホームの最前列に立っていて、前に倒れていたかもしれないと思うと、ゾッとする。

何とか帰宅できて安心すると、アドレナリンが切れたのか倒れた時に強打した後頭部が激しく痛み始めた。外傷的な出血はないものの、強打したこともあり、脳内出血が起きていたらどうしようと凄く怖くなった。
このまま寝てしまったらもう目覚められないかもしれないという恐怖すら感じた。
大袈裟だと思うかもしれないが、その可能性が十分あることを私は知っていた。高校生の頃、『また明日ね』と放課後いつも通りに別れた同級生が、次の日には帰らぬ人となった。亡くなる前に頭が痛いと言っていて、その日のうちに急性くも膜下出血で逝ってしまったそう。人間の命はなんて儚くあっけないものだろうと、10代の私たちにはとてもショッキングな出来事だった。それをきっかけに、私は1日1日を大切に生きるように心掛けた。好きな人には好きと伝え、感謝の気持ちは恥ずかしがらずに相手にしっかりと伝え、できるだけ毎日を機嫌よく過ごすようにした。
いつ死んでも後悔しないように、未練を残さないようにと。
だが、いざ死の危機を感じた私には、この世界に後悔と未練しか残らなかった。もしかしたらこのまま死んでしまうかもと思ったとき、

『誰かに死ぬほど愛されたかった』『まだ死にたくない』そう懇願した。

成し遂げたい仕事や夢の実現ではなく、何よりも''愛''を望んだのだ。
今まで付き合ってきた人たちに愛されなかったわけではないと思うが、死ぬには到底足りなかった。私という人間ただ一人を死ぬほど愛してほしいし、私も、それほどの愛を相手に注ぎたい。
万が一その前に死ぬことがあれば、私はきっと成仏できずにこの世を彷徨うことになるだろう。(愛に飢えすぎ)

そもそも、それほどの愛を注げる相手にお互いが巡り合える確立はいったいどれ程だろうか…
日常の中ですれ違う人々や、カフェでたまたま隣に座った人。広すぎるこの世界の中で起こる出会いが、全て何かしらのご縁で出会っているのだとしたら、それをゆくゆく見過ごすのは勿体なさすぎる。
もし、病を患い余命を宣告されたら、きっと私は残りの人生を全力で楽しもうとするはず。素敵だなと思ったカフェの店員さんに番号を渡したり、偶然隣になった人にも声をかけられるだろう。
死を迎える時に、''自分は人生を一緒懸命に生きた''と思う為に。

だが例え余命を宣告をされなくても、人は必ず死んでしまう。
''明日、自分は死ぬ''と思って、今日という日を悔いなく過ごす毎日を続けたら、一体どれだけのドラマが日常の中に生まれるだろうか。

生きたいと懇願しても明日を迎えられない人がいる。
平凡で退屈だと感じるこの日々は奇跡の集合体であることを、手遅れになる前に気付き、大切にするべきである。

とはいえ、否定されたり傷つきたくないのも本音。
それらを恐れずに行動できる者だけが、本当の愛を手に入れられるのかもしれない。

人はいつだって愛を求め、愛に飢えている生き物だ。

makoto



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